第一章 七十二時間前
第一章 =七二時間前=
コーナーで突き放すそうとしても昨日の夜更かしが身に祟り上手くパワーを上げられない。
「くっそ! こんなことなら深夜番組なんて見なけりゃよかったぜ」
いつもより疲労の激しい太ももにむち打ち、坂上進也はただひたすらにペダルを踏みつける。
風切り音と共に疾走する電信柱やブロック塀。朝も早く冷え冷えとした空気が頬を殴りつけ、次第に上がっていく息がまるで機関車の上げる蒸気のように耳朶の先へと流れていく。
彼の耳を打つ二つのジャリッとした音。自転車のチェーンとスプロケットが擦りあわされる音が足下と少しばかり後方から響いてくる。ミラーの付いていない自転車ではそれを伺うためには身体をひねるしかない。しかし、この状態ではそれが致命的なスピードダウンになることは目に見えている。
「(だいたい後五車身ほどか。少しやべぇな)」
彼はその音から、後続車との距離にだいたいの当たりをつけ、目と鼻の先に迫った曲がり角を前にして慌ただしくブレーキを握りこみ、ギアを二段下げると同時に身体を大きく左側へと倒した。
まるで、角になった電信柱の表面を滑るように身を躍り出す車体に進也は小さく舌打ちをした。
「タイヤが減って滑る、サスも甘い。最近セッティングをさぼってたからだ!」
コーナリングで蓄積したスプリングのエネルギーを思うように開放できなかったことに憤慨し、進也はギアチェンジを怠るというミスをしでかしてしまった。声を出すのは肺活の妨げになることは重々承知していたが、それでも進也は文句を言わなければ済まなかった。
コーナリングで視界の隅に移った後ろの影からして、その距離はおよそ二車身程までに縮まっているように感じられる。
「コーナーで詰められるなんてことなかったってのに。最悪だぜ!」
目的地まで残すところ一〇〇メートル弱にまで迫っている。ここからはただ長いストレートがあるだけで、必要になるのは力強い踏み込みとそれを持続できるだけの体力。寝不足の今ではそのどちらも欠けているが、それでも負けたくないという意気込みだけは誰よりも強いはずだ。
二の腕と脇の間から相手の前輪が見え始めてきた。既にそいつの息づかいさえも聞こえるほど距離は詰まっている。どうしようもなく荒い自分の呼吸に比べ、そいつの呼吸は随分と安定して聞こえる。
「雑念は捨てろ! 坂上進也! 勝て、今はそれだけでいい!」
道は平坦に見えて若干の下り勾配がついている。その分、車体が減速することはないが、勝手に加速するために時折ペダルの速度がたらずに空回りが発生してしまう。本当なら下り坂用のギアが欲しいところだが、金欠気味の進也にはそれは夢でしかない。結局、空回りするペダルを踏みしめてさらなる加速に持って行くしかないのだ。
後20メートル。相手の前輪が彼の身体と並んだ。速度の伸びは相手の方が上手だ。今まではそれをコーナーで稼いできていたが、どうやらそれも今日までのようらしい。
止まることを考えていられない。ゴールの先は、国道の大通りだが、今は車が来ていないことを祈るばかりだ。
「に・げ・き・れ・ぇーーーー!!!」
チェーンも切れよといわんばかりに最後の最後の力を振りしぼり、進也はただその先にある勝利を信じてゴールのライン(横断歩道)を駆け抜けた。
車輪の差。それだけ自分の方が前に出ていた。
正当なジャッジもおらず、あくまでセルフジャッジメントであるこの草レースだが、この二人は今まで判定で争ったことはない。
進也は一二回目の勝利を確信し、真っ青になった。
「ど・ど・ど…どけーーー!!」
停車を考えないその見事のスパートの結果に残されたのは、誰からの賞賛も受けない勝利と、目前に迫る車の影だった。
進也はただ無意識に、握力の許す限り全力でブレーキを握りこんだ。
ゴムの焼ける匂いが鼻孔をくすぐり、タイヤが地面を擦り付ける甲高い音が耳朶を突き抜ける。前輪と後輪の制動差が横向きの力へと変換され、その恩恵にあずかれない進也の身体はニュートン力学の運動の第一法則に正しく従い、ただ無情に真っ正面へと飛翔していく。
「このまま空を飛び続ければ、気持ちいいだろうなぁ」
翼を持たない人間は、ただ目にしみるほど透き通った青空を見上げることしかできなかった。大昔の人間は大空を己のものとする鳥達を見て、どれだけ羨んだことだろうか。
翼を持つ者達であれば、そのまま羽ばたき気の向くままに飛んでいくことができただろう。
しかし、進也に残された未来はただ重力の束縛のままに自由落下をするだけのことだった。
「全然、自由じゃねぇーーー!!」
停車中の軽自動車を飛び越え、彼はそのまま道路の向こう岸へと墜落した。
「やあ、身体は大丈夫かい?」
コンビニの更衣室のドアを開いた進也に、中年の男性が気さくに声をかけた。
「おはようございます、綱義さん。身体の方は、まあ、平気です。頑丈ですから」
身体のあちこちに絆創膏を貼り付けながら、進也はそう言って自分の名札が付いたロッカーを開き荷物を入れた。
「頑丈なのはいいことだね。うちの息子など外で遊ばないでゲームばかりしているから。腕なんてこんなに細くてね」
綱義と呼ばれた男性は、そう微笑みながら読んでいた新聞を丸めて自分の息子がどれだけ華奢かを示した。
「そんなに細かったら折れちゃいますって」
進也は笑いながらロッカーの中にかけてる制服を取り出し、着替え始めた。
綱義はそんな彼にかまわず、にこやかな笑みを浮かべながら最近の息子はどうとか、口が悪くなってきているとか、反抗期なのかなとか喋りながらさんざん親ばかぶりを垂れ流していた。
いつものことだと思いながらゆっくりと制服を着ながら、進也ははいはい、そうですねと相づちを打つ。
高校生と同じ年代である進也にとっては子供を持つと言うことが全く想像できない。いや、彼女でもいれば話は別なのだろうが、残念ながら彼は特定の彼女を持った試しがなかった。
「それにしても、君も大変だね。その年で親御さんがお亡くなりになって、自分で稼がないといけないんだろう?」
綱義がふと漏らした言葉に、進也の手が止まった。
「ええ、まあ。大変だと思いますけど、今はちゃんと生活できてますから」
進也の、どこか無機質な口調に綱義は失言を恥じた。
「ご、ごめん。」
綱義のそんな不器用な謝り方に進也は少し頬をゆるませると、最後のボタンをしっかりと留めて振り向いた。
「いいですよ。この環境にも慣れましたから」
嘘の笑顔を浮かべるのに慣れてしまった。
「綱義さん、進也君。そろそろお願いします」
扉の向こうから顔をのぞかせた店長に答え、二人はまるで戦場に赴く戦士のように肩をたたき合って互いの健闘を祈った。
「(そうさ。悩んだり落ち込んだりしても無駄なんだ。今は生きることだけを考えていればいい)」
夜勤明けで眠そうに通路を歩く大学生と交替の挨拶を交わし、進也は変わってしまった日常へと足を踏み込んでいった。
***
「進也君、今日はもう上がりだろう?一緒に夕食でも行かないかい」
朝とは別の大学生が交替に訪れた時を見計らって綱義が進也を誘った。
綱義は昼食後はずっとバックヤードに篭もり在庫のチェックをしていたらしい。そんな彼は、これから夜勤があるのだが、店長から一時間ほど外に出ていてもいいと言われて食事に行くところだったらしい。
実のところ、進也は後一時間ほどで賞味期限の切れる弁当をもらっており、今晩の食事には困っていなかったのだが、それでも外食に対して心が揺さぶられた。
進也は少し言葉を濁して考えたが、結局断ることとした。
おそらく綱義は、年下に払わせるのは年長者のプライドが許さないなどと言って彼の分も出そうとするだろう。
正直なところ、彼にとってそれは願ってもないことなのだが、それでも綱義の家庭の事情を鑑みると彼だけに負担させることは忍びなかった。
綱義は残念そうに口調を下げるが、進也が今度の休日にでもどこかに食べに行きましょうと言うと打って変わって表情を明るくさせた。
「絶対。約束だよ」
と、まるで小学生同士の口約束のように交わされるそれを聞きながら進也は表情をゆるめ、綱義と店長、他の同僚に挨拶を交わし家路についた。
国道沿いに大きな駐車場を持つこのコンビニは、深夜には若者のたまり場になるらしかった。進也の住まうアパートはここより少し離れた静かなところに位置しているので、深夜の喧噪からは無縁だったが、時々その若者達が起こすトラブルでコンビニに警察が入ることがあると聞いてからは無縁とも言えなくなった。
進也もコンビニのバイトを始める時に、そういった一通りの防犯対策について聞かされていたが、日中が主なシフトとなる彼はバックヤードに隠されている警棒やペイント弾を実際に使ったことはない。
年々人工が減りつつあるこの街は夜になると人の往来が殆ど無くなる。
ブロック塀の側に立てられた電信柱の電灯が、夜の闇に僅かな光の穴を穿ち、それが点々と続いている。それはまるで節足動物の足跡みたいだと進也は感じ、まるで自分がどうしようもなく小さな存在であように感じて身震いを覚えた。
人生何が起こるかなんて、それが起こってしまわない限り知ることはできない。
一瞬で日常の全てが変わってしまったこの一年間を思い出し、進也は当てもなく夜空を見上げた。
街の放つ光に照らされ、本来ならそこにあるべき恒星の瞬きが今では薄ボンヤリとした赤いもやで覆い尽くされているように見える。
いったい誰がこんな街を作り出したのか。
一人の人間を埋もれさせ、寄る辺のないものには容赦のない現実と非常な日常を与えるこの街は、いったい何者のためにここにあるのだろう。
やはり、朝の言葉がまだ尾を引いているようだなと進也は感じた。
こんな、取り留めのないことを考えるのは大抵両親のことを思い出した時だ。
「帰って、飯喰って……。寝るか……。チャリのセッティングは明日だな。ああ、風呂にもはいらねぇと。銭湯、まだあいてっかな……。」
進也は夜空に向かってそう呟くと、サドルにまたがった腰を少し上げ勢いをつけてペダルを踏み込んだ。
盛りの付いた猫の鳴き声。月に向かって遠吠えを上げる犬の叫び。遠くからは電車が軌道を踏みしめる慌ただしい騒ぎが耳をざわめかせ、時折聞こえる車のクラクションは静寂であるはずの暗がりに酷く落ち着かない響きをもたらしていた。
その中にあっても人の足音が一つも聞こえてこない。どうして音にあふれたこの世界でこんなにも孤独を感じてしまうのか。
「やっぱり、誘いにのっておいたほうがよかったかな」
通り過ぎる家から聞こえる談笑の声と、暖かい料理の香りをどこか遠くに見つめながら進也はそう呟いた。進也の手は自然とズボンのポケットに入っていた携帯電話に伸ばされていた。
随分古いモデルで、既に電池の容量も殆ど限界に着ている。今朝充電をし終わっていたはずなのに今になっては既にその表示にはアラームが示されている。
その着信とメールの履歴を見ても、その先頭にあるものも既に一年以上前のものばかりだった。
世界なんてあっという間に変わる。少しばかりブレーキを遅くかけるだけでだ。
進也は何も言わない携帯電話を投げ捨てたくなる衝動に駆られるが、その手を押さえ元のポケットの位置に戻した。
進也は落ちてしまった視線を持ち上げ、前を見た。
少し先に移る四つ路の交差点の四隅の角に立てられた街灯、そしてその中心には一際濃い暗闇が身を潜めていた。
「……えっ……?」
進也はペダルから足を滑らせた。身を潜めていたのは暗闇ではなかった。いや、そもそも暗闇が身を潜めるなど、言葉が矛盾している。それもそのはずだ、暗闇には本来"身"など存在するはずもなかったのだから。
「……クスッ……」
闇だと思っていたそれは、まるで身体の回りに闇を纏っているのかと勘違いしてしまいそうなほど漆黒に染まったドレスを纏った少女だった。
年の頃は10歳〜12歳といったところだろうか。月明かりに浮かぶ夜の海にも似た、深い青の髪はただまっすぐとその背中を覆い尽くし、起伏の少ないその幼い身体を覆い尽くす漆黒のドレスは煌びやかさとは無縁にも思える装飾が施されている。そのくせ、膝を隠す程に長くふわっと広がったスカートには星空の下にある草原のようなフリルが全体をくまなく覆い尽くしていた。
黒いタイツに被われた細い足の先には、まるで進也の手のひらほどの大きさ程の足が飾り気のないシンプルなローファーを纏っていた。
そうして彼女は、ようやく私に気づいたの? と言いたげな笑みを頬に浮かべ、真円の月のに似た瞳をまるで無遠慮に進也へと向ける続ける。
その黒い少女は、まるで圧倒的な時を生きて来たかのような妖艶さを隠すことなく、ただ両腕を腰の裏側に隠し、ただそこに立っていた。
そして、彼女は進也が声を上げる暇も与えずつま先でクルッとターンをすると背を向け歩き去っていった。
彼女の姿が道の向こう側へと消えていき、その姿が完全に闇とどうかしてしまうまで進也は息をすることすらできなかった。
夢だったのかもしれない。
近所の銭湯からから帰り、土産代わりの瓶入りの珈琲牛乳を一気に咽に流し込んだ進也はようやく落ち着いた感情からその答えを導き出した。
六畳一間の畳敷きの部屋には、まるで粗大ゴミ置き場から拾ってきたかのような家具が並べられている。
既に万年床に化してしまっている布団を座布団代わりにして、その正面には円いちゃぶ台が時代を間違えたかのような様相で鎮座している。その向こうには部屋を隔てずしてカセットコンロにも似た安っぽいキッチンと流し台。すぐそばにはセキュリティーなど度外視したような扉がそびえている。
進也は飲み終えた空き瓶をすすぐこともせずにちゃぶ台に置き、そのままごろっと布団に寝転がった。
「こんな日はとっとと寝ちまうのが一番だな」
天上からぶら下げられた丸蛍光灯が風もないのにゆらゆらと揺れている。まともな暖房器具も用意されていない部屋は時折酷く冷たいすきま風が入るが、分厚い布団をかぶることでそれも幾分かましになる。
行きがけに干しておいた布団からはごわごわとした感触と共に太陽の光を浴びた一種独特な香りが漂い、それは何故か彼にとっては眠気を後押しするように感じられた。
寝転がってもスイッチを切り替えられるように伸ばされた蛍光灯の紐を引くと、部屋の中は外と同じ暗闇に満たされた。
「そういや、夕飯喰ってねぇな」
次第にボンヤリとしてくる脳裏には帰った早々冷蔵庫にたたき込んだ、とっくの二時間前に賞味期限が切れた弁当のことが浮かび上がった。
「まあ、いいか。明日の朝までは保つな。んで、朝飯は…あれで…昼は……」
何も変わり映えしない。世界なんて簡単に変わってしまうことは身に浸みて分かっていることだが、それでも繰り返される日常は早々変わることはない。
おそらく、彼の明日には今日とは変わらない日常が待ち受けており、彼に残された運命はただそれに埋没することだけだ。
眠気と共に深いため息を吐き出し、重いまぶたを閉じ、呼吸を整え、彼の意識は眠りへと落ちていった。
『世界は小さなきっかけだけで簡単に変化する』彼のその信仰は正しかった。彼のその先に待っているのは埋没すべき日常ではなく、彼の全てを否定してしまう非日常であることを彼はまだ知らない。
そうして、彼の物語は彼のあずかり知らない場所で静かに幕が開かれていった。