セリオールの手記
この世界アイの本は“神の書記者”によって書かれた。そして、四人の神の書記者の中、たった一人“書の母”と異名をもつ者がいる。
彼の名はセリオール。その姿を知る者は、一握りもいない。
ぼくを囲む、沢山の本。一つ一つ埃を払って、古書屋のおじちゃんに手渡す。大事にするよと、おじちゃんは微笑んで言った。ぼくは頷いて、一冊を残し、他は全部おじちゃんに預ける。
ぼくが手元に残したのは、題名のない冊子。それは正確には本ではなく、中身は個人の“手記”だ。……この手記を記したのは、書の母たるセリオール。
手記の最後のページには、誰もがよく見慣れた細く繊細な文字で、こう書かれていた。
『君に会いたい。私は今、ルーナリアにいるよ』
――ぼくは、セリオールに会いに行くことを決めた。
*****
かたことと馬車が進む。ぼくは規則正しく揺れる。時折、閉じていた目を突然の振動が開かせる。そのたび、御者のおじさんが声を上げる。
「揺れたかい、すまないね! 石を踏んでしまってなあ」
それならば問題はないと、開いた目はまた閉じる。
馬車の旅は単調だ。ゆるゆる進む道筋は、時には獣に襲われたりするけれど、小さな子どもが一人で旅をすることができる程度には安全だ。進む、進む、馬車が進む。朝が巡って夜が来る。ぼくが目を閉じている間に、訪れた夜の前に馬車の車輪が止まる。
「今日はここで野宿だよ、お客方! ほら、火を熾すよ。……ああ坊や、お前さんは水を汲んで来てくれるかい?」
渡された鍋を受け取り、街道沿いに続く川に向かう。これいっぱいに水を入れたら重くて持ち帰れないかな、と思ったら、もう一人の子どもがぼくに続く。
「一人じゃ大変だろ。手伝う」
ありがとうと頷く。鍋の水を満たし、二人で抱えて戻る。もう焚き火が燃えていて、昼間のうちに獲った鳥を二人で手際よく捌いている。
「おお、ありがとな」
御者のおじさんは笑顔で鍋を受け取り、その水をもう一回り小さな鍋に分け火にかける。
串に刺さって直火で焼けていく鳥肉。鍋の中で解けていく固形のご飯。御者のおじさんは、客も合わせた四人分にそれらを分け、ぼくらは静かに語りながら、食べた。
この馬車には、二人の大人と二人の子どもが乗っている。御者のおじさん、剣士のおじさん、その息子、そしてぼく。ぼくが一番年下で、ちっちゃくて、四歳年上の剣士の子どもはもう青年に近い。ぼくが子どもだからか、皆構ってくる。構われると、嬉しい。一人でちょっと心細かったからずっと寝たふりをしていたんだけど、こんな風に話しかけてくれるなら、初めからずっと起きていればよかったなと、そう思う。
剣士の親子は、首都ミアナの手前にある町でお仕事らしい。ぼくはその先まで行くから、途中でお別れだ。子ども一人の旅を心配して、剣士のおじさんはぼくに一緒に行くかいと尋ねてくれた。でもぼくは大丈夫。一人でも行けるから。
御者と剣士のおじさんが二人交代で見張りをしてくれるという。僕達子どもは夜更かしするなと寝かされて、見上げた空には瞬く星。おやすみなさいと声をかけると、おやすみと返事がある。それに微笑みつつ、眠りについた。
次の日の昼過ぎ、剣士達の目的地に着く。中途半端な時間で、今から出発してもまた野宿だからとぼくと御者のおじさんもここで夜を越すことになる。宿に部屋を取る。剣士親子は仕事をしに出ていって、ぼくはおじさんと二人宿屋の一階に昼食を食べに下りる。
明日の朝に出るから、よければ町を見て回るかい、おじさんは昼を食べながらそう言う。ぼくはありがたく頷いて、食べ終わってから二人で町を歩く。それほど大きい町ではなくて、小一時間ほどで一周回る。
「何か……ちょっと物々しいねえ。早く帰ろうか、坊や」
その結果何だか町中がぴりぴりしていることに気付き、すぐに宿の部屋に戻る。
夕飯を食べ夜が来る。あの剣士さん達、何の依頼だろうね、とおじさんがそわそわし出すと、ちょうどよく、宿屋のおばさんがぼくらの部屋の扉を叩く。
「はいはい、何だい?」
ぼくら二人の顔を、おばさんは何だか緊張した顔で見つめる。
「……何だい、何かあったのかい?」
いぶかしんで尋ねたおじさんに、硬い声で言う。
「実は今日ね、この町の男衆は、獣を倒しに森へ行ってるんだよ。それでね……戻りが遅いんだ。大丈夫だとは思うけど、町の守りも薄い。お前さんらも、注意しておくれね。何かおかしなものを見たら、すぐ知らせておくれよ」
そうなのかい、わかったよとおじさんは頷き、おばさんが廊下を歩いていく後ろ姿を見つつ扉を閉める。振り向いてぼくを見る。
「そういうことだったんだねえ……」
剣士親子は、その討伐隊の中にいるのだろう。帰りが遅いというのは心配だけど、大丈夫だと思うしかない。
「坊や。今日はもう、寝てしまおうかね。全く、何だか嫌な夜だなあ」
木の窓を開けると、綺麗な三日月だ。ぼくはその光に照らされる町の影を少しの間目に収めてから、窓を閉め、ベッドに入る。それを見届けたおじさんが、室内を照らす蝋燭の火を吹き消した。
ふと目を覚ます。何かが聞こえた気がしたのだ。
隣のベッドを見る。おじさんがすぴすぴと寝ている。薄く窓を開けると、月は天頂を過ぎてさらに傾いている。夜中だ。静かで、遠く狼の遠吠えが聞こえる。耳を澄ましてそれに聞き入る。剣士の親子とこの町の男達は、今でもあの狼達を戦っているのだろうか。
そんなことを考えていると、目の端に人影を発見する。目を凝らすと、人影は何人もいる。闇に紛れるように動いている。聞き耳を立てると、小さな囁き声がわずかな風に乗って届く。
「……襲って」
「占拠して……」
「今のうち……分かれて……」
物騒な会話だ。ぼくはその会話を聞き取って、さらにその腰や手に、冷たいものの輝きを見る。賊だ、と思う。どうしようと思いおじさんを起こそうと揺するが、おじさんは全く起きる気配もない。廊下に出て他の客室の扉を一通り叩いてみるが、反応はない。一階に下りて厨房やら何やら見て回るが、誰もいない。
どうしよう、と思う。落ち着かず室内をうろうろしていたら、裏口の向こう側に誰かの話声が近付く。ぼくはびくりとし隠れようとするが、ここで隠れてはいけないと思い直す。さっきの会話では、脅して奪って抵抗したら殺してしまおうとそんなことを言っていて、しかも今この町には、頼りになる男衆がいない。ぼくだけが賊の存在と企みに気付いて、助けを呼びに行ける。ぼくは一度深呼吸をして、それから、表口の扉をそっと開ける。誰もいない。今だ、と外に駆け出す。
暗い夜道だ。吸い込まれそうな暗闇に足を出して、その足元を月だけが照らす。町の外へ走る。森の中へ向かう。枝が当たって頬が切れる。何度かこける。この森の中、どこへ行けばいいか。考えもせず走って、それで彼らに会えたのは、幸運だとしか言いようがない。
「っ、誰だ!」
がさがさと木立をかき分けていけば、焚き火を囲む者達がいる。ぼくはほっと息をつく。
「……あれ? お前、何で、どうしたんだ?!」
剣士の息子が出迎えてくれる。上がる呼吸と解けた緊張から口が上手く回らず苦労するが、どうにか賊の存在を伝えることができる。それを聞いた男衆と剣士は何言か話し合い、剣士の父親と二十人ほどの男衆のうちほとんどが、町に向かう。ぼくは危ないからと剣士の息子とともにこの場に留まることになり、町に行く者達を見送る。
「やあ、君。よく伝えに来てくれたね! 怖かっただろう?」
この場に残った者達は、ぼくのことを褒めてくれる。頬や手足の細かい傷を濡らした布で拭いてくれて、水をくれる。
「そうか、賊か……。奥の奴らが帰ってこないのも、もしかしたら賊の仕業かもしれないな」
首を傾げるぼくに、男達は事情を説明してくれる。男衆は、応援に来た剣士五人を二グループに分けたらしい。三人の剣士がいるもう一つのグループがなかなか奥から帰ってこず、待っていたら夜になってしまったのだという。そうだったのかと納得し、ぼくは森の奥の方を見る。わだかまるように黒いばかりで、明かりの外はとんと見えない。
「気になるか? ……きっと大丈夫だ」
ぼくを膝の間に抱えて頭を撫でてくれた青年は、そう言って微笑んだ。
明け方近くなり、ようやくもう一つのグループが森の奥から帰還する。抱えられたままうつらうつらとしていたぼくは、揺り動かされて目を開ける。
「おはよう。今から町に戻るよ」
見ると、合流したグループの男達は、何人かの男を縄で縛って引っ立てている。どうしたのか訊くと、あれは賊の仲間だと説明される。やはり、こちらのグループは賊の妨害にあっていたらしい。
町に戻ると、賊が他にも縄でひとくくりにされ、中央広場でさらしものにされている。
「おお、お前ら帰ったか! ……坊主、お前のお陰だ。皆無事だったぞ!」
偉かったな、ありがとう。ぼくはそう声をかけられて、ほっとして笑った。
馬車がまた進む。馬車の御者席には機嫌の良さげなおじさん。ぼくの前には、剣士の親子。
剣士の親子の仕事は一夜で済んでしまったので、ぼく達はまた同じ馬車で、首都ミアナに向かって進んでいく。……ルーナリアに行くには、まずミアナに行かなければ。
胸元に大事に閉まった手記を、服の上からそっと撫でる。
ぼくは、ほんの少しずつだけど、セリオールに近付いていく。
*****
ミアナの街は賑やかで道も入り組んで、迷いそうだ。街の宿屋までは御者のおじさんが好意で付き添ってくれて、本当にありがとうございますとお礼を言う。おじさんはちょっと心配そうな顔をして、気をつけてなとぼくの頭を撫でる。そして行ってしまう。ぼくはその背中を見送って、まだ一緒にいた剣士の親子とともに、宿屋で早めの夕飯とする。
「そういえばお前、ミアナに来て、どうするつもりなんだ?」
好奇心旺盛な剣士の息子が、ばくばくとご飯を食べる間にぼくに訊く。ぼくは、ここからさらにルーナリアに行くと答える。すると剣士の親子は揃って不思議そうな顔をする。
「ルーナリア、に?」
「ルーナリア……えっと、あそこは、何だっけ?」
学徒の街だと父親が息子に教える。そうだっけと頷くと、息子はぼくを見つめる。
「で、何で、ルーナリアに? 何か習いに行くのか?」
違うと首を横に振り、ぼくはどうしようかと迷った末、鞄からそれを取り出す。
「実はぼく、セリオールに会いに行くつもりなんです」
題名のない冊子の中身は、ある個人の手記。胡乱げな顔をした剣士の親子は、ぼくが差し出したそれを受け取り、ぱらぱらとめくって、手記の最後のページ、その一文を読み、驚いたように声を上げる。
「セリオール、が……」
「ルーナリア、に?」
ぼくはやや得意げに笑う。そう、セリオールがルーナリアで待っている。
――この世界アイの筆記者の中でも“書の母”と異名をとるセリオール。彼の書には誰もが世話になっている。四人いる神の筆記者の中で一番多く書を記し、神の言葉を伝えてくれる存在。
「これは、すごい」
感嘆する剣士のおじさんは、しばし考え込んでから、ぼくをひたと見る。
「……ルーナリアまで、私達も一緒していいだろうか」
首を傾げる。剣士の親子は互いに目を合わせて意思を疎通させ、今度は二人でぼくを見る。
「ルーナリアまで、お前を守ろう。勿論、金は取らない」
「俺達もセリオールに会わしてくれ! ……駄目か?」
ぼくは驚いたけれど、駄目じゃないとふるふる首を振り、一緒に行ってくれるの、ありがとう、と礼を言う。セリオールには、会いたい。会わなければと思う。……でも、一人で少し寂しかったのも、また事実だ。
ぼくと剣士の親子は、ルーナリアまで一緒に旅することとなった。
*****
そしてぼくらはルーナリアに辿り着いた。一歩一歩進むたび、心が弾む。もうすぐ、セリオールに会える。書の母セリオールが、ここでぼくを待っている。
でも、困ったことがある。セリオールは、ルーナリアのどこにいるのかを、記してくれなかった。ルーナリアは広い。闇雲に歩いてもそう簡単には見つからない。
「とりあえず、図書館に行ったらいいと思うが」
剣士のおじさんが助言をくれる。確かに、学術都市ルーナリアには、セリオールの本が多く収められている図書館がある。ぼくは頷いて、図書館に向う。
けれどここで、また困ってしまう。ここにあるセリオールの本は、とても多い。その一つ一つを読んで手がかりを探していくなんて、それだけで何日もかかってしまう。
「史書に尋ねてみるといい」
今度もまた、おじさんが助言してくれる。このおじさんは頭がいい。ぼくはまた頷いて、カウンターに腰掛けている総白髪の優しげなおじいさんに声をかける。
「あの、すいません」
「ん? ……ああ、何でしょうか?」
おじいさんはぼくを見て、目を細くする。目尻に皺が寄って、それがぼくのおじいさんの笑い方とよく似ていて、少し安心する。
「あの、ぼく、セリオールの手記を探しているんです。どこにあるか、わかりますか?」
手記と聞いて、おじいさんは目を見開く。
「手記は……セリオールの手記を、君が持っていらっしゃる?」
ぼくは頷いて、鞄から手記を取り出す。おじいさんはさらに目を丸くして、よろしいですかとその手記を手に取る。ぱらりとめくって、ううむと唸る。
「……あの」
唸りながらちらりと目を向けられ、ぼくは心配になる。ぼくが持っていたら何か問題があるのだろうか。
「……君は、本当に、セリオールに会いたいのですか?」
ぼくは大きく一つ頷く。
「会いたいです、どうしても」
おじいさんはさらに唸り、それから、ため息をつく。
「……しょうがないですね。私としては、君のような子どもを、セリオールと会わせたくはないのですが」
そう言われて、ぼくは多分、傷ついた顔をした。おじいさんは慌てて、君のことを批判したわけではありませんよと言う。
「君がそう決めているならば何も言いませんが。ただ、セリオールと会ったら……戻れませんよ」
どういう意味か深く考えはしなかった。どう言われようと、ぼくはセリオールと会うつもり、いや、会うべきだと思っていたから。
ぼくの決意を知って、おじいさんはまたため息をつく。そして、少しお待ち下さいとカウンターの奥に消えていく。しばらく経って戻ってくると、その手には、
「……あっ!」
題名のない冊子。――二冊目の、セリオールの手記が。
「セリオールに会うならば、諦めずに辿りなさい。彼が残した“手がかり”を」
ぼくは満面の笑みで、その手記を受け取る。おじいさんは苦笑とともに、頑張ってと言ってくれる。ぼくはうんと頷く。
二冊目のセリオールの手記には、一冊目同様、天気のことや日常のことが当たり障りなく書かれて、最後のページにはまたメッセージが。
『君に会えるだろうか。私は今潮の塔にいるよ』
そう書かれている。
「……行くか」
「……行こうか」
ぼくらはそうして、旅を続けるために、歩き出した。
*****
潮の塔は、ルーナリアから東、海際の崖の上にある塔。昔は誰かが住んでいて、何かを研究していたそうだけど、今はすっかり朽ち果てて、海風で石が削られるばかりだ。
「こんな場所に……セリオールが?」
訝しげに、おじさんが呟く。ぼくもそう思う。町で訊いた話以上に朽ちて、大きな衝撃があったら呆気なく崩れてしまいそうだ。
「いるかどうかなんて、中に入ればわかるさ。行こう」
剣士の息子が早く早くと促すから、ぼくとおじさんは躊躇を押し隠して、その背に続く。
中は外見と同じくぼろぼろで、本棚や机、カーテンらしき布などが、昔はここにちゃんと人が暮らしていたことを教えてくれる。……どこへ行ってしまったのだろう、この塔の住人は。人が住まなくなった建物は、こうして朽ちてしまうのだ。
「……セリオール?」
それとも、セリオールが暮らしていたのだろうか。あの手記がいつ書かれたのか、日付けがないから、わからない。もしかしてもう、セリオールはここからいなくなってしまったのだろうか。
「セリオール……貴方の手記を読んで、ここまで来たよ」
――会いたい。ぼくも会いたいよ、セリオール。ねえ、どこにいるの?
階段を上る。きっとセリオールは、いる。
塔の最上階は、書斎だった。部屋中に本棚があり本が詰まっている。埃をかぶっていて、可哀想だ。一冊二冊と取り出して手で払うも、量が多すぎるからと諦める。セリオールや他の書記者達が折角書いたのに。読む者がいない本は、必要ないと言われたようなものだ。勿体ないと思う。
本棚の間を進む。薄暗い室内の奥から光が差し込んでいて、そちらへ向かえば、立派な机と、その背後に飾り枠のついた大きな丸窓。中でインクが固まってしまったインク壺と、羽ペン。どきりとする。……確かにここには、書記者がいたのだ。
近付いて、羽ペンを手に取る。すると、もうすっかりぼろぼろだったペンは、ぽきりと壊れてしまう。それで、わかる。ここにはもう、誰もいないのだということが。
ぼくは項垂れて、丸窓から空を見る。この光を背に浴びて、ここにいた誰かの姿を想像する。遠い存在、神の書記者。セリオール、ぼく達は、会えるのだろうか。
その時、ぼくの目が、何かを見つける。椅子の上、そこに置かれた本、いや、
「……手記、だ」
ぼくが持っている二冊の手記。全く同じ装丁の手記が、無造作に、まるで、どこかへ出かける時その場に忘れていってしまったかのように、あった。
ぼくはそっとそれを手に取り、優しく埃を払い、表紙を開ける。見慣れた細く繊細な文字がある。手記は、こう始まっていた。
『この窓から見える空は、遠い。こんなに高い場所にいるのに、私は大地からも空からも、ただ見守られるばかりの一人ぼっちだ』
文字を目で追う。紙をめくる。
『誰か、私を見てくれないだろうか。私は、セリオール。セリオールだ。誰か、私を、呼んでくれ』
ぼくは無心で先を読む。この手記には、セリオールという人間の想いが、沢山沢山詰まっている。天気のことも日常のことも書かれていない。この中には、神もいない。
そして、最後は、やや荒れた文字でこう記されている。
『お願いだ、来てくれ。惑いの森で、待っているから』
ぼくはそれを見て、静かに一度、頷いた。
*****
剣士のおじさんは、もうやめた方がいいとぼくに言う。
「こんな手記、追っても、どうせセリオールになど会えはしない」
惑いの森は、この大陸の三分の一を覆う、深い森だ。獣と魔獣、毒のある草、道なき森。この森に迷い込み、生きて帰る者は数えるほどもない。ぼくだってそれは知っているのだ、ましてや剣士のおじさんが、知らないはずがない。
「もう、やめた方がいい。命を落としてからでは、遅いのだ」
おじさんの言うことは、よくわかる。ぼくだって、無謀だってことはわかっている。でも……。
「ぼくは、行きます」
たとえ一人でも。ぼくは、ぼくのために、セリオールのために、この手記を辿る。
「……私達は行かない。死ぬぞ、お前みたいな子どもが一人で、惑いの森などに入れば」
どれだけ言われようと、ぼくの決心は変わらない。ぼくは何も言い返せず、けれどその決意だけを支えとして、挑むようにおじさんを見上げる。
「……」
「……ぼくは、行きます」
「……勝手に、しろ」
おじさんは、唇を噛んで、ぼくを見る。そして、身を翻す。去っていく。ぼくは一人で、広大で危険な森を進まなければならない。それはひどく心細く、恐ろしいことだけど、今さら引き返すなんて選択肢、ぼくにはない。
「……父さん」
「行くぞ。元々私達の約束は、ルーナリアまでだった。惑いの森なんて危険な場所、ついていくわけにはいかない」
「待ってよ、父さん」
「早く来い」
「……父さんっ!」
息子が父親を呼ぶ。おじさんは、背を向けたまま立ち止まる。
「俺、嫌だよ! こんな……俺よりちっちゃい子を、こんな場所で、放りだすの?! そんなこと、できないよ! 嫌だよっ!」
息子はぼくの前に立ち、ぼくの手をぎゅっと握る。痛いほど強く。
「……嫌だよ、俺は。父さんがこの子を見捨てるなら、俺と父さんは、ここでお別れだ!」
ぼくは驚いて息子を見る。驚きのあまり口をぱくぱくさせ、喘ぐように、駄目だと、言う。
「はあ?」
そう、駄目だ。親子は離れたら。一度離れたら、離れ続けるしかないのだから。
「ぼくは……一人で、行きます。セリオールに会いに、行きます。危ない場所に行くのは、ぼく一人でいいんです」
寂しいし、怖い。でも、ぼくはぼくの決断を、おじさんはおじさんの決断をして、それが相容れないのは、仕方ないことなのだ。
「お前、それ本音? あのな、放っておけるわけないだろ!」
息子が怒る。どうしたらいいのかわからない。
「……やめなさい」
襟ぐり掴まれ怒鳴られて涙ぐむぼくと息子の間に、大きな溜息を吐きながら、おじさんが割って入る。
「父さんっ!」
邪魔をされ睨む息子をたしなめるように軽く額を叩き、逆の手でぼくの頭を撫でる。
「……?」
その手付きが優しくて、ぼくは小首を傾げる。
「……惑いの森に、セリオールがいなかったら」
おじさんはしゃがんで、ぼくと目線を合わせる。もう一度溜息ついて、
「そうしたら、もう、諦めなさい」
譲歩、してくれる。それを聞いて、暴れていた息子は動きを止める。
「じゃあ……父さん」
おじさんは立ち上がり、二人の子どもの前に立って歩き出す。
「セリオールに、会うのだろう。……行こう」
惑いの森で、ぼくは全くの役立たずだ。守られるばかり、逃げるばかり。多分、ぼく一人だったら、この森に入った時点で死んでいたと思う。優しく大人な剣士のおじさん、ぼくのことを心配して兄みたいに接してくれる剣士の息子。ぼくは、この人達の好意に甘えている。
――もし、ここで、セリオールと会えなければ。
おじさんが言った通り、ぼくは、セリオールのことを、諦めようと思う。
惑いの森は奥深い。
もうすでに、どこが一番奥なのか、どこへ行けば戻れるかわからない。そもそもセリオールがこの森の奥にいるのかどうかすら、わからないのだ。……会えるのだろうか、セリオール。どこにいるのか、教えてほしい。名を呼ぶから、あなたを呼ぶから、ここにいると言ってほしい。
そうして、ぼくらは森の奥へと辿り着く。
まるで別の場所のようだ。清々しい空気が流れ、暖かな日が射す。花が咲き、ウサギやシカが集う。水が流れている。柔らかく緑が茂る。そこだけが、楽園のような空間。
「……あなたが」
その楽園に、たった一人の人間。銀に見えるほど色素の薄い長い髪をした、真っ白な青年。
「……セリ、オール?」
名を呼ばれた青年は、驚いた顔をした後、ふわりと笑った。
*****
ぼくとセリオールは、こうして出会った。
「セリオール、どうして、ぼくを呼んだの?」
あの手記を書いたわけを、ぼくは第一に訊いた。セリオールは笑って答える。
「神の書記者がどういう存在か、知ってるかな。神に認められて、文字を記す権利を得た人間。普通の人より、何百年も長く生きるんだ」
セリオールは、笑っている。
「ごめんね……寂しかったんだ」
寂しかったと、笑っている。
――どんな感じなのだろう。もしもぼくが、いきなり書記者となり、自分が本を書いている間に周りの人が老いていったら。そうして何百年、生き続けて、一人で本を書かなければならないとしたら。
「君が、私の手記を、見つけたの?」
ぼくは頷く。三冊の手記を、セリオールに返す。
「これを、辿ってきたの。……セリオール、それはもう、いらない?」
そうだね、とセリオールは手記を大事そうに受け取る。
「……訊いていいだろうか」
ぼくとセリオールが微笑みあっていると、おじさんが口を挟む。二人揃って目を向ける。おじさんはセリオールを見つめ、ぼくを見つめ、少し目を細める。
「……セリオール」
「うん、何かな」
「この子を、これからどうする」
「……そう、だね。それは、この子に訊いた方がいい」
ぼくは、緊張で自分の顔が強張るのを感じる。今一番、訊かれたくないことだから。ぼくはおじさんとセリオールの問いかける視線に耐えられず、息子の背に隠れてしまう。
「おい、どうしたんだ? 別に、とって食おうってわけじゃないぞ?」
息子が笑いながら、ぼくを前に引き出そうとする。ぼくがそれに精一杯抵抗すると、息子は腕の力を緩める。
「……? 何か、あるのか?」
ぼくを見る三対の目。もう、話さないではおけないのだろう。ぼくは、息子の背にしがみついたまま、口を開く。
――セリオールの手記を見つける直前、ぼくのおじいさんが死んだ。おじいさんは古書屋を営んでいて、お母さんとお父さんが小さい頃に亡くなってから、ぼくを引き取って育ててくれた。おじいさんが亡くなってから、おじいさんの形見の品々を整理した。セリオールの手記は、そのおじいさんが大事に使っていた机の引き出しから見つかったのだ。
おじいさんはきっと、一人残されたぼくが寂しくないように、セリオールの下へ向かわせたのだろう。もしもセリオールに会えなかったとしても、あの村にいたら会うことのない人々と会うこともできるから、と。……そう、こうして、剣士の親子と出会えたように。
「ごめんなさい……黙っていて」
嘘をついたと罵られるのは、怖い。ぼくはそれを覚悟して、うつむく。
「……そう、か」
けれど、誰も怒らない。おじさんが吐息を零して、ぼくの頭に手を置く。
「大変だったな」
ついで息子が、びくびくするなよ、そんな理由で怒れるわけないだろう、と続ける。
「……怒るわけないの?」
ぼくの問いに頷いた剣士の親子は、顔を見合わせ苦笑する。そして、前触れなく抱き上げられる。驚いて目を丸くするぼくを間近に見て、おじさんは笑う。
「どうする、セリオールには、会えたぞ。……この後は、俺達と一緒に来るか?」
そう提案されて、一瞬言葉が出てこない。これほど嬉しい言葉はない。でも……。
ちらりと、セリオールを見る。ずっと、寂しそうな顔で微笑んでいる。ぼくと目が合って、頷く。提案を受けていいんだよ、と。
……ぼくは。
「ごめんなさい、行けません」
抱えられたままそう謝れば、おじさんは、しょうがないなというようにぼくの髪をくしゃくしゃにする。
「……そうだと、思ったさ」
おじさんはぼくを下ろし、セリオールと向き合う。そして、頭を下げる。
「セリオール。この子を、頼んだ」
「……え、いえ、でも」
困惑して言いどもるセリオールの目の前に立ち、ぼくはその顔を見上げる。
「セリオール。……寂しいから、呼んだんでしょう? ならぼくは、ここにいる。ここに、いたい」
ぼくの言葉に、セリオールは本当に驚いて声を失くし、出てこない声の代わりに、一筋涙を流してぼくに抱きついた。
*****
ぼくは、セリオールの助手という名目で、彼と一緒に惑いの森で暮らしている。
この森は神のもの。神に認められしセリオール、その彼に認められた者ならば、誰でも自由に安全に出入りできる。剣士の親子はセリオールに認められ、一年に数回、ぼくとセリオールの下を訪ねてくれる。だがここ一年ほどは、剣士の息子が一人で来ることが多くなった。
――ぼくとセリオールが出会って、五年が経つ。ここ最近、ぼくには少し、異常が起きている。だから、今度剣士の親子が来たら、ぼくは……。
その日、リューがぼくらを訪ねてきた。
「久々、ロー。元気?」
前に会ったのは、三ヶ月ほど前だっただろうか。リューの髪は少し伸びて、背もまた伸びたようだ。ぼくより頭一つ以上高い場所からぼくを見て笑う。ぼくも笑みで答える。
「ロー、セリオールは?」
執筆中だと言えば、そっかと頷き、リューは適当に腰を下ろす。ぼくはお茶を用意して、その前にすとんと座る。……話したくない。でも、話さなければ、今度こそは、怒られる。
「どうかしたか、ロー」
ぼくがうつむき気味なのを見て、リューがそう訊く。……話さなければ。
「リュー。……もう、ぼく達に、会いに来ないで」
リューは一瞬、何を言われたかわからなかったようだ。きょとんとした目をして、それから、いきなり怒る。
「何言ってんだ!」
話の切り出し方を間違えたようだ。ぼくはあわあわしながら、理由を説明する。
「ぼく……“書記者”になったんだ。セリオールと同じで、年を、取らなくなったんだよ」
だから、一緒にいたら、いつかリューが先に逝く。ローはそれに耐えられない。兄のような友のような存在が、必ず自分を残して逝くことを、わかっていて付き合うなんて。
「リュー。ぼくは、リューよりもずっと長く、生きるんだよ」
――生きる長さが違うというのは、一緒にいる上で、果てしなく不利な条件だ。
リューはさすがに黙り込み、言葉を探す。寂しいけれど、ぼくは、リューと別れる覚悟をもう決めている。
「……馬鹿かっ!」
そして、また前触れなく怒鳴られる。びくっとしたぼくの頭を痛いほど掴んで、リューは、鼻と鼻が触れるほど近くでぼくを睨む。
「お前、馬鹿!」
馬鹿馬鹿と連呼され、さすがに反論しようと口を開くと、リューは勢いよく頭突きをする。
「った……!」
目の前に星が散る。額を押さえ涙目で呻くぼくを見て、自分も痛かったらしいリューは、同じく額を押さえながら得意げに笑う。
「ふん! お前があんまり馬鹿なのが悪いんだぞ!」
何がそんなに馬鹿だというのか、恨めしげな目を向けると、リューは胸を大きく張り、
「お前さ、それじゃ、セリオールと何も変わらない。セリオールだって結局、寂しすぎてお前を呼んだ。……別れは、つらいけど、出会ってからあった沢山のいいことは、そんなものじゃ消えないだろ?」
言われて、目から鱗が落ちたように思う。でもどうしても不安で、はいともいいえとも言えず目で訴える。
「しょうがないな、お前は。大丈夫だよ、俺は、いつどこでどうやって死んでも、お前の心の中にいるんだから」
……お前が思う限り、俺はずっと死なない。リューはそう笑う。
ぼくはよくわからなかったけれど、わからないなりに思うところもあって、リューの考えを受け入れた。ぼくだって、本当は別れたくなんてなかったから。
「……リュー」
「ロー」
ぼくの言葉を遮って、リューがぼくの名を呼ぶ。微笑んで。
「筆記者になれて、よかったな。おめでとう」
あまり嬉しくなかったのに、リューに言われると、途端喜ばしい気がする。
「……うん。ありがとう、リュー」
だからぼくも、微笑んで答えた。
*****
ぼくは、夢のある話を書こう。
世界の成り立ちや、神の想いは、他の筆記者に任せよう。
ぼくは、ひとの想いを文字としよう。
かけがえのないひとのことを、文字に記して残そう。
ぼくがセリオールと出会って十年の後、ぼくは初めて、本を世に出した。
その題は“セリオールの手記”。人々に、筆記者の孤独を知ってもらいたいからだ。リューという友のことを知っていてもらいたいからだ。
ひとには、出会いと別れがあるということ。その素晴らしさを、覚えていてほしい。
ぼくが書いた初めての本、それがきっかけで、ぼくは“書の父”と呼ばれるようになった。少し、恥ずかしい。でも、とても誇らしい。ぼくの本を読んだ者は、セリオールのことを、リューのことを、思いだすだろう。ならばぼくは、沢山の出会いを、別れを、書き続けようと思う。
セリオールとの出会いから三十年、彼は、もういない。最後は、寂しくなかっただろうか。ぼく達が一緒にいて、安心していけただろうか。きっと大丈夫だったと、そう思う。いつかリューが追いつく。そしてそのずっと後に、ぼくも追いつく。それまで二人で、仲良くしていてほしいと思う。
――セリオール、そしてリュー。ぼく達は、出会えて、よかったよ。