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記憶をめぐる、彼と少女の物語  作者: 葛生雪人
十四、追憶の石
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2.

「それにしても」

 ヴァールは手ごろな岩に腰掛けて、ブーツのひもを結んでいた。丁寧に一度ほどいて編み直し、その合間に独りごちる。

「思うようにはいかないもんだな」

 別に恐がらせたり、暗い過去を見せつけるのが目的で連れてきたわけではない。本当に伝えたかったのはその先だった。

「『せっかく忘れたのだから、禍々しい過去になどこだわらず、手に入れた人生を謳歌せよ』とでも言いたかったのじゃろ?」

 いつの間にか湖のふちにアルナーサフが立っていた。水に触れるか触れないかという際で、さざ波の行方を気にすることもなくヴァールに視線を向けていた。

 そうだ。『カラカル様』が現れたのだから、アルナーサフがいてもおかしくはない。そんなことにも気づけずについ声に出してしまっていたことを後悔した。

 ヴァールの様子をうかがい、アルナーサフは声を上げて笑った。

「突然饒舌になれるわけがなかろう」

「わかっている」

「おや。今日はずいぶんと素直じゃな」

「そうか」

「心なしか目の色も違うようだ」

「そうか」

「ヨマヨイビトが歩むべき道を見定めたか」

「俺は何も変わらない」

「はて。どうかのお」

 互いに互いの主張を否定する。

 そこに起きた風はどちらを味方し吹いた風だったのだろう。砂塵を巻き上げることもせず、一筋のやわらかな風がヴァールの頬をなでていった。やわらかくはあるが、夜を控えて風はもうずいぶん冷たい。

 傾いた日の光線が遺却の湖の水面を跳ねる。その水のゆらめきの奥で、淡く輝く黒い石が夕闇の訪れを待っているようだった。

 今日の月は何日目の月だったか。少女に言った通り、そろそろ追憶の石も生成されているかもしれない。たとえ生まれていたとしても、無数の石にまぎれた一欠片を見つけることはまず不可能であるだろうが。

「その方がいい」

 ヴァールは固く結んだ靴紐の心地よさに満足しながら立ち上がった。

 角度を変えると、湖はいっそう輝いて見えた。

「なんだ、これは」

 その輝きがあまりに不可思議で、ヴァールは思わず声を上げた。

 目を凝らしてみても、見える景色は変わらない。

 さざ波にはじける陽の光がかすむほど、水底にはびっしりと光が敷き詰められていた。

 時たま、獣らが湖に落ちて石の数を増やすことはある。だがそれでも人々を驚かせるほどに大きく数を変えることはなかった。

 しかしこの幾日かの間に、他に記憶を失ったものの話を聞いた覚えはない。

「これは」

 答えは一つ。

 少女の小さな体に潜んでいた数多の記憶か。

「ほほう。これは奇怪な」

 後ろからのぞき込んだアルナーサフが、存在しないあごひげをなでるような仕草を見せた。

「世に知られる理では、いかなる者の記憶も一つの石にしかならないはずじゃ。生まれたばかりの赤子も、隠遁の賢者も、みな等しく一つ」

「何が言いたい」

「たとえ他の者の石を見られる少女が遺却の湖に入ったところで、生まれる石は一つ。他人の思い出をのぞき見たという記憶を含んだ石だけじゃ」

「じゃあ、この大量発生の原因は何だって言うんだ」

「十中八九、ビルカが原因じゃろうな」

「一つの石しか生まれないと言ったばかり――」

「これはあるいは」

 たっぷり間合いをとって、大仰な口ぶりで続けた。

「石を見る以外に、何か他の力があるのかもしれぬ」

「他の、だと?」

「うむ。たとえば石ごと己の体に取り込んでしまうような……」

「どうやって」

「たとえば、じゃ。たとえば。しかし、もしそうだとしたならば、石の記憶はどうなるのじゃろうな」

 背筋がひやりと冷たくなった。

 そして昨日のビルカの涙を思い出した。

 石を見るだけでも、見知らぬ誰かの悲しみや苦しみを察知して同調してしまうのなら、もし記憶そのものを取り込みなどしたらビルカはいったいどうなってしまうのか。

 ヴァールは不意に、湖で出会った時のビルカを思い浮かべた。

『ああ、やっと私を消せるのだな』

 湖に入る前、たしかに少女はそう言った。

 そして願い通り記憶は湖に溶けて石となった。賢老をも驚かせるほどの大量の石に。

 消したかった『私』は、いったいどの石なのか。どれか、なのか。どれも、なのか。

「やっぱりお前は悲しみに満たされていたんだよ」

 ヴァールは吐き捨てるように言った。ヴァールの言葉を頑なに拒んだビルカの姿が浮かんだせいか。まるで勝ちを誇っているような自分の物言いに虚しくなった。そんなことはどうだっていいのに。

 ヴァールは追憶の石をいくつか拾って手のひらで転がした。誰かを苦しめるだけのものならば、なくなってしまえばいい。だが力一杯に握りつぶしてみてもビクともしなかった。

「それにしても、どうしてこんなに石を抱えていたんだ」

 ヴァールは今一度、湖の光を見遣った。太陽はあっという間に高い山々のかげに入り、谷間には地上よりも一足早く薄暮れ時がやってくる。青いような、まだ赤みがかっているような空のもと、追憶の石はいっそうの輝きを放っていた。

 ビルカは自分の石を見つけたいがために他人の石をのぞいた。ではかつてのビルカは―湖にすがった少女は何のために誰かの記憶をその身に宿したのだろう。

「おぬし、どれだけこの山の平和に染まってしまったんじゃ」

 アルナーサフが呆れたように言った。

「あえてその名で呼ぼう。ヴァール=ハイムヴェー。おぬしがよく知る世界なら、ビルカは心穏やかに暮らせるか?」

「俺がよく知る世界」

 その言葉に(いざな)われ広がる景色はヴァールの胸を熱くさせた。鼓動は徐々に力強くなっていく。動き出した蒸気機関のように、ゆっくりと、ゆっくりと。

「人の心をのぞきたい人間はいくらでもいるじゃろう。たとえ少女が望まなくともなあ」

 ヴァールを試すような口調であるのに、いつものような厭らしい笑みは見せなかった。彼の表情を曇らせるほど、その理由は忌々しい。

 ヴァールを答えへと導いたのは、常に飄々としていた悪友の顔だった。ヴァールのよく知る世界。それを象徴するような彼の行動を思い浮かべただけで、少女の境遇を理解できたような気がした。

 記憶を石に替える湖。その石の記憶を読み取る少女。記憶の全てを取り込めるという仮定が正しいのなら、その力を欲する者はいくらでもいるだろう。そして彼女を求める理由はも容易に想像がつく。

「そうだな。どれも反吐が出そうな理由だろうがな」

 石を握る手のひらに、いっそう力が入った。それを見てアルナーサフは不適な笑みを浮かべた。いや、企み顔と言うのが正しいか。

「答えに近づけたご褒美に、たった今思い出した大事なことを教えてやろう。そもそも、それを伝えるために来たのに、別の話をしていたせいですっかり忘れておったわい」

「なんだ」

 ヴァールを苛立たせようという魂胆がみえみえの話しぶりではあるが、ヴァールは完全に無視することができず、多少の怒気を含んでしまった。

 しめしめと、満足そうにアルナーサフは続ける。

「昨日から、ずいぶんと急ぎ足の客人が山に入っている、とカラカル様が言っている」

「客など珍しくもないだろ」

 カナズはともかく、ワアダには日常的にふもとの人間の出入りがあるではないか。

「しかし、わざわざカラカル様が儂に告げた。きっと特別な客じゃ」

「……それは、…………ビルカ絡みのか」

「おそらく」

 笑みをのせたままの口でそう言うので、ヴァールは反射的にアルナーサフの胸ぐらをつかんだ。

 言いたいことはたくさんある。だが、カラカルのお告げとやらを信じるならば、アルナーサフの行いを責めている暇はない。

 ヴァールが反論を抑えている理由を充分に理解しているようで、アルナーサフはより憎たらしい顔で笑った。

「山の民とどっちが速い」

 ヴァールは尋ねる。

「いい勝負じゃ」

「三日と半分か」

「しかしやつらは、少しでも早くたどり着こうと、獣道を使っておる。その上、かなりの強行軍ときておるからのお」

「ずいぶん詳しいんだな」

「カラカル様は、ジャバルの山のことなら何でもお見通しじゃ」

「では、いつ着く」

「もう間もなく。ビルカのもとへ」

「くそっ!」

 叩きつけるようにしてアルナーサフの体を解放した。

 アルナーサフの態度に苛立っていたのはもちろんだが、続いて発した怒りの矛先は彼ではなく自分自身に向いていた。

「どうして俺が!」

 どうしてか、急がなければならないと考えていた。そんな自身の反応にあきれ、そして腹が立った。どうして「どうにかしなければ」などと焦っているのか。どうして今から敵を予想し対策を練り始めたりしているのだろうか。

 そんなことよりも、アルナーサフにぐちぐちと文句を投げる方が自分にはお似合いなはずなのに。

 しかしヴァールの足はカナズへと向けて走り出していた。




 意識に反した、感情と肉体の暴走に屈した彼には、賢老の言葉は届かなかった。

 賢老もそれを充分理解した上で、一人、満足そうに笑って言った。

「そんな目をしながら、おぬしは『まだ変わらぬ』と言うのかね」

 去り行くヴァールの背中を眺めながら、賢老はより深い笑みを口もとにのせた。



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