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トラブルド・ウォーター(後編)

 さっきまでしとしとと降っていた雨は、いつの間にか本降りになっていた。街灯に照らされ、水煙にけぶる夜道を、僕は村雨ちゃんと並んで歩いている。


「雨、強くなってきましたね」


「うん。このぶんだと、土砂降りになるかもしれないね」


 鼻をつく雨のにおいを敏感に感じながら、ビニル傘越しに夜空を見上げて僕は言った。厚い雲が星々も月をも覆い隠して、雲間からわずかばかり漏れ出る光は淡く頼りない。


「でしたら、急ぎますか、旦那様?」


「いや、土砂降りが傘をたたく音ってのもなかなか乙なもんだよ。ゆっくりいけばいいさ」


「畏まりました」


 村雨ちゃんはしずしずと頷いた。そう、なにも急ぐことなんてないのだ。玄関の件の言い訳を考えるのに、時間はいくらあっても足りない。まあ、全くの方便ってわけでもないけれど。雨が強く傘を叩く音が好きなのは、紛れもなく本当のことだ。


 やがて住宅街を抜け、市街との折衝地帯にさしかかった頃には、僕の予想通りすっかり土砂降りになっていた。


「村雨ちゃん、足下気をつけてね。この辺は街灯も少ないから」


「お気遣いありがとうございます。あ、旦那様、そこ段差ですよ!」


「え? うおっ、ビクった……」


 隣をいく村雨ちゃんに気を取られて、歩道と歩道の切れ目の段差におもいっきり躓いてしまった。なにが足下気をつけて、だ。人を気にかけてる場合かよ。非常に恥ずかしい。


「自分でコケてちゃ世話ないね。しかし村雨ちゃん、夜目が利くんだね」


「はい。これでも剣の精霊の端くれですから」


「それがどういう因果関係あるのかはわかんないけど、頼りにしてるよ」


「はいっ、お任せください」


 20メートル間隔に並ぶ街灯がちょうど村雨ちゃんの横顔を照らした。さながらサーチライトのように延びる光の帯に、きらめく雨粒と傘をかたげた和服美女の柔らかなほほえみが見事に調和して、さながら一枚の絵画のごとく僕の心を打った。しばし息が詰まる。


「旦那様、どうされました?」


 覚えず歩の止まった僕を、村雨ちゃんは心配そうに伺う。ようやく僕は我を取り戻して、「いいや、なんでも」とその場を取り繕った。きれいだ、とは気恥ずかしくてとてもいえなかった。剣の時は臆面もなく言えるのにな、と僕は村雨ちゃんに気付かれないようにそっと頬を掻いた。


 この市街と住宅街の緩衝地帯は、以前に大型商業施設の誘致が持ち上がって立ち消えた影響で今も荒涼とした更地が広がっている。なかなか買い手がつかないらしいとは親父の弁で、一応封鎖されているが夜になると不良の溜まり場になっていると言う話だ。だから帳がすっかり降りたこの時間帯、ここを通る人はほとんどいない。僕もよっぽどのことがなけりゃ通ることはないんだけど、僕んちから駅まで最短でいこうとすると、必然ここを通ることになる。

 まあ村雨ちゃんと契約して担い手になった僕なら、そこらの不良に力負けすることはないだろう。……その不良も担い手だったらどうなるかわかんないけど。


「おっといけない、これはフラグだな」


「ふらぐ、ですか?」


「そうそう、こんな会話してるとさ、マンガとかだと敵がやってきたりするんだよ。そういうのの予兆とかきっかけになりそうなのを、フラグって言うんだ」


「へええ、そうなんですかあ」


 なんか村雨ちゃんが妙に感心してる。僕はちょっと調子に乗ってしまった。


「そうそう。こう言うときに、「もしほかの担い手が襲いかかってきたらどうしよう」とか考えちゃうと、高確率で襲ってくるからね」


「旦那様、お気をつけください……!」


 よくある「お約束」を笑ったつもりだったんだけど、帰ってきたのは緊迫の色をにじませた村雨ちゃんの声だった。


「え、どうしたの?」


「数打の気配があります。おそらく、先ほどと同じ担い手の放ったものかと」


「ええっ!?」


 どうやらさっきのはフラグだったらしい。チキショーめ。

 雨はその勢いをますます強め、ほんのかすかな月明かりさえも消し去った。広めの間隔で設置された街灯の光は雨に散らされ、一寸先は無明の闇。

 スッと、ごく自然な動作で村雨ちゃんは僕に寄り添った。いつでも抜けるように用意する。エロい意味ではない。


 ばちゃり


 雨音にかき消されそうな水音が、闇の向こうで発せられた。それはゆっくりと、歩くような早さで連続する。

 こちらに向かってきている。確実だった。飲み込んだ唾に、喉が大きな音を立てた。


 ばちゃり、ばちゃり。足音は街灯の一歩手前で止まった。固唾をのむ。


 ばちゃり


 ついに、その姿が街灯の光に浮かび上がった。同時に、張りつめていた緊張が一気に霧散するのを感じる。

 光の中にいたのは、中肉中背で背広姿の、傘をさした中年男性。どこか顔立ちが僕に似ているのは、それが僕の親父であるからに他ならなかった。


「なんだ、親父かよお。傘、電車に忘れたんじゃなかったの」


 張りつめていた息を盛大に吐いて、僕は親父に歩み寄った。


「……」


「あれ? そんな傘、ウチにあったっけ? なんだよ、もう少し待っててくれたら、わざわざ新しい傘なんて買わないでよかったのに」


「……」


 親父が持つ傘は、いつも家に備えてある半透明のビニル傘ではなく、赤い布を張った蛇の目傘であった。妙にレトロな雰囲気を醸す傘だ。それにしても、何でさっきから親父はなにもしゃべらないのだろうか。


「旦那様」


「あ、ちょうどいいや。村雨ちゃん、この人、俺の親父。んで、えっとな、親父。この娘は村雨っていって……」


 怪訝そうな顔を崩さないまま、村雨ちゃんは僕の隣までよってきた。そういえば、親父をまだ紹介していなかったな。

 そう思って、村雨ちゃんの名を出したそのときだった。親父の双眸に爛々と狂気の光が灯ったかと思うやいなや、親父は傘の柄を素早く引き抜いて、横に払った。


「なっ!?」


 僕の身体能力が底上げされていなければ、きっと今の一閃で首が飛んでいた。とっさに村雨ちゃんを刀にして引き寄せていなかったら、彼女もそのような運命をたどったろう。頬に短く熱い線が走ったけれど、これだけで済んだのは紛れもなく僥倖だった。それだけ鋭く、きわどい剣閃だった。

 手放された傘が二つ、水しぶきをあげて地面に落ちた。

 僕の視線は、とっさに振り抜かれた傘の柄を見ていた。しかしそこにあったものは、もはや傘とは言えない代物だ。

 白刃だった。切っ先に薄赤く色づいているのは、今ほどの僕の血だ。それは傘の柄から極細身の刀身が延びた、明確な刀剣だった。


「仕込み刀かよ!」


 とっさに5メートルばかりバックジャンプで下がりながら、僕は驚愕の表情を浮かべていた。着地と同時に、村雨ちゃんに意識をやる。


「村雨ちゃん、あれは!?」


『数打です、間違いなくっ』


「だけど、親父だぞ!」


『乗っ取ってるんですっ、大旦那様の体を!』


 たまらず、僕は視線ごと手の中の村雨ちゃんに意識を向ける。


「本当に親父なのかよ! 乗っ取るって……!」


『影を作るよりも、負担が少ないんです! 数打も、それくらいはやりますっ』


「それくらいって……じゃあ、もし親父を切っちまったら……」


『……数打ちは倒せますが、大旦那様も』


「クソッ」


 僕は悲鳴じみた悪態をついて、雨に佇む親父を見据えた。親父は、親父を乗っ取った数打は、ゆらりと街灯の下に佇んだままで、こちらの様子をうかがっているようだ。

 雨の滴る白刃は街灯の光を鈍く反射して、てらてらと妖しく揺らめく。

 あまり時間はなさそうだった。


「村雨ちゃん、なにか方法はないのか?」


『あります』


「あるんだ」


 以外にもあっけなく即答で返ってきたので、若干拍子抜けしてしまう。村雨ちゃんは続けた。


『刀身か鞘か、どちらでもかまいません。どちらかを斬れば、数打は人を操る力を失います』


「なるほど、シンプル」


 僕は村雨ちゃんを正眼に構えた。数メートル先の親父がゆらりと動く。この程度の距離は、あってないようなものだ。一つ踏み込むだけで、彼我の距離はゼロになる。


「っ!」


 刹那、踏み込みにあわせて繰り出された鋭い刺突を、村雨ちゃんの腹で横に逸らす。金属同士の擦れる甲高い音が、雨音に負けじと響いた。

 親父を乗っ取っている数打は、仕込み刀と言うだけあって細身だ。本来からして切り結ぶようには作られていない。今だって突きを主体として攻撃を仕掛けているのは、そういうことなのだろう。村雨ちゃんは日本刀でありソードブレイカーではない。だが、あれくらいならば苦もなく切断できるだろう。なぜか僕には確信があった。


「村雨ちゃん、アレ、いけそうかな」


『万事問題ありません。いけます』


 心強い肯定がかえってきた。なら、後はタイミングだ。

 そうこう言ってる間にも、親父の攻撃は断続的に襲いかかってきていた。人の限界を超えたようなスピードで繰り出される刺突を時には避け、時には村雨ちゃんで払いを繰り返す。今のところ、防戦一方である。敵の攻撃は恐るべきスピードであるが、担い手となったことで強化された僕の五感と身体能力のおかげで今のところは難なく捌けている。正直、集中して目を凝らせば雨粒の一滴だって止まって見えるほどだ。数打と宝刀では、圧倒的に宝刀が勝っているという証左でもあった。

 かといって、油断して良いわけではない。いくら身体が強化されているとは言え、皮膚が鋼になった訳じゃない。斬られれば血が出るし、急所に刺されば死ぬ。そこは至って普通の人だ。

 踏み込みにあわせた強烈な突きが放たれた。避けられないほどではないけれど、あえて村雨ちゃんで大きく弾く。親父の体勢が若干崩れた。これが赤の他人なら延びきった膝に一撃蹴りをお見舞いして体勢をさらに崩させるのも一つの手であるのだが、大恩ある肉親ともなるとそれは躊躇われた。

 僕は小さく舌打ちして、二、三度バックステップで距離をとる。仕切直しだ。彼我の距離は20メートル、ちょうど両者ともに街灯の下、降り注ぐ無機質な光に照らされる格好になった。

 雨の勢いはさらに強まり、さながら怒濤の大瀑布のただ中に佇むが如し。揺らめきたつ水煙の向こうの親父が、ゆらりと剣を目の高さまで持ち上げ、地面と平行になるように構えた。僕もまた、村雨ちゃんを正眼から下段に構え直す。

 全身を打つ雨粒の冷たさを感じないほどに、ジリジリと熱い駆け引きが数秒。

 両者の後ろ足がバネのように引き絞られ、次の瞬間、爆ぜた。

 秒を十に刻んでまだ余るほどの、まさに神速の踏み込みだ。陸上短距離走世界記録を悠々と超え、常人では目ですら追えないほどの一瞬で彼我の距離は0となり、また攻防も一瞬だった。

 僕の喉もとを狙って繰り出された正確極まりない突きは、それまでの突きとは一線を画す鋭さであった。剣の力で大幅に強化された僕の視覚でも捉えきれないほどの、まさに刹那の突きは、しかし虚しく空を切った。理由は簡単だ。接敵の瞬間、僕が大きく上体を沈ませたから。頭皮の一枚分上空を刃が通り過ぎていったのはさすがに肝を冷やしたけれど、でもビビっている時間はない。親父の腕が伸びきっている、今が絶好の機会だ。これを逃せば次はない。

 下段の構えからしゃがみ込むと同時に勢いよく跳ね上げた村雨ちゃんは、狙い過たず数打の刀身を根本から、易々と切断していた。金属を引きちぎる悲鳴のごとく甲高い音が後から聞こえてくるほどに。それは刹那、いやさ涅槃静寂とすら言える一閃だった。

 キマったな、と不意に笑みがこぼれるほどの、会心の一撃だ。

 斬りとばした数打の刀身は、宙でくるくると回転してついにアスファルトに落ちた。からんからんとまるで頼りない音がした。あっけないものだな、と思わずにはいられない。

 刀身を失った数打から、夜闇よりさらに黒く濃い靄がもわりと霧散して、次に糸が切れたマリオネットのごとく親父はその場にドサリと崩れ落ちた。一張羅の背広が雨と泥で大変なことになってしまっている。これはクリーニングだな、と僕はどこかふわついた思考の中で思った。


「やりましたね、旦那様」


「あ、ああ。勝った」


 いつの間にか人の姿になっていた村雨ちゃんに声をかけられて、僕はようやくジワリと勝利の実感が押し寄せてきたのを感じた。


「そっか、勝ったんだな……」


 眼下に横たわる親父には怪我一つ加えず、ただ数打のみを斬る。思えば、戦いに関してはド素人もいいとこな僕には非常に難易度の高い戦闘だった。それもこれも僕の横でニコニコほほえむ村雨ちゃんの力あってのことだ。


「村雨ちゃん、ありがとうね」


「そんな、もったいないお言葉です」


 極自然にこぼれた感謝の言葉に、謙遜する村雨ちゃんは気恥ずかしそうにはにかんでいた。僕もつられて、微笑む。

 あれほど強かった雨は、いつの間にか止んでいた。


「ところで村雨ちゃん。親父、ピクリとも動かないんだけど大丈夫なんだよね」


「はい、一時的に気を失っておられるだけです。しばらくすれば、目を覚まされるかと」


「そっか。……ぃよっと」


 僕は目を回したままの親父を引き起こして、背におぶった。幼い頃はよく親父におぶってもらったり肩車してもらったりしてた僕が、親父をおぶることになるなんてなあ。なんだかちょっと感慨深い。背の親父からしっかりと呼吸が聞こえたのにひどく安堵した。初めて背負う親父は、とても軽かった。


「それじゃ、帰ろっか」


「はいっ、旦那様」


 こうして、雨の日の一悶着にケリが付いたのだけど、やっぱりこういうのってこの後起こる事件のほんの始まりにすぎないわけで。

 まあとりあえず、今日のところは帰って寝よう。さすがに遊び盛りの高校生っていってもクタクタだ。


 ちなみにその晩のうちに親父は目を覚ましたけれど、翌日は全身筋肉痛で会社を休んだ。

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