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2月13日(月)_雨、ときどきピカソ

「雨だよ! 寒いよ! ピカソ日和だよ~!」


 放課後。

 ホームルーム直後の賑やかな教室。それもいつもよりも、そわそわとしたものだった。何かが訪れるのを待ちわびているような、そんな空気。

 そんな雰囲気にあてられることもなく、さて帰ろうかとリュックを背負った解人の元へ、くるるがやってきた。

 今日は確かに雨降りだ。

 それがどうして画伯に? と解人は首を傾げる。


「耳を削い……だのはゴッホか。違うね」

「だとしても削がないよ!?」


 くるるが慌てて両耳を押さえる。もふもふの手袋で彼女の顔が包まれていた。


「美術の居残りでもないよね。雨関係ないし」

「今日はもっと自由なお絵かきだからね。校内を制覇しようよ!」


 解人の頭の中で教室の壁や廊下にラクガキをするくるるの姿が浮かぶ。ペンキやスプレー缶を手に、教師の目を盗んで校内を練り歩く。

 誰にも止められないアートヤンキー、桜間くるる。


「桜間さん、不良に憧れでも?」

「ちょいちょい! そんな悪いことしないよ~! 探検のついでだってば~」

「探検……えっと、ピカソって画家のピカソだよね」

「そだよ? だから、お絵かき散歩してピカソになろうって流れでしょ?」


 くるるが廊下の方を指さす。解人は彼女の動きと言い方から一つの仮説を立てる。

 雨、お絵かき、彼女が示した先にあるもの。


「結露に覆われた窓に指でラクガキして校内を回ろう、ってこと?」

「そう! 寒い日といえば、これ、でしょ~」


 手袋に覆われた指先が空中に丸を描く。キュイッと音が聞こえてきそうな生き生きとした動きだ。


「やっぱさー、端っこから端っこまで全部の窓にラクガキしてったら……えへへ、楽しいでしょ? 絵しりとりとか、どう」

「絵しりとりかあ」

「やったことある?」

「まあ、あるといえば、ある」

「へへ、じゃあ勝負だね、勝負!」


 こうしちゃいられないとばかりに、くるるは教室のドアへと駆けていく。


「早くしないとみかんの絵描いちゃうぞー!」

「ああ、しりとりが終わっちゃう」

「いっそげ~」


 ぽてぽてと小走りで去るくるるの背中を解人は追いかけていく。

 教室に残っていたクラスの男子三人は、明日がなんの日であるかを考え、二人の和やかなやりとりを見て、賭けを始めた。


「明日には付き合う、にチョコ100個」

「もう付き合ってる、にマシュマロ300個」

「このまま付き合わない、に俺の魂を」


 三人目の男子がそう言うと、他の二人が両肩にポンと手を置いた。


「弔辞は読んでやる。文芸部の俺に任せろ」

「オレ水泳部だし泳ぎ方教えるよ。三途の川で溺れたくないだろ」

「お前らなあ!」


 ◆ ◇ ◆


 賭けの対象にされているとは知る由もないくるると解人は、自分たち一年生のフロアの端っこに来ていた。外へと繋がる防災扉の手前にある窓ガラスはばっちり曇っている。

 そして、意気揚々と教室をあとにしたくるるだったが。

 

「こ、これはあくまで探検だから、変な意味とか無いんだからね?」


 そわそわと落ち着かない様子へと変貌していた。

 ここへ来るまでにすれ違った生徒たちの口から発せられていた話題、教室の浮ついた空気。

 昨日買ったものを思い出すには充分だった。

 それからくるるは明日に思いを馳せて、テンションが迷子になっていた。


「もちろん解ってるよ」

「うーん、解ってるかなあ? ほんとに解ってるのかなあ?」


 ぶつぶつと呟きながら、くるるは手袋をとって透きとおるキャンバスに指を滑らせる。

 キュイキュイと音を立てて描かれたのはリンゴだ。しかし、普通の丸っこいリンゴではない。皮をウサギ耳に見立ててカットした、いわゆるうさぎリンゴだ。

 解人はこんなところにも彼女らしさがあるな、と思わず微笑んでしまう。


「これは分かりやすいね」


 分かりやすくうさぎリンゴを描けるってすごいな、と思いながら解人の指先は迷いなく窓ガラスの表面を走っていく。五秒と経たずに絵は完成した。


「はい、どうぞ桜間さん」

「……カイトくん、これは?」


 絵を見たくるるの動きが止まる。


「桜間さん、相手に訊いたら絵しりとりは成立しないよ」

「うん、私もね、それくらいは解るよ? でもね、それはそうなんだけどさ」

「……なにかおかしいところでも?」

「え~とぉ……」


 くるるの視線の先。結露を拭って描かれていたのは毛が生えた土偶のようななにかだった。

 二人の間に探り合うような沈黙がたゆたう。

 先に口を開いたのは解人だった。


「……ごめん桜間さん、俺、絵がニガテなんだ」

「そ、そんなことないよ! ただ、ちょっと個性的だなあって思っただけで! ご……ごはんでしょ、ごはん! 大盛りのごはんだね! ごはんつぶまで描いてあるし丁寧だなって思う! も~っ、しりとり終わっちゃうじゃ~ん」

「ゴリラなんだ……」

「うんうん、そうだよねゴリラだよね。ごはんだなんて私ってばお腹空いてたのかなあ~、アハハ! これはどう見てもゴリラだよね! ごはんつぶじゃなくてどう見ても毛並みを描いてるんだよね! わかる、わかるなあ」


 ばたばたとした動きを交えて、くるるが言葉を尽くす。しかし黙って聞いていた解人はついにギュッと目を瞑って唇を噛んだ。


「俺を殺してくれっ……!」

「カイトくんがご乱心だあ! わかった、別のゲームにしよ! 私が絵を描くからそれを当てるゲーム! ね! ほぉーら、これは、なんでしょーか?」


 くるるが慌ててガラスを指でなぞる。

 座布団のようなひし形の頂点から、ちょろっと波線が伸びているような、そんな絵を見て。


「…………エイ?」

「そう! 正解~!」

「桜間さん優しいかよ……」

「正確にはね、下から見たエイなんだ。海の底から見上げてさ、太陽の光がふわあって水の中で広がって、きらきらしてて、逆光のエイがゆっくり泳いでいる感じでさ。私はそのお腹を触ってみたくて手を伸ばすんだけど、ひらってかわされちゃうの」

「想像力、たくましすぎ」

「だって考えちゃうんだもん」


 二人はどちらからともなく笑う。


「ね、三年生の教室とか入っちゃおうよ。誰もいないよ」

「ああ、本当にヤンキーっぽい発想になってきた」


 さっきまでのギクシャクとした空気はどこへやら、二人は再びお絵かき散歩を再開する。

 一階、二階、特別教室棟を練り歩き、くるるの指先が冷え切ったころ、二人は並んで傘を差し、駅へと歩いて帰っていった。

 校内のあちこちの窓ガラスには二人のじゃれあいの痕が残っていた。

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