5.なろうエッセイ・批判系エッセイ(過去作は検索除外しているのでこちらから)
私的ブロック論
ブロックというのは一言で言えば「自分の場所で発言することを禁止する」ための機能です。逆に言えば、ブロックされるというのは「相手の場所で自分の発言を禁止される」たったそれだけのことでしかありません。
……まあそうですね、これを「相手に拒絶された」「相手の場所から締め出された」と感じてしまうのも、あながち間違いではないと思います。
実際、誰かをブロックする際は、相手があまり良い感情を抱かないであろうことは認識しておいた方が良いとは思います。ブロックされたのに気づいたときに「やったぜ!」と満面の笑みを浮かべる人は、あまりいないと思います。どんな理由があろうとも、ブロックされた相手は不快感を覚えると思いますし、それを相手や周りの人に納得してもらおうというのも虫のいい話かなと。その行為で誰かに嫌われてもいい、そんな時に使う機能であるのは間違いないと思います。
――でもね、それでもブロックは気軽に行って構わないと思うのですよ。
だって、ブロックというのは基本的に「この人に話しかけられたら嫌だな」「この人と話し続けるのは嫌だな」と思った時に使う機能じゃないですか。
その「嫌だな」という気持ちって、そこまで我慢する必要のない気持ちだと思うんですよ。
まあ、慎重になった方がいいという言葉も否定するつもりはありません。ブロックという機能はかなり一方的で、取り返しがつかないところはあります。見た瞬間はムッとするような書き込みでも落ち着いて読めばちゃんと筋が通っていることもあると思いますし、即座に書き込みを消してブロックすることで見直す機会を無くしてしまっているなんてこともあるかも知れない。それを惜しいと思うのなら少し踏みとどまって、そうですね、一晩寝てから考えるようにしてみた方がいい、そんなこともあると思います。
……それでもね、ブロックしたいと思ったのなら、気軽にブロックしてしまっても構わないと思うんですよ。少なくとも、自分の都合でブロックしてしまっても、何の問題もない。慎重になった方がいいというのも「自分が損をするかもしれないから」というだけで、相手の気持ちとか正しさだとか、そんなことは考えなくていい。
ブロックなんて、そんな大したことではありません。少なくとも、それまでほとんど言葉を交わしていない相手にブロックされたところで、実害なんて「双方ともに」ほぼ皆無なはずなのですから。
◇
誰かを嫌な気分にさせるのに、悪意はいりません。誰かに傷つけられたからといって、そこに悪意があるとは限りません。それは、言葉を広く投げかけるのについて回る、どうしようもない副産物です。
世の中には色んな人がいます。納豆が嫌いで、納豆の話題で盛り上がるのを見るだけで不快になる人もいると思いますし、地球が丸いなんて有り得ない、その目で確認するまでは地球が丸いだなんて信じないと本気で言う人もいます。
なろう小説はつまらないと信じてる人もいますし、なろう小説は面白いと信じている人もいます。私も、自分の書く文章でマザコン嫌いの人やメイド嫌いの人を苛立たせているかも知れません。自分の言葉が誰かを傷つけているかもしれないなんて、そんなことを言い出したらキリが無いのです。
価値観の違いというのは、思っている以上に厄介です。話せばわかるなんて言う人もいるかも知れませんが、それだって価値観の一つでしかありません。相手の書く文章を見れば相手の価値観はわかる、その時点で対話の必要性の有無がわかるんだから対話の必要なんてない、そういう考え方だってあるはずです。
話し合えばわかりあえる? ふざけんな、何を言われようと俺は納豆が嫌いなんだ。だから俺は納豆は嫌いだと毎日叫ぶし、それに同意しない奴には腹を立てる。お前が俺のことをどう思おうが勝手だしブロックしようがブロックされて気に病もうが俺は知らない。それはお前の自由だ。だけどな、したり顔で話しかけてくんじゃねえよ。俺はお前に話しかけられたくないという事実をまず分かれ。相互理解と拒絶は両立するんだよ。話せばわかるなんて言葉で勝手に対話をいい話にしてんじゃねえ、よくない対話も世の中には五万とあるんだと、そういう考え方だって、あっていいはずだと思います。
◇
例えば、アラーの教えを信じる人にキリストの教えを説いたところで、感動して改宗したりしないと思います。
「ウチのタマは一番かわいい」と言う人に「いや、ウチのポチの方がかわいい」なんて言ったところで、「すごい、本当にウチのタマよりかわいい!!」なんて返ってくることも、まずありえないと思います。
先に挙げた納豆嫌いの人もそうだし、地球が丸いと信じない人も同じです。納豆嫌いな人は納豆が好きな人のことを知らない訳じゃないし、地球は平面だと思う人は世の大半は地球が丸いと思っていることをちゃんと知っています。その上で、それでもなお、そう主張しているのです。
排他的だろうが偏屈だろうが少数派だろうが、それを主張するのが悪いことにはなりません。これらは皆、一種の宗教のような物です。他者に迷惑を与えないのであれば、一つの価値観として認められるべきもののはずです。
◇
ブロックという機能に悪意は紐付いていません。キリスト教徒がアラーの教えを遠ざけるときも、納豆嫌いな人が納豆好きな人を遠ざけるときも、単に「そういうのは他の所でやってくれ」という意思表示にしか過ぎないはずです。そこに悪意や攻撃の意図を見出すのは、本来なら無理があるはずなのです。
拒絶に、正しいも悪いもありません。価値観の違う人を拒絶する自由、嫌いな人と仲良くしない自由、創作に集中したいから井戸端床屋談義を振ってくる人を避ける自由、そういった自由は常にあるべきですし、目くじらを立てて否定すべき物でもありません。自分の好きに誰かを拒絶してもいいのです。
穏便な拒絶を考えるのは悪いことではないと思います。ですが、人との距離感という奴は、現実社会とインターネットでは相当に違います。全人類をお隣さんにしてしまうインターネットでは、現実社会で有効だった「物理的に距離を取る」という手段は使えません。その制約がある以上、ブロックのような拒絶する手段は、より必要になるはずなのです。
――だから、「ブロックと同時に悪意の発露や他者への攻撃を行わないのであれば」ブロックは気軽に使っていいと、私は思うのです。
◇
気軽にブロックしていいからと言って、同時に誰かを攻撃していいなんてことにはなりませんよね。もしそれを認めれば、それは「誰かを気軽に攻撃してもいい」という結果を産むことになります。でも、他者への攻撃は、気軽に行うべきではないはずです。――むしろ、ブロックしたら他者への攻撃は控えるのが筋なんですよ。
気軽にブロックしてもいいと言いながら、その相手をスクショで晒したりこんな酷い奴がいたと騒ぎたてる。そんな、自分にとって都合のいい「気軽にブロックしてもいい」と言う言葉はね、言う方も信じる方もどうかしているのです。
その人は、気軽にブロックしてるのではなくて、気軽に他者を攻撃しているのです。なのにそれを「ブロックの是非」にすり替えて正当な行為であるかのように見せかけている。そうですね、私も「ブロックは」自由にしていいと思いますよ。でも、そこに相手への攻撃が加わるのなら、話は別です。
そして今は、多分悪意も無いままに「こういう場合は相手が悪いからブロックしてもいい」「ブロックされる側にも理由がある」という言葉が広がってしまっている。
――ブロックが人を傷つけるのではありません。これまでなされてきた晒しのような行為やブロックされた側に責任をおしつけようとする風潮が、ブロックされた人を無益に傷つけるのです。
本当に、気軽にブロックをしていいと思うのなら、「こういう人はブロックしてもいい」なんて考えるべきではないんですよ。その考え方をする限り、ブロックされた人は悪者になるじゃないですか。なのに気軽にブロックしていいなんて、おかしいじゃないですか。
キリスト教、納豆嫌い、地球平面説、なろう小説はつまらない、ウチのタマは一番かわいい、世の中にはいろんな価値観があります。でもそれって悪者扱いしていいことですか? それは違うと、私は思います。
◇
ブロックはね、もっと気軽に使っていいし、もっと気軽に使われるようになってほしい。だからこそ、ブロックに余計な悪意や敵意を紐づける人が少なくなるといいなと、私は思います。
……というかまあ、ブロックを使うタイミングなんて、その時がくれば間違いなくわかると思いますし、変に身構えずに好きに使えばいいかなと。(まあ、初めはブロックされたことに気付いた時はビックリすると思いますが……)