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第二章 四十九時間前

 =四九時間前=


 カーテンの隙間から差し込む朝の光にくすぐられるように、進也はゆっくりとまぶたを開いた。

「やべぇ。死ぬほど腹減った」

 身体の感覚が蘇ってくると同時に、進也の下腹部は腹を下した時とは違う痛みに被われていく。

「ああーー。飯、飯」

 吐き気すらこみ上げてくる胃袋をなでつけながら進也は何とか布団を蹴り飛ばし散漫な勢いで起き上がり、縋り付くような格好で冷蔵庫の扉を開いた。

 幸いなことに、八時間前に賞味期限が切れた弁当は健在で、冷え切った具材からは特に嫌な匂いも上ってこない。これで腹をこわしたら、うちのコンビニの管理不行き届きで保健所が入るな、と思いつつそれを乱暴に電子レンジに入れると適当にダイアルをひねってスイッチを入れた。

 その間に彼はヤカンに水を入れ、それを火にかけた。茶葉なんて高価なものは彼の部屋にはない。飲み口がひび割れた湯飲みに、文字通りの湯を注ぎ込みそれを胃袋に流し込むだけだ。

 水の量は少量で、火力最大で暖められた水は電子レンジの終了合図が響く頃には立派な白湯となっている。乱暴に扱っているせいか、所々へこんでしまって立て付けの悪いヤカンを見てそろそろ新調するかと考えながら進也は少しばかり量の多い朝食をとった。

 昨日は休日で、今日は平日だ。今朝はやたらと体力を消耗するレースもないだろうと当たりをつけ、少しホッとしながらものも数分で平らげてしまった弁当の残骸をゴミ袋に放り込む。

「……今日は、ゴミ出しだったな。」

 冷蔵庫の扉に貼り付けておいたゴミ収集の予定表を半月ぶりに眺め、部屋の隅で小さな山を作っているゴミ袋の群れに目をやった。

「そろそろださねぇとやべぇか。分別は……面倒くせぇ」

 中身の大半をプラスティック容器とコンビニの割り箸で占められている袋の口を適当な紐で結びつけると、サンタクロースよろしく背中に抱え込み、まだ寝間着のままサンダルを引っかけるとドアを開け朝の街へと身を躍らせる。

「こうして俺の日常は何の面白みもなく、ゴミ袋の山と一緒に始まるのでした……っと」

 見上げるとすがすがしいほどに晴れ渡った青空にさんさんと照りつける太陽が、彼の住まう築何十年にもなるボロアパートを照らしつけていた。

 冬の晴れの朝は酷く空気が冷たい。外套も引っかけずに外に出てしまったことを若干後悔しながら、彼は白く吐き出される息で遊びながらアパートの前に設置されたゴミ出し場に足を運んだ。

 しかし、あれは夢だったのだろうかと進也は夕べのことを思い返していた。

 起きがけで徐々に覚醒していくその脳裏には昨日の夜、暗がりに沈む四つ辻の少女の姿がありありと思い浮んでいく。あの少女はいったい何者だったのだろう。その姿形にはあまりにも似つかわしくない、神秘的なほどの妖艶なその雰囲気はまるでそれが人間ではないようにも彼には感じられた。

 そして、あれはあそこに立って彼を見つめ、そして嘲るような笑みを彼に投げかけた。

「……ブァックション……!」

 道行くものが居れば何事かと振り向くほどの、見事としか言いようのないクシャミをぶちまけると、進也は、

「あー、さむ……。この格好はきついわ」

 と言い、背負っていたゴミ袋を乱暴にゴミ置き場に投げ捨てると腕を組んで軽く両肘を擦りながら早足で部屋へと戻った。


 朝が早いのには慣れたし、食事や衣服を自分で用意するのにも慣れた。この生活を始めたばかりの時はどうなることかと思っていたが、進也は自分の順応性が思いの外高いことに少しだけ驚いた一年だった。

「仕事がすんなり決まったのもラッキーだったし、ボロいけど安いアパートが近くにあるのもラッキーだった。まあ、悪くねぇな。この生活も」

 部屋を出る時に予想していたように、今日は昨日のような草レースを展開させることはなさそうだ。進也は安堵のため息をつくと、昨日の酷使で少しゆるんでしまったチェーンの調子を見ながらゆっくりとペダルを踏み込んだ。

 進也の趣味は既に言わずとも知れた自転車いじりだ。そのため、通勤にはわざと遠回りするような道が選ばれている。通勤の風景は変わり映えしない閑静な住宅街だったが、そこを抜けた先にある川には桜並木があり春になると桃色の自然トンネルで川辺が華やかな景色に彩られる。初夏には青々とした葉桜、雪の降る日には白い化粧をした枯れ木が、秋にはススキ野原が一面を彩る場所となっている。

 以前職場の花見に誘われた時、その見事な景色に心を奪われたこともあった。

「ああ、大丈夫だ」

 進也は呟いた。誰もいない空の向こうを目指して、しっかりとした視線でそう告げた。

「俺は、何とかやっているよ」

 それは今はこの地上には居ない両親に対しての言葉だったのだろうか。川を横切る小さな橋の真ん中で止まった進也は澄み切った青い空に消えていく霧立つ白い吐息を目で追いながら、既に遠くなりつつある記憶を心の隅にしまい込むように深く息を吸い込んだ。

 一年前のあの日、両親が死んだ。何の劇的な運命でもなく、ただの交通事故だった。

 進也がさんざん苦労して受験戦争をくぐり抜け、都内の有名私立高校に入学して半年以上立った時のことだった。今彼が乗っている自転車は、父親がその時の祝いにと海外の有名ブランドから取り寄せたレーサー仕様のものだ。

 それは、父親が勤め先の職場で課長に昇進が決まった祝いの小旅行の途中だった。進也はその日、学校の模擬試験があり一緒に行けなかったことを覚えている。両親はとても夫婦むつまじく、進也が一緒に行けないことを残念がっていたが、反面久しぶりの夫婦水入らずの旅行だと言って喜んでもいた。

 その日は雨が降っていた。雪に変わるかもしれないとテレビは予想していた。

 雪の露天風呂なら風流だろうなと父親は笑っていた。もちろん、混浴でね。と母親も笑っていた。弟妹が増えるのなら事前に相談してくれと進也も冗談を言いつつ笑っていた。

 お土産は何がいい、という母の言葉に、進也は温泉まんじゅうと答え、父親にもっと面白いものを頼めと茶化されていた。

 順風満帆だったと思う。この際、弟妹の一人や二人ぐらい増えても誰も咎めるどころか祝福してもらえると、本気でそう思っていた。

 だから、試験中に青い顔で駆け込んできた学年主任が、進也の名前を呼んだ時、彼はいったい何のことか想像することさえできなかった。

「それからは、あっという間だったな」

 事故地から最寄りの病院で両親の亡骸を確認し、近所の知り合いの助力で葬儀を行った。まるで実感がわかなかった。涙も流れなかった。

 両親の遺体が入れられた簡素な棺が、火葬場のボイラー室へ運ばれ、その扉が閉じられた時彼はようやく全てを理解した。

 涙が止まらなかった。

 両親の死亡保険が入り、相続放棄をして家や車のローンを破棄した。今でももらった保険には手をつけていないし、その金額を確かめたこともない。

 両親の命が無機質な金の価値に置き換わるその現実を見たくなかったからだ。両親が立てた学資保険も預金も気がつけば誰かの手に渡ってしまっていた。

 進也を知るものは、彼の不幸に同情した。しかし、彼は自分の不幸を嘆かなかった。

『誰も彼もが勝手に俺を不幸な人間と呼ぶ。そんなものはもうまっぴらだ』

 そして、彼はそれまでの全てを捨てた。高校を止め、生まれ育った家を立ち退き、住んでいた街を離れ生きていくことを決意した。彼は後悔はしていない、それが間違いではなかったと今はそう思える。

 進也は流れゆく川に視線を落とし、自分はそこに流れる人間のようにはならないと決意を新たにした。

「ちょっと待て!」

 思わずハンドルを取り落とし、彼は橋の欄干に身を乗り出しよくよく目をこらした。

「今、俺は何を見た。あんなもんは目の錯覚だよな」

 できることならそうあって欲しいと願いつつ、視線を揺らしそれを探した。

 穏やかな川の流れに身を寄せるのは、列をなす水鳥の親子、そしてどこからか流れ着いた朽ち果てた流木。そして、彼は見つけた。その流れに抵抗することなくただ流されていくばかりの人の影を。

「身投げか!? 馬鹿野郎が!」

 よくよく確かめればそれはまだ大人になりきれていない少女のようだった。

 進也は倒れてしまった自転車をひっつかむと、ゆるんだチェーンを気にすることなくそのまま川の土手を滑り降りた。

 川岸に降り立ち、進也はまともにブレーキもかけずに自転車から飛び降りると横を流れる少女と併走しながら服を脱ぎ捨て下着の一枚になると、何の躊躇もなく川へと飛び込んだ。

 頭からもろに水中に進入した彼は今が冬であることを完全に忘れ去っていた。

 寒空の寒中水泳。しかもまともな準備運動もせずに飛び込んだ彼の皮膚を、水の冷針が無遠慮に突き立てる。

 水に溶けていく体温を何とか補おうと心臓がフル加速で早鐘を打ち込み、体中の筋肉がこれ以上の消失は無謀だと痙攣を起こし始めた。

 それでも何とか水から這いだし首から先を空気の元にさらけ出した彼は必至になって目的のものを探す。

 それは幸いなことにすぐ側にあった。神の祝福か悪戯か、少女の伸びきった腕が川の中央にある大きな岩に引っかかりそれ以上の進行を阻んでいたのだ。

「待ってろ。すぐに助ける」

 ノイズがかかり始めた意識をなにがしかの義務感で打ち払いながら、進也は懸命に手足をばたつかせ、川の流れに飲まれつつ逆らいつつ少女の腕をとった。

 更に幸いなことに少女は完全に意識を失っており、進也の救出を妨げることはなかった。

 彼は少女の両脇に腕を回し、背後に回ってゆっくりとそれを引き込むように流されていく。

 橋の下を越え、今にもシャットダウンしそうな意識を振るい、川辺に生える草木や木のツタの一部を何とかつかみ取り、進也はようやく少女と共に川辺へとたどり着いた。

 白み始めた視界で土手道を仰いでも、そこを通るものはいない。

 進也は少女の胸に耳を当て、口元を確かめた。

 微弱な心音は更に小さくなっていっているような気がした。

 口元と何度確かめても、彼女が呼吸をしている様子はない。身体が氷のように冷たい。

 もう死んでいるのではないか、と彼は思うが、少なくともさっきまでは動いていた心臓を思い、今がその瀬戸際なのだと実感した。

「落ち着け、落ち着けよ、進也。人の命がかかってんだ。恥ずかしいとか言うなよ」

 震え上がる身体を擦り合わせながら何度か筋肉を動かし、それでも震える手をしかりつけながら進也は少女の衣服に手をかけた。

 濡れた衣服は空気より体温を奪っていく。既に氷のように冷たい少女の身体を思うとすぐに毛布をかけてやりたくなるが、今は息を吹き返す方が重要だ。

 リボンがかけられたブラウスのボタンを上から一つ一つ外していき、その下にある薄手の肌着を強引に引きちぎり、スカートを細い両足から引き抜いた。

 あらわになった白い上下の下着に一瞬ドキッとさせられたが、進也は大げさに頭を振って人工呼吸の準備に入った。

「心音停止、呼吸停止。」

 そして進也は少女の肩を叩きながら何度か声をかけるが、少女がそれに何らかの反応を返す様子はなかった。

「生命反応、無し」

 中学生の保健体育の実習で教えられ、今の職場に入る時にも確認した方法を一つ一つこなしながら進也は少女のあごを引っ張り、頭を下に押さえた。

「気道確保。鼻孔閉鎖」

 いよいよここまで来てしまったと進也は半ば諦めるように、一度だけ深呼吸をした。

 そして、胸を張り出来る限り肺に空気をため込み、少女の唇に自らの唇を押しつけると、おそらく適切と思われるペースで息を吹き込み始める。

 まるで死体と口づけを交わすような感触だった。その冷たさに思わずぞっとしつつも、彼はそれを二回繰り返す。

 正確には何回するべきなのか忘れてしまったし、吹き込む息の量も多すぎたかもしれない。それでもかまわずに少女の唇から口を離し今度は彼女の胸に手を置いた。鳩尾の拳一つ上、あばら骨の合わさる末尾を狙い、指先は天井を向け手のひらを重ね、彼はあばら骨が折れることも辞さずに思いっきり自分自身の体重をかけて押し込んだ。小振りなりにも柔らかな乳房が手に引っかかって少し邪魔に感じた。

 それを七回繰り返し、再度肺へ息を送り込む。

「酸欠になりそうだ」

 自分の唾液でべたつく唇を何度か拭いながら彼はそれを繰り返した。

 できることなら誰か気がついてくれ。どうせなら救急車を呼んでくれると尚いい。

 もう一〇回は繰り返しただろうか、意識が飛びそうになる度に頬を打ち付け正気を保とうとする進也の目に、少女の咳込みが聞こえた。

「おい!大丈夫か?」

 少女は咳き込みながら口から水を吐き出し、

「ふうぅぅーーー」

 と一度大きく息を吐き出し、そのまま動かなくなった。

 進也は慌てて口元に耳をやるが、少女の吐息は眠っている人間のそれであると分かり、彼も安堵のため息をついた。

 念のため手首を調べ脈をとるが、それも正常になりつつある。

「あー。ダメだ、今度は俺が死ぬ」

 近くにある勤め先のコンビニに足を運ぼうとした進也は全く力の入らない身体に負け、情けなくもその場にしゃがみ込んでしまった。

「なあ、あんた。気がついてもまだ俺が倒れたまんまだったら、今度は俺に人工呼吸をしてくれよな」

 もっとも起きた隣で下着一枚の男とが倒れてたらめちゃくちゃビビルだろうな、と彼は薄れ行く意識の中でそう思いつつ、崩れ去る姿勢のままに無意識の世界へと落ち込んでいった。



 進也が気を失っていたのはものの一〇分程度のことだったらしい。

 あの後、朝の空気を吸いに店前に出ていたコンビニの店長が川辺で倒れていた進也を見つけて大あわてで運び込んだと目覚めた進也は聞かされた。

「お手柄だったけど、無茶にも程があるよ」

 とりあえず落ち着いた進也はそういう店長からこってりと説教を食らった。幸いなことに少女には外傷はなく、ただ冷水を浴びたショックで意識を失っていただけのことらしい。

 進也の応急処置が功を奏し、彼の側で眠る彼女の頬には僅かに赤みが差し始めている。

「ところで、彼女、知り合いなの?」

 店長の言葉に、進也は初対面だとは言えなかった。応急処置をしている時には必死で相手の顔を確かめることなど出来なかったが、よくよく見ると、どうも見覚えがあるような気がしてならなかったのだ。

 その表情の造形には特徴らしい特徴は見あたらないが、その肩から流れる見事なまでの緑の黒髪は彼の記憶にある一人の少女と一致していた。

 それに、彼女が先ほどまで身に付けていた制服は、進也が以前通っていた学校の生徒であることを語りかける。

 次第にはっきりと浮かんでくるイメージをたぐり寄せ、彼は何とか思い出そうと意識を振り絞った。

 学校、教室。それに、馬鹿な悪友にやかましいクラスの女達。

 その隅にいていつもそれを遠い表情で眺めるだけの少女が確かに彼の記憶の隅にこびりついていた。教室でもまともに話す奴も居ない、誰かが話しかけてもどこかおびえたような表情でそれを見上げるだけで自分からは何の行動も起こそうとせず、正直なところ気にくわないとも思っていた少女の面影が、小さな寝息を上げながら時折辛そうな声を上げる目の前の少女と重なっていく。

「そうだ、朱鷺守七葉ときのかみ ななは。ようやく思い出せた」

 普段はあまり使うことのない頭を弛緩させ、進也は「ふう」と一息ついて、また怪訝な表情を浮かべた。

 彼の記憶が正しければ、確かこの少女は古くから続く旧家の武家屋敷のお嬢様のはずだった。

「知り合いだったんだね」

「いえ、知り合いと言うほどの知り合いではないです。話をしたこともありませんし」

 

「救急車はいつになったら来るんですか?」

 進也はいらだたしげに店長に聞く。

「それがね、今朝は急患が多いから到着はかなり後になるらしいんだよ」

「何でも今朝の早くに爆発事件があったらしくて、この川の上流だったかな」

「案外、こいつもそれに巻き込まれたのかもしれませんね」


「もう待っては居られません。俺がチャリで運びます。病院に連絡してくれませんか?」

「そうだね。お願いできるかな」

「ええ。届けたらすぐ戻りますんで」

「いいよ。君も川に飛び込んだんだから見てもらいなさい。今日は有給って事にしておくからさ」

「有給の出るバイトってどれだけ待遇いいんですか」

「今日だけ、内緒だよ」

「ありがとうございます」


 進也は七葉を毛布にくるんだまま荷台に載せ、ロープで自分自身とをくくりつけ、ゆっくり慎重に走っていった。




 ようやく一息ついたなと、進也は廊下に設えられたソファーに深く腰を下ろした。

 バイト先から二〇分ほどにある私営の病院に到着した進也は外来患者を押しのけて受付に殴り込んだ。

 受付の事務員は当初目を回していたが、彼が抱える少女が並ならない容態だと気づき、すぐに医者をあてがってくれた。

 七葉が川に落ち、一時心臓と呼吸が停止したと聞かされた医者は、急いで酸素吸入とMRIをかけたが、どうやら応急処置が適切だったこともあり、脳には大した傷害は見受けられなかったらしい。

「不幸中の幸いか。まあ、命あっての物種だしな」

 不幸とか幸いとかという言葉に敏感になっている進也はその言葉に眉をひそめたが、先ほど会わせてもらった七葉の寝姿をみて安心を覚えた。

「さてと、これからどうすっかな」

 進也も軽い問診を受けたが、殆ど身体には異常がないと診断された。

「あとは、医者に任せときゃいいわけだが」

 進也が先ほどから悩んでいるのはその一点だった。自分がここにいても七葉の治療には何の役にも立たない。

 だったら、さっさと引き上げてバイトに戻るべきだと進也は思うが、どうもさっきから足が動かない。

「結局、心配なんだな、あいつが」

 進也はそう呟くと、面会謝絶の札のかけられた病室に視線を移した。

「行くか……」

 進也は勢いをつけてソファーから立ち上がり、病室の扉を一瞥すると立ち去ろうとした。

 ここは随分と冷える。支払いを済ませてどこか暖かい場所に行こう。

 進也は踵を返し、彼方に伸びる廊下を見やった。

 距離が開くにつれ幅の狭まる壁床天井の平面は彼方に行けば一点へと収束していき、そこに立つ人間でさえもただの点に集約される。

 一人の男が立っていた。

 カツン、カツンと硬い足跡を響かせながらそれは次第に進也の下へと歩み寄ってくる。

「君がお嬢様を助けた者か」

 進也の視界を覆うほど接近したところで、彼はただ一言そう聞いた。まるで問いただすかのようなその物言いに進也は少し腹を立てたが、一応答えを返すこととした。

「ああ。そうだ。あんたは?」

 相手が礼を欠いているならこっちも礼を尽くす必要はないと進也はこれ見よがしに不機嫌な表情で口をとがらせる。

「七葉お嬢様の使いの者だ。病室はここか?」

 平均的な成人男性より少し身長が低い進也から見れば、その男は見上げるほどに背が高い、そしてその体格からして随分鍛えていることが伺える。

 普段から自転車を走らせている進也も、ある程度まとまった肉付きをしているが、その彼でさえ華奢に見えるほど彼は恵まれた体躯を持っているようだった。

「ああそうだ。面会謝絶だぜ」

「問題ない。既に話は通している」

「ああ、そうかよ」

 さすが朱鷺守の家。つい一時間前にここに来たばかりだというのに、こんなに早く迎えが来るとは驚きだった。

 しかし、進也は疑問に思った。朱鷺守の対応の早さではない、何故こんな男が病院にはいることが出来たのか。

「なあ、あんた。そんなもん持って病院に来るってのはちょっと無理があるんじゃねえのか?」

 いや、病院だけの話ではない。そんなものを腰に差していては街中を歩いただけで警察のお世話になってしまうだろう。

 進也は、彼の腰に差されている刀を差した。

「貴様、これが分かるのか?」

 男は驚いた表情で進也を見る、しかし、その視界は進也が突然に開いた病室の扉に遮られ続く衝撃に彼は姿勢を崩した。

「朱鷺守!」

 突然開いた扉に、中にいた七葉は驚いて立ち上がった。どうやら目を覚ましていたようだ。自分が何故こんな所にいるのか分からず、ただ茫然としていたところに進也が入ってきたことには大層驚いただろう。

 出来ることなら状況を説明してから連れ出すべきだろうし、朱鷺守の使いの者と一度顔を合わせるべきでもあるが、進也はそのどちらもしなかった。

 理由はあの男が持つ違和感だけだった。しかし、ここで七葉を奴に渡すのは後々取り返しのつかないことが起こりそうな予感がしていた。

「え? まさか、坂上君?」

 どうやら七葉は進也のことを覚えていたらしい。

 進也は急いで病室の扉を閉め、鍵をかけた。相手が刀を持っているのであればこれもいつまで持つのか分からなかったが、とにかく少しだけ時間が必要だった。

「お前の使いで、刀を持った男が来ている。あれはお前を引き渡してもいいやつか?」

 質問をしながらも進也は、病室を見回すと、扉の反対側の窓から外を見た。

「刀を持った人……」

 七葉の言葉を遮るように扉が荒々しく叩かれた。

「七葉お嬢様、お迎えに上がりました。ここを開けてください!」

 病室に響き渡る打突音と共に聞こえる男の声に七葉は声をのんだ。

「だめ、捕まりたくない」

 七葉はそういうと裸足のまま進也の下へかけより、彼の手を取った。

「お願い、ここから連れ出して」

 進也はそれに深く頷くと、窓を開きその下を覗き込んだ。病室は二階に位置していたが足場はあった。下の階の端に儲けられた事務棟の一階の天井部が二階の足場となって続いている。

 飾り気のない白いカソックのような一枚形成のワンピースを着た七葉にはこの道は辛いかもしれないが、逃げる道はここしかない。

「いけるか?」

 進也は七葉の目を見た。

「……うん。がんばる」

 七葉はその視線からおびえるように目を外すと小さく頷いた。

「上等!」

 進也はそう雄叫びを上げると彼女の手を取って窓から身を躍らせた。

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