陽だまりのへの逃走
『マジェンタの瞳』のネタバレ含みます。
人によって不快な表現が入ります。ご了承下さい。
ぼろきれを纏った少女は走る。
手足には鉄製の重たい枷がジャラジャラ音を立てている。褐色の肌はそれらの所為で傷付き血が滲んでいた。
薄汚れた黒髪を靡かせ、彼女は必死に逃げる。逃げなければ、捕まれば、恐ろしい折檻が待っている。
最悪、甚振られた上で殺される。
「奴隷が逃げた!追え!追えー!!」
息を切らせて必死に走る。
喉は血の味がした。
食事を最低限しか与えられていない為に、目眩もする。ふらつく足をなんとか前に進め、彼女は人混みを塗って街中を駆け抜ける。
「誰か!!捕まえてくれ!!!」
恐ろしい男の声が迫る。
大通りの人混みは紛れるのには最適だが、あまりここを長く走っていれば関係の無い誰かが彼女を捕らえるだろう。だから、彼女は路地へと入る。
もう、あんな所に戻されたくは無い。
幼かった弟も、父も母も、殺されてしまった。奴隷だからって、希望が無くたって、彼女は生きたかった。
「助ける!待って!」
突然、見知らぬ青年に捕まった。
見上げた先に揺れるのは短い赤毛。助けると言った彼は、緑の優しい瞳をしていた。
「怖いっ!生きたいっ!死にたく、ないっ!!」
必死に暴れる彼女を青年は抱き竦める。鼻を擽るのは、温かな、陽だまりの香り。
「怖くない。大丈夫。一緒に行こう。」
彼が着ているマントの中に隠されて、彼女は抱き上げられた。そのまま青年が走り出す。向かうのは、少女が来たのとは反対側。怖い人ではないだろうかと怯えて見上げる彼女に気が付いた彼は、失った家族が彼女へ向けたような、優しく温かな顔で、微笑んでくれた。
「ネス!あの街に近付くなって言っただろうが!!」
彼の腕の中、しばらく運ばれた彼女は突然の怒鳴り声に怯えた。男の低い声。怖い。叩かれる。殺される。
「親父、怒鳴るな。怯えてる。」
「あぁ?」
ネスと呼ばれた青年は、彼女の顔を覗き込んで安心させるように笑い、そっと頬を撫でる。こんな風に優しく触れられるのは、家族を失って以来初めての事だった。
「お、前…奴隷を攫ったのか?」
「自力で逃げてたんだ。あのままだと殺されてた。団長に、すぐここを発とうって伝えて来てくれねぇ?姉さんは?」
「子供達とテントにいる。助けたなら、責任持てよ?」
「わかってる。」
自分がどうなるのか怖くて、だけれど縋るものはその青年しかいなくて、彼女は、彼の服を掴んだまま震える。
「大丈夫。枷も外してやる。一緒に逃げよう。俺はネス。お前は?」
「…ゾーイ……」
「ゾーイ、もう大丈夫だ。怖いのは終わりだよ。」
「ほん、とう…?」
「本当。女の子だろ?着替えよう。ご飯は、今から移動だからパンか果物でも良いか?」
パン、果物…そんな物を食べさせてもらえるのかと、ゾーイの喉が鳴り、胃も空腹を主張し始める。
「…ネスは、怖い事しない?」
「しないよ。だから、安心しろ。」
これまでゾーイに優しく笑った人達は、怖く無いよと言いながら酷い事をして来た。だけどネスは、今までの怖い人達とは違う。ネスなら怖くないかもしれない。ネスは、陽だまりの香りがするから。
「うっゔぅ…う〜……」
涙が止めどなく溢れて、ゾーイはネスに縋り付く。
歩きながら、ネスはゾーイを抱き締めて、何度も優しく、頭を撫でてくれていた。
「姉さん、助けて。」
「ネス、その子は?」
「拾った。枷を外したいんだ。アユーンは出来るかな?着替えと、食事も。だけど、多分まともな物食ってなかっただろうから、消化に良い物。あと、ここを発つから。」
「一気に言わない!まったくもう。…ユニス、お父さんを呼んで来て?」
ネスが助けを求めたのは、ネスと同じ髪と瞳の綺麗な女。彼女の腕にはネスに似た小さな男の子が抱かれていて、腰には白銀に輝く髪と緑の瞳の女の子が張り付いている。ユニスと呼ばれたその女の子は元気良く返事をして駆けて行った。
「ゾーイ、俺の姉さんのミア。姉さんも、怖い事しないよ。水、飲む?」
ぐずぐずに泣いているゾーイを抱いたまま木箱の上に座ったネスに、ミアが水を手渡した。それをネスは、ゾーイへと差し出す。
「腹痛くなると困るから、ゆっくり飲め。」
ネスの服を掴んだままで恐々ゾーイが見上げると、ネスはまた、優しく微笑んでくれる。なんだかほっとして、ゾーイはネスの言い付けを守ってゆっくり水を飲み干した。
「美味しい…」
「ゾーイ、姉さんが食べ物持って来てくれる。少し待ってて?」
こくりとゾーイが頷くと、ネスは温かく微笑む。何故かとても安心して、安心したら、ゾーイは眠くなってしまう。
「眠いなら寝ても良いよ?」
「ネスは、何処にも、行かない?」
ゾーイの家族みたいに、消えてしまわないだろうか?
眠って起きたら全てが夢で、またあの、暗く怖い場所に戻っていないだろうか?
「側にいてやるよ。」
彼は、信じても大丈夫。
ゾーイは久しぶりに、とても安心して目を閉じる。そしてあっという間に意識は遠退いた。