呪われ公爵は愛せない
「初めに伝えておきたいのだが――――俺が君を愛することは無い」
ハルリーがそう宣言されたのは、結婚式の直後だった。
「愛することは無い……ですか」
大きな瞳をパチパチと瞬かせ、ハルリーは小さく首を傾げる。
フワフワの柔らかいストロベリーブロンド、雪のように白い肌、鮮やかに色づいた頬や唇、小柄で華奢な身体つき。男たちの庇護欲を擽る、未だあどけなさの残る少女だ。パステルカラーのウェディングドレスは、可憐な彼女に良く似合う。春の花々のような陽の気を身に纏った女性である。
対する夫、アンブラ・カドガンは、髪から服に至るまで、全身が黒色に包まれた大男だ。長く重たい外套を身に纏い、垂れた前髪が鋭い眼光を覆い隠す。目鼻立ちはスッキリと美しいものの、全身から放たれる闇のオーラから、自ら望んで近付く人間は存在しない。ハルリーとは正反対の性質を持つ男性だった。
「君のような若い女性が、俺のような恐ろしい男と結婚するなど、さぞ不本意だろう。領地のためとはいえ、気の毒だとは思っている。贅沢な暮らしは約束しよう。浮気もして貰って構わない。
その代わり、俺からの愛情は求めないで欲しい」
しばしの沈黙。ハルリーはまじまじとした表情で、アンブラのことを見上げている。
「他に何か条件が必要なら――――」
「構いませんわ」
花が綻ぶような笑みを浮かべ、ハルリーが大きく頷く。
「アンブラ様も、条件はそれだけで宜しいですか?」
「…………ああ」
穏やかで温かな空気。予測していたのではないかと勘繰ってしまう程に、彼女からは動揺の色が窺えない。
(彼女もこうなることを望んでいたのだろうか)
先程妻になったばかりのハルリーを見下ろしつつ、アンブラは心の中でため息を吐く。己の纏う暗闇が、彼女を蝕むような感覚に、ブルりと身体が震えた。
***
「おはようございます、アンブラ様っ」
陽光の如き満面の笑み。その光はあまりにも眩しく、朝から酷く胸焼けがする。
「――――本当に朝まで居座ったんだな」
「はい! アンブラ様の寝台はふかふかで、とても寝心地が良かったです」
ハルリーはそう言って微笑みつつ、嬉しそうに布団を抱き締める。
「……おまえの部屋の調度類は、俺よりも良いものを準備している」
「そうでしたか! ですが、わたくしの寝室にはアンブラ様がいらっしゃらないでしょう? ですから、明日も明後日も、わたくしはここで眠ります」
アンブラの意図することを明確に読み取りつつ、ハルリーはきっぱりと言い放つ。屈託のない笑み。けれど、そこはかとなく大人の色香が漂う。
「居座られたところで、俺はおまえに手を出さないぞ」
「ええ、それで構いませんわ」
そう言ってハルリーはクスクス笑う。
(解せない)
アンブラは眉間にそっと皺を寄せた。
「だったら何故、俺の寝室に?」
「夫婦ですもの。愛がなくとも一緒に眠って然るべきでしょう?」
キョトンと目を丸くし、ハルリーは小さく首を傾げる。
「それに、今は出さずとも、いずれはそうなさるでしょう? わざわざ借金を肩代わりしてまで結婚していただいたんですもの。ちゃんと跡取りは産みませんと」
「…………おまえ」
「わたくしに色気が足りないのは分かっております! ですから、こうして寝台を共にし、アンブラ様の気が昂った時を逃すまいと」
「いや……俺が言いたいのはそういうことじゃない」
眉間を軽く押さえつつ、アンブラは小さくため息を吐く。
「え? ……ああ! アンブラ様がわたくしを愛してくださらない、ということは存じておりますし、本当にそれで構いません。
ですが、わたくしがあなたを愛してはいけない、とは言われていませんもの。好きにさせていただきますわ」
柔らかな笑み。けれど、彼女の言葉は力強い。
(馬鹿な)
普通の人間は、自分を愛してくれない相手のことを愛そうとはしないだろう。人は皆、己が一番可愛い。自分は特別なのだと思わせてくれる相手にこそ寄り付くし、軽んじる相手のことは忌嫌う。関わり合いたいとすら思わない筈だ。
だというのに、ハルリーはアンブラを愛そうとしているらしい。
ニコニコと屈託のない笑みを浮かべたハルリーは大層愛らしく、余程の馬鹿男でない限りはコロリと恋に落ちるだろう。腕の中に閉じ込め、愛を囁き、周囲が呆れるほどに甘やかして、幸せにしようと努力するに違いない。
「――――時間は有限だ。無駄にしない方が良い」
アンブラが徐に立ち上がる。冷たい声音。けれど、ハルリーはニコニコと微笑みながら、彼の後ろに付いて回る。
「はい、一秒たりとも無駄にはしませんわ!」
縋りつく腕。白く柔らかい肌。アンブラの喉がゴクリと鳴る。
(あり得ない)
目を瞑り、静かにため息を吐いた。
***
ハルリーが嫁いできて一月。屋敷の中は見違える程、明るくなった。
「奥様、奥様!」
皆がハルリーを慕い、嬉しそうに声を掛ける。元々は主人であるアンブラ同様、物静かでどこか陰のある従者ばかりだったというのに、今の彼等は別人のように明るく、楽しそうだ。
淡々と仕事をこなすばかりの侍女も、遊び心のない料理人も、喋っている姿すら見たことのない庭師さえも、ハルリーが居ればニコニコと笑う。彼女を喜ばせるためにあらゆる手段を使い、とても嬉しそうに働いている。
(あいつら、あんな風に笑うんだな)
そんなこと、ハルリーが来るまで知らなかった。主人としては情けない限りだが、事実だから仕方がない。
暗い色合いをした重厚な調度類は、明るく華やかなものへと変えられ、屋敷の至る所に柔らかな灯りが灯される。花々の甘い香り。春でも雪の残る寒冷地だというのに、まるで常春のような雰囲気に包まれている。
「アンブラ様、見てください! 皆がわたくしのために用意してくれたのです。すっごく綺麗でしょう?」
腕一杯に花束を抱え、ハルリーは瞳を輝かせる。淡い色合いの美しい花々。けれど、ハルリーの笑みに勝るものは無かった。ふいと顔を背け、ため息を吐く。
その途端、使用人たちから容赦なく浴びせられる非難の眼差し。内に秘められた不満の声。アンブラはそれらを静かに受け止める。
(そう、それで良い)
皆がアンブラのことを責めれば、ハルリーの気持ちにも変化が出るだろう。感情というものは伝染する。周囲に同調するよう出来ているものだ。
「もしかして、花はお嫌いですか?」
気づけば目の前にハルリーが居た。人を疑うことのない純粋無垢な瞳。小さく首を傾げ、アンブラの顔を見上げている。
「それは――――――」
花ではなく、おまえのことが嫌いなのだ――――そう口にすれば、いくら悪意に疎いハルリーであっても、深く深く傷つくだろう。アンブラを避けるようになり、やがて嫌いになるだろう。
そうと分かっているのに、アンブラの唇は動かない。愛することは無い、と言いながら、強く拒絶することもできずにいる。中途半端な己を呪いつつ、アンブラは奥歯を噛みしめる。
「ほらほら、アンブラ様! そんな顔してたら幸せが逃げちゃいますよ」
そう言ってハルリーはアンブラの眉間をツンと小突く。次いで花が綻ぶような温かい笑みを浮かべた。
感情というものは同調する。良い意味でも、悪い意味でも。
(けれど俺は)
アンブラは、静かに首を横に振った。
***
「君がそんなに融通の利かない男だとは思わなかったよ」
呆れるような声音。ワイングラスを片手に、寛いだ様子で首を傾げる。幼馴染で伯爵位を持つ親友、リヒャルトだ。
「別に、融通が利かない訳では」
「利いてないって。だって、八歳も年下の可愛い奥さん貰っといて、同じ寝室で眠っといて、一回も手を出してないなんてあり得ない。女性に対してとても失礼だし、男としてカッコ悪いと思う」
首を横に振りつつ、リヒャルトは小さくため息を吐く。
「だからこそ、初めにきちんと『おまえのことは愛せない』と伝えたし、寝室は別にするよう説得しているのだが」
「だから! そこが一番馬鹿なんだって! 世の中には愛情のない夫婦なんて幾らでも存在するだろう? 政略結婚なんだし、わざわざ宣言する必要ないって。おまえにもそれなりの事情があるのは知ってるけどさ」
リヒャルトの言葉にアンブラはほんのりと目を丸くし、俯く。
(それなりの、か)
他人から見ればその程度の認識だろう。だが、アンブラにとっては違う。
目を瞑れば、暗く冷たい記憶が心の中を支配する。
幼少期から仲の悪かった両親。父が母を顧みることは無く、母はそんな父を毎日毎日責め続けていた。
『あなたと結婚するんじゃなかった! わたしの時間を返してよ!』
ハルリーと同じく、借金を肩代わりすることで結ばれた婚姻関係。それでも、人並みの幸せが手に入れられると信じていたのだろう。母親はいつも愛情に飢え、ヒステリックに泣き叫んでいた。そして、そんな生活に耐え切れず、アンブラが幼い頃に家を出た。以降、顔すら見ていない。
「魔女の呪い、だっけ? それって本当に子孫にまで継承されるもんなの?」
リヒャルトが尋ねる。好奇心と疑念の混ざり合った表情。アンブラは眉間に皺を寄せる。
「知らん。――――少なくとも、俺の両親は不幸だった」
それが全て。呪いというものは存在する。
アンブラの祖先は、とても美しい貴公子だった。公爵という地位も手伝い、実にたくさんの女性が彼へと群がったし、数々の浮名を流してきた。
けれどある日のこと、彼は唐突に恋に落ちた。後に、彼の妻となる女性だ。
愛を貫くため、彼はそれまでに関係を持った全ての女性との縁を断ち切った。その中の一人が暗黒の魔法を操る魔女だった。
魔女は彼のことを心から愛していた。そして、愛した分だけ、自分との関係を断ち切った男のことを激しく憎んだ。
『他の女を愛するなんて許せない! 幸せになんてさせない! あなたも、あなたの子孫も、皆不幸になれば良いのよ!』
魔女は男に呪いを掛けた。愛した人が不幸になる――――そんな呪いだった。
彼の妻は、男子を産んですぐに、流行り病で亡くなってしまった。
彼等の息子が愛した女性は、乗っていた馬車が崖から転落し、亡くなってしまった。
次も、その次の代も似たようなことが起こる。
呪いの効果を疑うには、それだけで十分だった。
以降、カドガン家に生まれた子は、決して誰も愛さぬよう、言い聞かされて育つようになった。己のせいで誰かが不幸になる――――そんな苦しみを味わわぬように。
アンブラは、結婚などするつもりがなかった。自分の代でこの呪いを終わらせよう――――そんな風に思っていた。
けれど、周りがそれを許さない。アンブラは公爵。力を求めて擦り寄ってくるものも多く、放っておくと縁談が山程持ち寄られる。
ならばと選んだ相手が、没落寸前貴族であったハルリーだった。仮に子を成さずとも、実家から口出しされることは無く、万事において御しやすい。そんな打算だらけの結婚だったのだが、今のところ悉く当てが外れている。
「全く、魔女も意地が悪いよね。どうせならさ、男の方が異形の化け物になっちゃうような呪いを掛けたら良かったのに。そしたら、魔女以外の女性は逃げ出して、独り占めできたかもしれないのに、って思わない?」
「…………そんな魔法があるなら、今すぐ俺に掛けて欲しい位だ」
そうすれば、ハルリーだって自分から離れていくだろう。アンブラを見つける度に瞳を輝かせることも、駆け寄ってくることも、花のような笑みを浮かべることだって、きっとなくなる。そう思うと、胸のあたりがチクリと痛んだ。
「でもさ、案外、君の奥さんだったらそれでも平気かもしれないよ。全然物怖じしないし、化け物を見たところでケラケラ笑ってる気がする」
「……どうだろうな」
ハルリーはこれまで一度も、アンブラの対応に怯んだことがない。どれだけ冷たい眼差しを向けようと、心無い言葉を浴びせようと、いつだって真っ直ぐに彼を見据え、それから花のように微笑むのだ。
「で? 本当に俺が君の奥さんにアプローチかけちゃって良いの? いくら自分から目を逸らしたいからって、やりすぎな気もするけど」
と、言いつつ内心ワクワクしているらしい。リヒャルトはニヤニヤと口の端を綻ばせる。
「…………好きにしろ」
胸の奥底から息を吐く。己の身体から闇が溶け出すような心地がした。
***
休暇の間、リヒャルトは公爵邸に滞在することになっている。
明るくて社交的な彼は、使用人達からの人気も高い。細やかな気遣い、労いの言葉、領地から持参した土産の数々。普通なら客人の滞在を厭う使用人達も、寧ろ歓迎ムードに包まれている。
(俺のような愛想のない主人より、本当はあいつのような人間に仕えたいのだろうな)
彼等は皆、生まれ故郷に対する愛着があればこそ、こうしてカドガン家に仕えている。けれど、どうせなら尊敬できる人間の元で働きたいと思っている筈だ。
しかし、アンブラにはそういった感情を、抱かせてやることが出来ない。ハルリーだけではない――――彼等のこともまた、アンブラは愛することが出来ないのだから。
「失礼します、アンブラ様」
書斎の扉が開き、ハルリーがひょこりと顔を覗かせる。
「どうした?」
仕事中に会いに来るのは珍しい。ぶっきら棒な言葉を返せば、ハルリーは穏やかな笑みを浮かべた。
「少し休憩にしませんか? お茶をご一緒いただきたいなぁと思いまして!」
後に控えていた侍女達へ合図をし、ハルリーは部屋の中へと入ってくる。軽く目を見開けば、彼女はニコリと笑みを深めた。
「……茶の相手ならリヒャルトが居るだろう?」
冷たく無口なアンブラと話すより、リヒャルトと語らう方が余程楽しかろう。
第一、客人のもてなしは、ハルリーに課された大事な仕事だ。真面目な彼女がそれを怠り、自分のところに来るなど信じがたい。
「リヒャルト様なら今出掛けていらっしゃいますわ。
それに、ここだけの話なんですが」
そう言ってハルリーは声を潜める。首を傾げたアンブラの耳元へと、ハルリーがそっと屈んだ。
「実はわたくし、彼のことがなんだか苦手で……」
「は?」
それはあまりにも意外なことだった。目を見開き、ハルリーのことをまじまじと見遣る。
ハルリーとリヒャルトの気質はあまりにも近い。底抜けに明るく華やかな二人。話題にも事欠かず、過ごしやすかろうとそう思っていた。
「ですからここ数日、少し疲れてしまって……。わたくしはアンブラ様と一緒に居ると、とても落ち着くのです。少しだけ、何も喋らなくて良いですから、側に置いていただけませんか?」
始めて見せる甘えるような仕草。どれだけ邪険にされても、ハルリーはいつだってニコニコと微笑み、アンブラに寄り掛かろうとはしなかった。ただ側に居て、優しくアンブラを見つめ続けるだけだったというのに。
「――――配慮が足りず、すまなかった」
知らず知らずのうちに負担を掛けていたのだろう。己の至らなさに、アンブラは深いため息を吐く。
「いいえ! 妻として当然のことですわ。
それに、アンブラ様のご友人とお会い出来て、わたくしは嬉しいのです。これまで知らなかったアンブラ様の一面を知ることができますから」
そう言ってハルリーはアンブラの手をギュッと握る。
「そうか」
トクンと跳ねた心臓の音に気付かない振りをし、アンブラはゆっくりと立ち上がった。
ティーセットを挟み、向かい合う。食事はいつも一緒に取るようにしているが、普段よりもずっと距離が近い。こんな風にハルリーを身近に感じるのは、初めてのことだった。
「ふふっ」
ハルリーが頬を染め、嬉しそうに微笑む。けれど、特に話したいことがあるわけではないらしい。静かに茶を楽しんでいる。
「今日は何をして過ごしたんだ?」
気づけば唇が動いていた。自分の言葉に驚きつつ、アンブラはそっとハルリーを見遣る。
「リヒャルト様と一緒に、領地を回ってまいりました。領民の皆さんが温かく迎えて下さって、とても嬉しかったですわ」
「ああ……」
そう言えばそんな報告を受けていた。リヒャルトと一緒に領地を回っても良いか、と。バツの悪さに俯きつつ、アンブラはハルリーへと向き直る。
「楽しかったなら何よりだ」
「はい! ですが次回は、アンブラ様と一緒に出掛けたいですわ。その方が今日の何倍も、何十倍も、楽しいでしょうから」
花の綻ぶような笑み。本気でそう思っているのだろう。その事実が、アンブラの心を搔き乱す。
「――――だが俺は、あいつみたいに気の利いたことは言えないぞ」
それどころか、歩幅を合わせてやることすら出来やしない。彼女に寄り添い、甘い言葉を囁きかけることも――――
「アンブラ様は優しいです」
けれどハルリーはそんなことを言った。空色の瞳に映ったアンブラの姿。真っ直ぐ自分だけに注がれたその視線に、顔を背けることが出来ない。胸が騒ぎ、頬が熱くなる。涙が今にも零れ落ちそうだった。
「――――――そうか」
ありがとうの一言すら言えない不器用な男。笑顔一つ見せない野暮な男。
「今度、時間を作ろう」
けれどハルリーは、至極嬉しそうに微笑んだ。
***
「ハルリーさんがつれないんだ」
それから数日後のこと。二人きりの書斎の中、リヒャルトがそんなことを口にする。
「おまえに対してはあんなに健気で素直なのにさ、俺に対してはどこか素っ気ないっていうか」
「……だからどうした?」
休暇中のリヒャルトはともかく、アンブラは絶賛仕事中だ。鬱陶しさに顔を顰めれば、リヒャルトは小さく笑う。
「なぁ……おまえ、最近鏡見た?」
「鏡? 何を意味不明なことを」
不機嫌な声音。すぐに手鏡が目の前に差し出される。その瞬間、アンブラは小さく息を呑んだ。
「見てみ? 『嬉しい』って顔に書いてある。ハルリーさんを前にしたおまえ、いっつもそんな顔してるぞ」
(そんなこと――――――)
アンブラは何度か口を開き、それから閉じる。
(否定ができない)
締まりのない唇。紅く染まった頬。顔は口ほどにモノを言う。これと同じ表情を、ハルリーに向けている自覚があった。
「認めてしまえよ。おまえはもう、ハルリーさんのことが好きなんだって」
「……いや、それはあり得ない」
好きになってはいけない。愛するなど論外だ。そんなことをすれば、彼女のあの笑顔が失われてしまう。
「素直になれよ。呪いなんて馬鹿げたもんに惑わされるな。自分の心に嘘を吐いて、それで幸せだって胸張って言えるのか? おまえ自身の幸せを――――」
「――――離婚、しようと思っている」
「は?」
自然と口を吐いた言葉。けれどそれは、心の奥底に隠していた本音だ。
(このまま結婚生活を継続できる自信がない)
ハルリーと共に居れば、心がポカポカと温かくなる。陽だまりの中、優しく抱き締められたかのような心地良さに、涙がじわりと溢れてくる。
彼女を拒むことが苦しい。日が経てばたつほど、苦しくなっている。
ハルリーはアンブラに『愛さなくて良い』と言ってくれた。何度『愛さない』と伝えても、ハルリーはあっけらかんとした顔で笑う。けれど彼女はいつだって、ありったけの愛情をくれるのだ。
(愛しい)
どれだけ否定しようとも込み上げてくる感情。
あの、折れそうな程に華奢な身体を抱き締めたい。触れて、キスして、想いを囁けたら良いのに――――そう、何度願ったことだろう。
けれど、その度にどす黒い靄のようなものが湧き上がり、ハルリーの身体を蝕むのが見える。
(彼女を危険に晒したくはない)
そのためには、ハルリーを手放さなければならない。そう分かっているというのに。
ガタン、と大きな物音が鳴る。扉の向こう。急いで向かえば、そこにはハルリーが立っていた。
「おまえ……」
「失礼いたしました。少し、よろけてしまって。お二人にお茶を勧めに参ったのですが……」
彼女の後ろには準備に駆り出された侍女達が並んでいる。けれど、表情から察するに、どうやら会話の内容が聞こえたのはハルリーだけらしい。
「わたくし、少し具合が悪くなってしまって……後をお願いできますか?」
そう言ってハルリーは、いつもの様にニコリと微笑む。けれど、彼女の瞳には、薄っすらと涙が溜まっていた。
「ハルリー……?」
どれだけ邪険にされても、決して流すことのなかった涙。これまで、冷たい言葉を浴びせられても、一度も動揺を見せたことのなかったというのに。
「追えよ」
呆然と立ち尽くしたアンブラに、リヒャルトが言う。侍女達も気づかわし気にハルリーの方を振り返っている。
「…………いや」
これで良いと――――そう思えたらどれだけ良いだろう。
(俺がハルリーを泣かせた)
ドクンドクンと嫌な音を立てて胸が鳴る。悲し気な彼女の顔が脳裏にこびり付いて離れない。
けれど、これでハルリーはアンブラと距離を置くようになるだろう。いずれは彼を嫌いになり、寄り付きもしなくなる。優しく微笑んでくれることだって――――
「…………っ!」
気づいたら、アンブラは勢いよく走り出していた。
(苦しい)
胸が締め付けられるような心地。息苦しさに涙が出る。
「ハルリー!」
アンブラがハルリーに追いついたのは、彼女の私室に差し掛かった時だった。
「アンブラ様」
目尻をそっと拭い、ハルリーは微笑む。けれど、その表情には深い悲しみが滲み出ていた。
「先程は大変失礼いたしました。急に体調を崩すなんて……見苦しい所をお見せして、申し訳ございません。少し休めば良くなると思いますので、どうかこのまま」
肩を震わせ、気丈に振る舞う。あまりにも意地らしいその姿に、アンブラは思わず手を伸ばした。
「すまなかった!」
華奢な身体を強く抱き締める。甘く温かな香り。己がどれ程ハルリーを渇望していたのか、深く深く実感する。
「アンブラ様、わたくしは…………」
ハルリーの言葉は続かない。
(もう遅いのかもしれない)
既に彼女の心は離れ、この状況を不快に思っているのかもしれない。けれどアンブラには、ハルリーを放してやることが出来なかった。腕に力を込めながら、アンブラは肩を震わせる。
「俺は、君のことを不幸にするかもしれない」
胸に巣食う大きな不安。それが消え去ることは、きっと一生無いだろう。
(それでも)
跪き、恭しくハルリーの手を握る。ハルリーの大きな瞳がアンブラを見下ろし、キラキラと揺れる。
「それでも、俺の側に居てもらえないだろうか?」
心からの懇願。ハルリーは目を見開き、それからゆっくりと細めた。
「わたくしが、アンブラ様の側を離れることはありません。
…………離婚なんて嫌です。絶対、嫌」
握り返された手のひら。二人の薬指には夫婦の証たる指輪が光る。
「だってわたくし、アンブラ様のことを愛していますもの。お側に居られるだけで幸せですもの。
真面目で、誠実で、不器用で、本当はとても温かい人。人一倍、愛情に篤い人。
わたくしが深く傷つくこと、危険を恐れて、遠ざけるようにしていらっしゃったのでしょう?」
「……リヒャルトに聞いたのか?」
ハルリーはコクリと頷く。それからいつものように微笑むと、アンブラを優しく包み込んだ。
「愛してほしいとは申しません。幸せにしてほしいとも。
けれど、わたくしがアンブラ様を愛することをお許しください。どうか、側に居させて」
「どうして君は……?」
「そんなの、夫婦だから、で十分じゃありませんか」
当然のように言い放たれたその言葉が、ストンと胸に落ちる。
(そうか)
夫婦だから側に居る。相手を愛そうと努力する。あまりにも単純な話だ。
「それに、アンブラ様はご存じないかもしれませんが、わたくしはあなたと一緒に居られたら、それだけで幸せなんです! 魔女の呪いなんかより、わたくしの幸せの方がずっとずっと大きい。だから、まかり間違ってアンブラ様がわたくしを愛してしまったとしてもきっと大丈夫です!」
「まかり間違って……って君…………」
ふふっ、とアンブラの口から笑い声が漏れ出る。
「そうだね」
額に、こめかみに、触れるだけのキスをする。ヒャッ!と頬を真っ赤にしたハルリーに、アンブラは愛しさが込み上げる。初めて感じる胸の高鳴り。目を瞑ってみても、暗闇はいつもの様に、ハルリーのことを蝕みはしない。触れて、口付けて、何度も何度も確かめる。とても、穏やかな気持ちだった。
「ハルリー、最初の約束を違えても良いだろうか?」
君を愛することは無い――――アンブラが耳元でそんなことを囁く。
「もちろん!」
ハルリーはそう言って、満面の笑みを浮かべるのだった。
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改めまして、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。