左耳
10歳の時、飼っていた猫が死んだ。7歳だった。
猫にしては若くして死んでしまった方だと思う。
私にはあまり懐いていなかったけれど、私にとってはかけがえのない存在だった。
生き物だから、なんとなくいつかは死ぬのかなとか思っていたけれど、こんなにも呆気ない感じで死んじゃうんだと思った。
これからも一緒にたくさんの時間を過ごしていくんだと思った。
だから、埋められる前にこっそり耳をもらって食べた。
味は多分美味しくはなかったと思う。
けど、これで死ぬまで一緒に生きていけると思った。
「起きなさい!朝ごはんできてるわよ!」
母親の千里が、階段下から叫んでいる。華は大きな欠伸をして、時計を見た。
「え!やっば!1限に遅刻しちゃう!」
華は慌ただしく階段を駆け降りて、出かける準備を始めた。
自宅から自転車で30分ほどの距離にある国立大学に通っている。
「もう、そんなに慌てないでよく噛んで食べなさい」
毎朝お馴染みの光景に、千里は呆れていた。
「ごちそうさま!お弁当ありがとう!」
出掛けにそう言い残すと、華はあっという間に家を出た。
自転車を漕いで大学に向かっていると、遠くの方に友人の健介が見える。華は、大きな声で、健介を呼んだ。
健介は、急に自分の名前を大声で呼ばれてびっくりし、何も段差がないのに転びそうになっていた。
「健介は鈍臭いなぁ」
そう華は、ケタケタと笑って、颯爽と消えていった。
講義も終わり、華は研究室に向かった。
「おう!華!おはよ!」
同じ研究室だからというだけで、石田はずっと馴れ馴れしい態度を取ってくる。
華は、石田に一瞥すると、他の研究室の仲間に軽く挨拶をして自分の椅子へと向かった。
「なぁ〜華〜、こないだ送った動画見てくれた?」
石田は懲りずに華の肩に手を回してくる。
「見てない、触らないで。」
「マジかよ!いいからほら、見ろって。かけてやるよ。」
石田は自身のスマフォを取り出し、YOUTSUBEを開いた。
華は、まるで興味がなさそうに画面を覗いた。
楽しげに話す可愛らしい女の子たち、今流行りのアイドルらしい。意気揚々とそのアイドルがどんなに素晴らしいか語る石田を尻目に、華は画面の隅に映る1人の女性に釘付けになっていた。
「ねぇ、この女の人、名前なんて言うの?」
華に話しかけられた石田は、嬉しそうに答えた。
「んーと、月野雫って名前だったと思うよ、今駆け出しのシンガーソングライター」
それを聞くと、華はいきなり立ち上がった。そして、広げた荷物を全て片付けて、「今日はもう帰る」といって慌ただしく研究室を後にした。
初めての感覚だった。誰かを見て、この人に食べられたい、そして食べたい、そう思ったのは。
自宅に帰った華は、まるで何かに取り憑かれたように、月野雫のことを調べ考えていた。出身はどこなのか、何が好きなで何が嫌いなのか、普段どんなことをしているのか。長い時間をかけて、SNSを最初から最新のものまで全て暗記するように何回も見た。
何日もかけて何度も何度も、月野雫の存在を確かめた。
そして、彼女が歌を歌う以外には週4で居酒屋でアルバイトをしていること、一人暮らしをしていること、19歳だということ、好きなものはミックスナッツとウサギで、うなぎとゴキブリが大の苦手らしいということを知った。
居酒屋の店名は、確証はないけど。
彼女が働く居酒屋は市内にあって、一人暮らしのアパートからは電車で30分らしかった。
華の家も、市内からは電車で30分だった。
「そんな奇跡起こるわけないか。」
きっとNN駅で待っていたら、働いている居酒屋に行けば、彼女に会えるだろう。けれど華は、そんなことをする気にはなれなかった。
いわば、推しと一般人。住む世界が違うし、彼女の世界に無断で立ち入ることは、彼女を冒涜することと同じだった。
そんなことを考えていると、彼女のSNSが更新された。
「ん、見なきゃ」
”しずくのライブ配信開始!みんなコメント待ってます”
「わぁ!ライブ配信なんて、やってなかったのに!」
華は初めて普通に話している雫を見た。
「なんて可愛いんだろう・・・」
華は興奮した様子でコメントを打った。閲覧人数は120人ほどで、それでもコメント欄の流れは早く、打った側から流れてしまう。
「読んでくれないな、ちょっと寂しい・・」
半ばもう読んでもらえないものなのだと思った華は、配信が終わる頃に”雫ちゃん、大好きです。”と送った。
「”雫ちゃん、大好きです。”
わぁ!ありがとう!私もファンのみんなが大好きだよ!」
華は、突然の出来事で何が起こっているか理解に時間がかかった。
「雫ちゃん、私のこと好きなんだ」
雫の思いがけない言葉に、華は有頂天になっていた。彼女が言った言葉を頭の中で反芻する。そうしているうちに、華は眠りについた。
「華!起きなさい!そろそろ学校行く時間でしょ!」
階段下から、母の千里の声が聞こえる。いつもなら慌ただしく降りてくる足音が聞こえるはずなのに、今日は穏やかな足音だった。
「おはよう、ママ。今日は、用事があるからもう行くね。」
いつもよりも丁寧に整えられた姿に、千里は驚いていたが、そんな母親を気にも止めず、華は、NN駅へ向かった。そして、駅前のカフェに入り、一杯460円のカフェオレを購入して、窓際の席へと向かった。ここなら改札がよく見える。
今日は東側、明日は西側。そう交互に、改札の前の喫茶店に入り、改札を見つめた。
5日目の午後、じっと改札だけを見つめる私の肩を誰かが叩いた。
「華、こんなとこで何してるの。大学にも来ないし家で引きこもってるわけでもないみたいだし、心配で探してたんだよ。」
健介だった。
健介はいつものように華の右側へ座った。
「私を待ってる人がいるの、会わなくちゃいけないから」
華は、そう呟いた。その目には覇気はなく、いつもの元気な様子は微塵も感じられなかった。
「華、今日はもう遅いから、家に帰って休みなよ。」
「まだ帰れない、ギリギリまで待ってなくちゃ。でも、なかなか会えないの。この駅で間違いないはずなのに。朝待ち始めるのが遅かったのかな。そうだ健介、健介のこと忘れてた。」
華は、そう一気に呟くと、右側に座っている健介に急に振り返ってこういった。
「ねぇ、また健介の家に泊めてよ。」
健介は断れなかった。断ることなんかできないけれど。
「ごめん、散らかってるけど。」
華は何もいわず部屋に入った。そして、なれた様子で箪笥から衣類を引っ張り出し、部屋着に着替え、ベットに寝転んだ。
「おいで、健介」
健介は、小さく頷いて、ベットに横になる華に覆い被さった。
1Kの部屋に吐息が混じる。空気は艶と湿気を帯び、2人を包んだ。
「ねぇ、私、小さい頃飼ってた猫の耳を食べたことがあるの。愛してたから、死んじゃってもずっと一緒にいたくて。だから、私もあの子を食べたいし、あの子に食べてもらいたいの。ただそれだけなの。」
余韻に浸りながら、華はそう呟いた。
「あの子って誰?」
健介の質問に答えることはなく、華は眠りについた。そして夢を見た。雫と楽しくお話をする夢、雫の手を握る夢、雫の頬に手を伸ばす夢、雫の唇に自身の唇を重ねる夢。けれど、幸せな夢は長くは続かない。けたたましい音楽とともに、華は目を覚ました。
「夢にまで会いに来てくれた、私も嬉しい。」
華はそう呟くと、家を出る準備をして、駅に向かった。
「ねぇ、華、いつまでその人を待つ予定?もう10日もたってるよ。そろそろ家に帰らないとお母さんも心配するんじゃないかな。」
私の右側に座っている健介がそう言った。
健介の家に行った日から、駅前のカフェと健介の家を往復していた。なぜか健介は、私と一緒にカフェで待ち続けていた。
「うるさい」
華は、そういうと、また改札へ目を向けた。
改札を通り抜ける人の中、見覚えのある姿が見えた。色白の細身の少女、あの目はきっと、彼女だ。
そう確信した華は、急いで店を出てその少女の後を追った。
「あの!雫ちゃんですか!」
やっと少女に追いついた華は、少女の腕を掴みそう叫んだ。
いきなり腕を掴まれた少女は驚いた様子で振り返り、キッと睨みつけて言った。
「ちげぇーよ!」
全くの人違いだった。よく見れば、細くもなく色白でもない。至って普通の黒髪のギャルだった。
会いたさに見た幻想に、華は落胆した。
「華、大丈夫?」
心配そうに声をかけ手を差し伸べる健介。
華は、健介の手がを払い除けた。
「違った、絶対そうだと思ったのに。なんで、なんで健介はいるのに、あの子はいないの、なんで、なんで、なんで・・・」
華はそう叫び項垂れた。健介は華の右腕を掴み方に手を回した。2人はのろのろと健介のアパートへ向かった。
どれくらい寝ただろうか、目覚めると、健介がご飯を作っていた。
「あ、起きた?よく眠ってたね。ご飯できるから待ってね。」
健介は、何もなかったかのように、いつも通りの優しい表情を浮かべていた。
「彼女・・・来なかった・・・待ってるのに・・なんでだろ・・・私のこと嫌いになったのかな・・・」
華は、虚な目でボソボソと呟く。料理中のトントンという刃物の音にその声は消えていった。
ピコン 通知音がなった
”しずくライブ配信開始!今日はラジ配!”
「雫ちゃん、雫ちゃん、雫ちゃん」
華は、興奮で震える手でコメントを打った。
”雫ちゃん!大好き!会いたいよ”
「”雫ちゃん、大好き、会いたいよ” ありがとう!私も会いたい!今はライブできないから、配信いっぱいするね!ファンのみんな大好きだよ〜!」
雫ちゃん、やっぱり私のこと好きなんだ。会いたいって思ってくれてた。私も会いたい、なのに、なんで待っても来てくれないの、会いたいなら、会いに行ってもいいよね?
「”雫ちゃん、今は何してるの?” 今は、バイトに向かってるとこ!」
「”しぃたん、バイトえらいね” ありがとう〜!生きてくためだよ〜!」
「”しずくちゃん、今日もめっかわ〜〜” ありがとう!みんなも可愛いよ〜」
「”雫ちゃん、何時まで働くの?” 今日は、23時までかな〜終電間に合わないかもだから走らないと!笑」
「そろそろ、バイト先に着くから配信終わるね!」
さっきまで頭の中が曇りきっていたのに、今は晴れやかな気持ちだ。雫ちゃんが私のために、会いに来てって言ってる。何をすべきなのか、とてもよくわかる。
華は、風呂に入った。入念に洗い、丁寧に保湿をした。爪は綺麗に切りそろえ、きちんと研いだ。いつもよりも時間をかけて、メイクをした。
「華、ご飯冷めちゃうよ。特別なの作ったのに。」
健介は悲しそうな声でそう呟いたが、華の耳には聞こえていなかった。
「会いに、行かなきゃ。」
準備を終えた華は、引き止める健介を無視して、駅に向かった。
いつもよりも、秒針の間隔が長く聞こえる。
カチッ・・・カチッ・・・カチッ・・・カチッ・・・
まだ、駅について10分しかたっていない。
「あと、1時間半・・・」
カチッ・・・カチッ・・・カチッ・・・カチッ・・・
長く感じる時も、彼女に会えると思えばどうってことなかった。
彼女に会って、まずなんて言おう。初めまして、ってのはおかしいか。やっと会えたね、はちょっと恥ずかしいや。
そうこう考えていると、いつの間にか23時はとっくの昔に過ぎていた。
「あれ、おかしいな」
そろそろ現れてもいい頃なのに、彼女は現れない。
最終電車に乗っていた人たちが、改札を抜けて消えていく。もう、ほとんど人は見えないのに、彼女の姿を見つけることはできない。
ピコンッ
SNSの通知がなった。
「雫ちゃんだ」
”今日は、バイト先の優しい先輩が車で送ってくれました!ありがとうございます!”
「どうして・・・」
華は、その場に崩れ落ちた。
「華、帰ろう。」
追いかけてきていた健介に半ば引きずられるように、健介の家へと帰った。
「どうして、来てくれなかったんだろう」
華は、落胆し泣いていた。
「ねぇ華、ご飯作ったんだ。食べるでしょ、食べて欲しいんだ。花のために作ったし。」
健介は、先ほど作っていた料理を温め直しているようだった。
正直、そんな気分ではなかった。最愛の人に会えなかったのだから、呑気にご飯など食べれるわけがなかった。
「華、僕ねわかったんだよ。」
健介は、テーブルに料理を並べながら話し始めた。
「僕、出会った時から華のことが大好きだったんだ、愛してる。華と出会ってからのこの3年間は僕にとってかけがえの無いものだよ。本当は、華に愛して欲しかったし、恋人になりたかったけど、華はそれを望んでないみたいだったから、ちょっと苦しかったけど、華が望む形でそばで支えてたつもり。華が笑ってくれるだけで良かったんだ。けど、最近の華はちっとも幸せそうじゃない。笑ってもくれないし。あの子のせいだよね、あの子から愛されたかったんだよね、だから華は誰かに愛されたかったんだよね。じゃあ、僕でいいと思うんだ。けど、華は愛するための儀式が必要なんだよね。思い出したんだ。前に華が話してくれたこと。」
「ねえ、華、そのスープ美味しいでしょ。」
スプーンで掬ったスープを口に入れる。コリコリした食感のお肉のようなものが入っている。
健介の話を聞いて怖くなった華は、話を逸らそうと、「このコリコリしてるの何?」と聞き、左側に座る健介を見た。
「君が言ったんじゃないか、食べれば愛してくれるって。」
以上
ちゃんと人の話は聞きましょう。
そして、人からの愛情は誠実に対応しましょう。