赤い月は西へ 青い月は東へ【短編版】
冬は寒く、夏は暑い気候をしている東北のとある地方都市。そこの郊外に県下でも有名な私立学校があった。
私立御堂学園。中高一貫校制度をこの地方都市で初めて試みだした学校である。その歴史は長く、明治時代まで遡ることができる歴史と伝統あふれる学園でもあった。
その歴史上で幾人かの著名な人物を輩出したことで知られ、そして同時に幾人かの奇人変人をも輩出した学園でもある。
歴史は繰り返される。現在この御堂学園には学園全体に轟く有名な変人、いや怪人が在籍していた。
その名は石黒 聖。高等部二年の男子生徒である。
「ほほぅ……さすが県下一番の蔵書数を誇る御堂学園図書館。興味深い本が揃っている」
静かな空間に整然と立ち並ぶ本棚の隊列。その隙間を縫うように聖は足を進めていた。つぶやく独り言はどこか物憂げな響きをもっている。
彼がいるのは学園の敷地内にある図書館だが、その収蔵している本の数は並みの図書館を越えている。詳しく数えた訳ではないが、県内でも一番の蔵書数を誇っていると噂されている。大げさの様に聞こえるだろうが、一階から三階、さらには地下の書架にも本が詰め込まれている光景を見れば頷けるだろう。
授業終了直後の学園、放課後の時間で静かに賑わう本の森を散歩している聖の姿は見目麗しい王子そのものであった。
身長一七〇㎝ちょうどのスマートな体躯、日焼けを知らない珠の白い肌、妖しくミステリアスな雰囲気を漂わせる甘いマスク。しかしながら弱々しさを感じさせない芯のある引き締まった肉体、意思の篭もった瞳は本の背表紙を追っている。
加えてこの青年、文武両道を地で征く能力を誇っていた。
学校のテストの成績は入学以来一位から落ちたことがなく、運動部に所属してはいないが体力測定では常人以上の優秀な成績を叩き出している。
眉目秀麗、文武両道と完璧超人ぶりを発揮している聖。だが、この学園において彼のそういった部分はあまり知られていない。
なぜなら、それ以上に彼の奇行、変人ぶりが有名過ぎるからだった。彼の逸話を前にすれば、妖しいほどに端正な容姿も優秀な成績も霞んでしまう。
まずは、何故聖が図書館にいるか? それはこの一画に収められている本の種類を見れば分かる。
「昔懐かしいアトランティスにムー関連の書籍か。お、こちらは金枝篇。それに魔術への誘い、か。こっちはネクロノミコンのコピー本。ツチノコ考察まであるとは。ふむふむ……こんなラインナップか」
聖が呟いている内容から察せられるように、いわゆるオカルト、トンデモ本がこの一画に集められていた。そして彼は自分の好奇心を満足させるオカルト本を求めて図書館にやって来ていた。
彼の興味は何もオカルトに限ったことではない。科学、医学、サバイバル、軍事、政治、経済とこれまで節操なく、好奇心のアンテナが反応すれば何にでも手を出し、手を染めてきた。
しかも、行動力と能力に満ち溢れ、人脈に資金まで備わっているので、やることなすこと大事になりやすい。学園のある地方都市をも巻き込んで大規模なイベントすら起こしたことが何度もあり、地域でも石黒聖の名前は知れ渡っていた。
そんな好奇心と行動力の暴走特急みたいな青年が、今現在の興味の対象としているのがオカルトとトンデモ話、都市伝説の類だった。
興味を持った切っ掛けはごくささいな事からだ。そこから興味の対象が拡大発展し、オカルトに繋がっている。そうして数々の逸話を知識として仕入れていく内に好奇心のアンテナは刺激され、気が付けば都市伝説やトンデモ話にまで手を出していた。
そんな暴走しやすい好奇心だが、聖はそれすら興味の対象にしている。自分はどこまで暴走できるのか試してみたくもあったからだ。
「んー、一通りは見たことがあるものばかりだな。書架も期待外れだったし、今度は古本屋でも行くか」
残念ながらこの図書館には聖のお眼鏡にかなう内容の書籍はなかった。数は多いものの、どれも以前に読んだ事がある内容ばかりだったのだ。
こうなれば街で知人が経営している古本屋に行ってみようかと考える。チェーン展開されている某ブックでオフな古本屋とは違い、古き良き時代の佇まいを残す店には意外な掘り出し物が数多く並んでいる。あそこなら満足できるものがあるだろう。
そうと考えれば聖の行動は早い。早々に本棚に見切りをつけて彼が所属する部活動に顔を出すべく足を進める。活動が終われば古本屋だ。
脳内ですぐに決断を下し、足を踏み出す。いや、踏み出そうとして足が止った。聖の目が一冊の本を捉えたからだ。いや、視線が本に吸い寄せられたのかもしれない。
「これは? いや、さっきはこんな物はなかったはず」
聖の視線が捉えた本がある棚は数分前に見終わった場所だ。途中で人が来て本を入れた様子もない。そして彼は記憶力にも自信を持っている。その記憶が定かならば、ここの棚にこんな本はなかったはず。
普通の感性を持った人だったら、妙な不気味さに身を縮ませるだろうが彼は違う。大いに反応した好奇心という名のアンテナが赴くままに本に手を伸ばした。
ズシリと手にかかる本の重み。ハードカバーの重厚な作りをした表紙は、驚くことに革張りだ。それも人工革でなく天然もの。黒く染められた革の表紙に金の刺繍でタイトルが描かれている。
俗な話だがいかにも値が張りそうな高級感があり、だからこそ学生が利用する図書館では浮き上がって見える本だ。さらに言えば、図書館貸し出しのバーコードも張られていない。
「『Magia Liber』魔法の本とはストレートなネーミングをしている」
金の刺繍で描かれたタイトルはラテン語のものだったが、聖はある程度理解できていた。さっそく中を読もうと表紙を開けば……
「およ? 開かない」
力を込めても本はページを開こうとしないのだ。もしやフェイクで、本型の置物に過ぎないのかと思うが、閉じた紙の纏まりは本物にしか見えない。接着剤を使ってもここまで見事に接着することは難しいだろう。ページの間は髪の毛が一本も入る余地すらない。
この不思議な本を前にして、聖の好奇心アンテナはますます反応を強めた。
「素晴らしい。これは楽しまないと嘘だ」
盛り上がる気持ちのまま、聖はその場を後にする。手にはもちろん革張りの開かない本を持ったままだ。
学園一の変人は好奇心を満たすことにかけては極めて貪欲だ。その彼が初めて出会った不思議な本。自重という言葉は脳内の辞書に存在しない。この不思議を前にどうして好奇心を抑えられるか。
余談だが、ニコニコ顔で図書館を後にする聖を目撃した図書委員は、これから巻き起こるだろう騒動を予感して背筋を寒くしたという。
◆
御堂学園には石黒聖には劣るものの、知名度のある有名人が何人か在籍しており、赤沢 紅兵もその一人になる。
彼は見た目のインパクトが強い人物だ。身長二一〇㎝、体重一〇〇㎏を誇る巨漢であり、学園でも一番の隆々たる体格を誇っていた。巨体の上に乗っている顔は聖ほどではないが整った端正なものではある。しかし、野性味があり過ぎて黙っていても野獣じみた雰囲気のため美男子であることは知られていない。
今時の若者風に適度に髪を伸ばして茶色に染めているが、かもし出る全体の雰囲気は益荒男という言葉がピッタリくる漢であった。
その見た目通りに運動能力はずば抜けている。自宅のある家は実戦派の格闘技の道場で、所属している部活動も空手部。バリバリの体育会系と非常に分かりやすいキャラクターの持ち主だ。
さらには、街の不良に恐れられている男でもある。市内の不良集団を何度も制圧して、彼らを恐怖のどん底に落とした実績が彼にはあった。今では紅兵が街を歩けば、道を行く不良達がこそこそと裏道に逃げ去るまでになっているとか。
紅兵自身も不良を自認しているが、タバコも酒もましてや薬物もやらない。体を鍛える上で害でしかないからだ。
今日一日の授業が終わり、机と椅子から窮屈に収めていた体を引っこ抜けば自由な放課後が彼を待っていた。
部活の空手部は本日は休み。家の道場も今日は休みになっている。部活と道場とで意外に忙しい身の紅兵にとって、週に一度あるこの日は楽しみにしている日であった。
机から立ち上がり、その巨体をぐっと伸ばし疲れをも吹き飛ばす。
「くぅぅ……松公の野郎、課題多すぎだろ。っとに」
直前まで授業をしていた数学教師、松田某に文句を言いながらカバンに教科書をぞんざいに入れ、肩に引っかけて教室を出て行った。帰りのホームルームはサボると決めた。
街でも恐れられる不良であるためか、教室の中で彼に声をかけてくる級友はいない。だが、クラスでそんな仲間がいなくとも寂しいとは思わない。紅兵には別口で大の親友がいるからだ。
教室を出た紅兵は、そのまま帰宅することはない。彼はのっしのっしと悠然と歩き、その足を旧校舎に向ける。
五年前までは使用されていた木造モルタルの二階建て校舎が旧校舎になる。現在では、技術室、家政室と特殊教室に使われているが、空き教室も目立っている。その内の一つで紅兵の足は止った。
教室の名前を示すプレートはない。だが、扉の横に一抱えほどはある大きな木製の看板がかかっていて、毛筆体の達筆な字で教室の所属を謳っていた。
『実践派文芸部』
こう書いて、『フルコンタクト文芸部』と読ませる巫山戯たネーミングの部活動がこの学園にはある。
この看板一つで実に入り難い雰囲気となってしまった教室の扉を、紅兵はなんの躊躇いもなく開けて中にズカズカと入っていった。
何を隠そう、紅兵もこの部活動に掛け持ちで所属している一員なのだ。ヒマになった時は大抵ここにやって来て、時間を潰していくのが彼の習慣になっている。
「なんだ、誰もいねぇのか。聖ぐらいはいると思ったのによ」
教室、いや実践派文芸部の部室に誰もいないと知った紅兵は、眉をしかめて手近にあった椅子に腰を下ろし、これまた手近にあったバイクの専門誌を手に取った。
実践派文芸部。それは石黒聖が創設した部活動で、現在彼を筆頭に五人のメンバーが所属している。このおよそ文学とは無縁そうな紅兵もその一人だ。
活動目的は文芸活動する為のネタ集めを自分自身の体で体験し、見聞を広めることにある。部の信条は、経験と知識が文章に深みを与える、とある。
これだけを聞くとまともな部活動に聞こえるが、その実体は尋常ではなかったりする。
例えば、リアルに闇鍋会を開くのは序の口。夏休みに合宿と銘打って無人島にナイフ一本でサバイバルしたり、どんな伝を使ったのか在日米軍基地に体当たり取材をやらかしたり、街全体を巻き込んだイベントをでっち上げたりと、その活動実体は石黒聖の奇天烈な行動に周囲が振り回されるというものだった。
部活のメンバーにしても、聖以外は全員掛け持ち。実質は彼一人の部活と言っても過言ではない。そのため、実践派文芸部は別名『変人の巣』と呼ばれていた。
その変人の巣だが、室内もここにやってくる人間によって染め上げられているため、なかなか賑やかなことになっている。
天井まで届く大型の本棚に一杯の文庫本。これはここの主、聖が蔵書の一部を持ってきたものだ。その隣にある小さな本棚に詰め込まれた漫画は紅兵の私物だ。中身は『はじ○の一歩』や『G○O』といったマガ○ン系がほとんど。床の一部には畳が敷かれ、他にもティーセットや刀袋、デジカメにノートパソコンが無秩序に置かれて混沌としてる。まさしく変人の巣の名に相応しい無秩序さだ。
その混沌の室内だったが、紅兵には割と過ごしやすい環境だったりする。下手に綺麗で整った部屋より雑然とした方が落ち着く。
ティーセットの中から適当な菓子を見つけて摘み、小型の冷蔵庫からダイエットコークを取り出して飲み、バイク雑誌をめくる。ついでに近くにあったリモコンでオーディオコンポの電源を入れれば、入れっぱなしになっていたCDから曲が流れ出した。
「ニルヴァー○、聖か。あいつ入れっぱなしにするとは珍しいな」
親友の趣味のロックミュージックが部室を包み込むが、この旧校舎に他の生徒や教師が来ることは珍しい。だから大音量でギターサウンドが響き渡っても迷惑をかける事はない。紅兵も傾向は違うが、この手の音楽は好物だ。音量をそのままに流れる音に身を任せた。
ちょうど一曲が終わった辺りで、部室の扉が開いた。入ってきたのは部室の主、聖だ。小脇に何かを抱えている。
「や、紅兵。来てたのか」
「おう。CD入れっぱなしだぞ」
「ああ、うっかりしていたな。図書委員から書架見せて貰えるっていうから放置していたよ」
「はーん。とすると、そいつが獲物か」
「それがね。書架にもロクなものが無くてガッカリしてたら、普通の棚で興味深いものを見つけたんだ。で、持ってきた」
「怖えな。お前が興味深いって言うと大抵トンでもないものだぞ」
「ふふーふ。とかなんとか言って、君も興味あったりでしょ」
「まぁな」
聖が小脇に抱えた物を黒板前の教卓に乗せる。姿を現わした重厚な作りの本に、紅兵は怪訝そうな顔をして友人を見やった。
「で、そいつのどこがお前の興味をそそったんだ? 確かにお高い本みたいだが、それだけじゃないんだろ」
「もちろん。まずは本を開いてみてくれない?」
「ああ」
聖の言葉に頷いた紅兵はバイク雑誌を放って、教卓に聖と向かい合わせの形で本に手をかけた。
けれどもページが開かない。軽く力をこめてみたが、それでもだ。さらに力を入れたいが、そうすると本自体が壊れてしまいそうなので思いとどまる。
「おい、なんだこりゃ? 置物か」
「違うと思う。ページはしっかり開くようになっている構造だ。接着剤を使っているようにも見えない。でも、この通り本は開かない。実に興味深いと思わない?」
「呪いの本とかじゃねぇよな。いやだぞ、オレ」
「呪いなら呪いで良いじゃないか。それすら興味の対象だよ。なんかワクワクしてくる」
不可思議な本を前にして、気味悪がるよりも目を輝かせる聖の様子に紅兵は軽くため息を吐いた。二人の関係は中等部からの付き合いであるが、出会った当初から続くこのノリに彼は半分達観していた。
周囲を巻き込んでその時その時の状況を全力で楽しむ男。そんな聖の世渡りの仕方に紅兵は羨ましさを覚えると同時に、楽しさを感じていた。
そう、ため息を吐いていても紅兵は聖が毎回持ってくるイベントを楽しみにしているのだ。道場と部活での稽古の毎日。嫌いではないが退屈な日々に聖は刺激を与えてくれる。不良達を相手取るよりも充実している感じがする。
だからこの実践派文芸部にいる。聖の考えるプランの肉体労働担当が自分だと自任している紅兵だった。
「じゃあ、他の皆が揃ったらこれの解明といこう。本日のお題だ」
「マジモンの呪いじゃないことを祈るか」
「僕はマジモンだったらいいなと祈ろう」
「やめい」
◇
さて、御堂学園の有名人は何人かいると先程述べたが、この人物も有名人に該当する。
御堂 怜緒。名前からも察せられるようにこの学園を創設した人物の子孫になる。地元の名士の下に生まれ心身ともに健やかに育った怜緒は、学園創設者の子孫というだけの有名人ではなかった。
身長一七〇を超える身体はまっすぐに伸び、起立した一本の刀剣のごとく。遠くを見据えるような目は大きく眼力も強く、左右で瞳の色が異なるのが印象を強めていた。一度も染髪していない黒髪は鴉の濡れ羽色という言葉がピタリと当てはまる。凛々しさが前面に出ているが、同時に柔らかい印象も損なわれていない。
怜緒を見る人が男性なら女性に、女性なら男性に見えてしまう中性的な姿。しかし、怜緒が着ている女子制服のお陰で性別を間違えられた事は今のところなかった。
御堂怜緒、十七歳の少女は自分の名前にもコンプレックスをもつお年頃となっていた。
「お爺様。なんで私の名前を怜緒などと決めたのでしょう?」
「む。いや、男であれ女であれ獅子のように逞しくあれ、と願ったまでだ。お前が男に生まれていたら……そう、獅子吼と名付けていたな」
「確かに、お爺様の教育のお陰でここまで育つ事ができました。が、逞し過ぎるのもいかがなものかと考えるようになりまして」
「ホ、澄江から聞いているぞ。女子生徒から告白されたそうだな。いやいや、結構結構。男女問わずに孫娘がもてるのは気分がいいものだて」
「お爺様っ」
場所は学園の職員スペースの奥にある学園長室。怜緒が話しているのは彼女の祖父にして彼女の名付け親であり、学園を取りまとめる学園長であった。
学園創設者の一族としていまだ影響力がある御堂家の代表者だが、孫娘を前にした彼は単なる孫好きな好々爺だ。時折こうして授業の終わった怜緒を部屋に招待しては話を聞き、祖父と孫との親睦を深める習慣が二人の間にはあった。
一通りの書類仕事が終わった今は、趣味の将棋を指しつつ孫との話を楽しんでいる。生憎と怜緒は将棋の腕は高くないため、雑誌の棋譜を見ながら一人で指している。
本日の孫娘の話は怜緒という自分の名前に対するコンプレックス、それに伴う女子らしさの不足に対する悩み、といったところだろう。
パチリ、と将棋の駒を盤面に指しつつ、学園長は怜緒を改めて見やる。
孫娘という贔屓目を抜きにしても魅力的な女性であると彼は思う。すでに死去した学園長の妻、怜緒の祖母の若い頃に良く似ている。彼女も気の強い女性で、学園長はそこのところを好いていた。時代の流れか現代の若者の体格は大きくなっていき、怜緒も良く似ていた祖母より上背がある。それが凛々しさに拍車をかけているのだ。
それでも女性的な魅力とは縁遠い訳ではない。なにしろ、その魅力をキチンと分かっている若者もいるのだから。
「いや、ワシは男女問わずと言ったのだぞ。お前の魅力は男共にも通じておるよ。ほれ、石黒聖が良い例だ」
「えっ!? なぜそこで石黒の名前が出てくるのですか」
「ワシとアヤツは茶飲み友達で将棋仲間なのは知っているだろう。つい昨日もここで将棋を指しながら『お孫さんを下さい、もしくは婿にさせて下さい』とか言っておったぞ」
「……あいつ……なんて事を」
「ほほほ、澄江と婿殿の所にも挨拶にいったらしくてな。外堀から埋める気だな。なかなかの策士だわい」
石黒聖の話が出てきて、怜緒の顔に戸惑いと一緒に朱が差しているのを学園長は見逃さない。脈はアリと見た。
かの若者の武勇伝は学園長も聞き及んでいる。かなり破天荒で型破り、中等部の時の進路志望に『独裁者』と書いて担任教師を困惑させた話は今でも職員室内で有名だ。だが、基本的に善性の人間であることは将棋仲間として付き合ってきて分かっている。
停滞していると言われる世の中、彼のような若者が世に出て現状を打破していくことを学園長は期待していた。きっと、この学園を創設した先祖も時代を動かす若者を育てることを考えてこの学園を創ったに違いないだろう。自分の孫娘を含めて、若者達の青春の一ページになるのなら聖の話を受けてみるのも悪くない。学園長はそう考える。
「まさか、石黒の話を受けて私を彼の嫁にする、なんて言い出しませんよね?」
「嫌なのか? 彼は多少型破りだが、付き合っていて気持ちの良い男だぞ」
「ええ、それは知ってます。でも……結婚なんて早すぎるのではないかと」
「確かにそうだな。では、結婚を前提とした付き合いから始めるのはどうだ」
「うぅ……それが健全な方法でしょうけど、いきなりなので何とも答えられません」
「うむうむ、分かっとる。ワシも性急すぎたわい」
いきなりの結婚話に、怜緒は常から身に纏っている凛々しさを脱ぎ捨ててしまい、しどろもどろに言葉を出すしかできない。
普段は腑抜けた物言いをすれば祖父の厳しい面が顔を出すものだが、この時は怜緒の内心を分かっているのか笑みを浮かべたまま頷いているだけだ。
結局、このままイエスともノーとも言えないまま、怜緒は学園長室を後にした。「ひ孫の顔を見てみたいのぉ」などという声を後ろに聞きながら。
時に優しく、時に厳しく。海外出張の多い父よりも祖父は怜緒の身近な異性の肉親であった。彼の指導で武術を修め、彼を規範として人の道を学んだ。いわば、ここまでの人生における師匠なのだ。
そんな師匠に婿を紹介されてしまった。それも石黒聖という男である。
彼の事は嫌いではない。むしろ好ましい分類に入るだろう。だが、あのトンでもないトラブルメーカーぶりはどうにかできないものか。聖が巻き起こすイベントの後始末、事後処理、ブレーキ役は怜緒の役どころでもある。ただし時折、興が乗ってしまって変速機の役割になり、一緒になって騒いでしまったことも認めなくてはならないが。
ともかく、この降って湧いた結婚話も聖のプランニングした策略かと思う怜緒は、一路旧校舎へと向かう。祖父の話からすれば、家族はすでに篭絡されている。自分一人であの難敵に立ち向かわなくてはならない。
「そう、これは戦だ。私の恋路を賭けた勝負なのだ」
戦いともなれば怜緒の心は奮い立つ。手に持った刀袋にも力が篭った。居合道を修めている彼女は祖父から譲ってもらった業物の刀を持っており、この後で稽古に行く予定があったのだ。
実際に聖を切り倒すことはできないが、袋越しでも刀に触れていれば気持ちが落ち着く。
いざ実践派文芸部へ。彼女もそこの掛け持ち部員であるのだ。
意外に達筆で感心した記憶がある聖直筆の看板を視界に入れつつ、扉を勢い良く開け、良く通る声で彼女は宣戦を布告した。
「たのもーっ! 石黒聖という戯けはいるかっ!」
「や。いるよ。宇治の良いお茶があるんだけど飲む?」
「なに? じゃあ、貰おうかな」
「了解了解、ちょっと待ってて」
「ああ」
入るなり聖にお茶を勧められて、思わず頷いてしまった怜緒。彼女は自分の定位置である床に敷いた畳に内履きを脱いで座り、刀と稽古着の入ったバッグを脇に置いて聖の淹れる茶を待った。
彼は洗練された手つきでお茶を淹れていき、緑茶ならではのふくよかな香りが部室に広がる。
「はいどうぞ」
「ありがとう。――うん、おいしいな」
「葉が良いものだからね」
「いや、淹れる人間の腕があればこそだよ」
「お褒めにあずかり恐悦至極と」
渡された湯飲みに満たされた緑の液体を飲めば、体がほっと温まる。程よい渋み、甘み、口当たり。どれをとっても怜緒の中では満点だ。御堂の家にいる使用人でもこれ程のお茶は望めない。
体に広がる幸福感。このひと時は全てを忘れ去って至福に浸れる。はて、自分はなんで部室に殴りこんだのやら……あ。
しばらくの間があって怜緒はようやく自分の目的を思い出した。彼女を愚鈍と思うなかれ、聖の心のスキを突く悪辣さこそ恐るべきものなのだ。
「石黒! お前お爺様に何を吹き込んだんだ! 嫁に欲しいだとか言わなかったか」
「まあまあ落ち着いて。せっかくの良いお茶がもったいない」
「むぅ、まあ飲み切ってからだな」
「つうか、ここまでのテンポを見ているとコントみてぇだな」
「なんだ、赤沢もいたのか」
「ひでぇっ! オレ忘れられてるし」
「石黒が持ち込んだ熊の剥製かと思ったよ」
「OK、いっぺんステゴロで勝負しろこのアマ。どうせ素手でも『使え』んだろ」
「断る。今はお茶が優先だ」
ほどよく混沌、ほどよく喧嘩、ほどよく無法。これが何時もの実践派文芸部にある空気だ。
この心地良さを所属している人間は知っている。怜緒も例外ではない。何の因果か、長い付き合いがある聖に強引に入部させられたが、今となってはこの部室の空気は肌に馴染む。
この世に生まれて十七年。規律と礼節を重んじる生き方しか知らなかった怜緒に新しい世界を見せてくれたのは聖である。闇鍋も無人島も、米軍基地や街を巻き込んだお祭り騒ぎも振り返ってみればいい思い出である。新しい世界を見せてくれる聖に、怜緒は小さく淡い思いを抱き始めていた。
これが『恋』などとは自覚できなかった。祖父から話を聞かされてもまだ実感できない。ただ、胸の奥底が仄かに暖かい。
ああ、でもこれは美味しいお茶のせいだな。怜緒はそう思うことにした。
「で、誰が誰の嫁になるって? リアル熊殺しの女に男が惚れるかよ」
「死にたいか? 去年の夏休みのヒグマの様になりたいか?」
「ああ、あの時の熊鍋は美味しかったね。怜緒、もう一回熊狩りしようか。今度は二人で」
「む。ああ……まあ、頑張ってみる」
「マジかよ。聖、女は選べよ。見た目は確かに良いけど、中身はミルコ・ク○コップも裸足で逃げ出すマッシヴ女だぞ」
「よし、そんなに生き急ぎたいか。私が超特急を用意してやろう」
「おうよ、やってやろうじゃんか。お前とはいっぺん白黒着けたいところだったしな」
「望むところ」
御堂怜緒。十七歳の年頃の少女にとって、恋愛の感情はまだ保留にしておきたいものであったようだ。
◆
掲示板に張り出された白い大きな一枚の紙。天海 全一はそれを睨むように見つめていた。いや、実際に睨んでいる。
彼が睨んでいるもの、それは中間考査の成績上位者を書き出したものだ。学生である以上は勉学は重要、こうして上位成績者の名前を張り出して生徒に発破をかけるのも学園の業務といえた。
成績上位の首位の部分に全一の目がいく。
1位 二年A組 石黒 聖 500
2位 二年A組 天海 全一 498
そう、たった二点差で全一は首位から転落してたのだ。原因も分かる。英語でのスペルミスで一問落としてしまったのだ。配点わずか二点、しかし巨大な壁だと全一には感じられた。
一八〇cm超の長身に、爽やかさを感じさせる涼やかな顔立ち。銀縁のメガネが知的なイメージを引き立てる。聖がミステリアスな雰囲気の美男子なら、全一は王道的な爽やか美男子である。その美男子の顔が悔しさで歪んでいる。
彼は、端的に言って聖をライバル視していた。
文武においての能力は、ほぼ互角。しかし常に聖が上をいっているのが現状。人気度については、学園内で生徒会長である全一に軍配が上がるが、広い視点で見てみると色々なところに人脈を持っている聖の勝利だ。知名度も言わずもがな。生徒会長の名前を知らずとも聖の名前を知っている人がいるくらいだ。
完全に勝っていると言えるのは身長だけとは情けない。全一としては打ちひしがれてしまう。
これまで全一の人生は常に一番の称号と共にあった。
幼稚園でも、小学校でも、中学校でも、親の期待を裏切ることなく成果を叩き出し、応えてきた。そしてそれがいつしか彼の誇りにもなっていた。
その自信が打ち砕かれたのが、御堂学園の高等部に外部入学してから初めての中間考査だった。彼は人生で初めて首位から転落したのだ。
初めて味わう敗北の感覚。悔しいやら悲しいやら、怒ればいいのか悲しめばいいのか、全一にはまったく分からなくなってしまい、これまた人生初の保健室入りになってしまった。さらにその後三日間寝込んでいた。
どうにか立ち直った彼は、自分を破った聖という人物を知りたくなり、調べてみることにした。
すると出るわ出るわ、凄まじい数の逸話や噂話。中等部にいた時から自重という言葉を質に入れたような人物であるらしく、彼の武勇伝で一本の話が書けてしまえそうだった。
こうなると、実際に会って人となりを確かめてみなくてはと思い、彼が立ち上げた実践派文芸部に足を向けたのが天海全一最大の不覚だった。ノリノリで接客してくる聖に乗せられている内に、あれよあれよという間に入部届けにサインしていたのだ。
あいつ稀代の詐欺師になれるぜ、とは同じ部活のメンバーとなってしまった赤沢紅兵の言葉だったが、全一も全くもって同意できた。
その後、全一はこの実践派文芸部を生徒会との掛け持ちで参加することにした。詐欺まがいな手法で入部させられたが、ライバルと認定した相手の近くで観察が出来るなら彼の望みに適うものだった。
ただ、聖の行動力と企画力を舐めていた部分もあり、この一年ほどはライバルに振り回される日々を送っていたのが不満といえば不満だった。
「あ、会長。帰るのですか?」
「ああ、君か。いや、この後部活に顔を出そうと思っていた」
「あ~……お疲れ様です。変人先輩の相手は大変でしょう? 振り回されていると聞いてますよ」
声をかけてきたのは生徒会に所属する下級生だ。彼は聖に振り回されている全一に同情的な感情を持っているようで、部活に行くと言った途端に哀れみの篭った目を向けてきた。
プライドの高い全一としては、安易な同情はカチンとくる。くるが、怒鳴るのも大人げがない。それに――
「いや、そう大変でもないさ。不満に思ってはいても案外愉快な奴だぞ」
「そんなものですか?」
「ああ、そうだ」
大変と思ったことは不思議となかった。不満に思った理由もライバルに主導権を握られ続けているからで、振り回される事自体に否やはなかった。
思えば聖は不思議な人間である。学園や街に騒動を度々巻き起こしておきながら、真に嫌がられる行為はしないし、憎まれる事もしていなかった。その見極めが酷く上手いのだ。相手の許容量ギリギリを見極めて、その範疇で暴れまわる愉快な男。それが全一の見た石黒聖である。
下級生と別れ、部室のある旧校舎へ向かう全一。
彼の思考は、下級生に言われて初めて思う事。去年の春からもう一年が経とうとしている。実践派文芸部に入部させられて一年、一七年という自分の短い人生で最も充実していたような気がする。聖を初めとした四人のメンバーと一緒に、色々な馬鹿を真剣にやり、真面目に不真面目なことをしていた。
地元の名士の一つ、天海家の長男として厳格に育てられた全一としては、あの日々にとてつもない開放感を覚えていたのだ。同じく地元名士の家の長女である怜緒も似たような感覚があったのではないかと彼は思う。
もしそういった事を鑑みて入部させてきたというなら、聖はかなりの策士である。いや、半分以上の割合で彼の仕込みだろう。一年付き合ってみると、変人と呼ばれる彼の奇天烈な行動の裏に幾つもの仕込みやギミックがあると全一は察せられた。行動原理はいま一つ理解できないが、目的に邁進する姿勢はライバルとして参考になる。
全一はこの学園の中で聖の能力を一番評価していると自負していた。
旧校舎の部室前に着くと、中がなにやら騒がしい。ロックらしい音楽が大音量で聞こえるのは良くある事として、どっすんどっすんと重い振動が伝わってくるのはよろしくない。
「赤沢が暴れているのか。まったく」
部室の扉を引き開け、注意の一つも言ってやろうとしたが、中の様子は若干全一の予想の上をいっていた。
「いでででぇぇ……くそっ、さすがリアル熊殺し。サブミッションで絞めるとかパネェぜ」
「まだ言うか」
「ぐぇぇぇ。ギブギブ」
部室に敷いている畳をマットに、怜緒が紅兵を組み敷いて締め上げていた。関節技とか寝技には詳しくない全一だったが、紅兵がかなりキツク締め上げられているのは分かった。
凛々しくても細身な怜緒が、プロレスラー並の体格をした紅兵をギブアップ寸前まで締め上げている光景はかなりシュールに見える。だがこの部内なら時々起こっているじゃれ合いみたいなものだ。
「また負けたか赤沢」
「おお、会長か。みっともない姿をさらしちまったぜ」
「みっともないのは毎度の事でしょ」
「ぐぉぉぉ。だからギブって言っているだろうが」
この調子ではもうしばらくじゃれ合っているだろうな。そう思った全一は、観客モードに入っている聖の近くを居場所と決めた。
「赤沢も懲りないな。前はカードで勝負だったか」
「違う、それは前々回。前は放課後にバッティングセンターで勝負だったよ。あ、お茶飲む? 宇治のお茶が入ったんだ」
「貰おう。それにしても正面からの肉弾戦も制するとは、御堂はかなり高性能だな」
「いやー、お金が取れるベストバウトだったよ。そこのビデオカメラに記録しているから後で見てみるといい。その後ヨウツ○にでも投稿しようかな。はい、お茶」
「ありがとう。カメラで記録しているとは用意がいいな。――ん、美味い」
差し出された湯のみに満たされたお茶をすすり、何気なく部室内を見渡した全一は教卓の上に見慣れないものをみつけた。かなり丁寧な作りをした一冊の本だ。革張りのハードカバー、そこらの書店では目にする事のない高級さを感じる。良家の子息になる彼の目はそれなりに肥えているのだ。
昨日は見なかった物だから、誰か持ち込んだのだろう。とは言え、今の全一にはあまり興味が湧かない。彼の関心は今回の中間考査の成績だ。
「石黒、今回のテストも満点だったな。流石と言うべきか」
「ん? そうなんだ。まぁ、ミスはなかったから大丈夫と思っていたけど。教えてくれてありがとう」
「ぐっ……君の反応はいつもそれだ。少しは誇れ。でないと負けた側からすると嫌味のように見えるぞ」
「そんなものかなぁ。普通に授業に出てくる内容を覚えているだけなんだけど。それで誇れというのも」
「……」
こういう人間である。こんな聖と張り合うにも精神力を必要とする。機会を見ては全一は聖に勝負を仕掛けているが、こうして勝っても興味がない様子だ。いや、そもそも勝負だと理解しているかどうか。
入部して以来、何度か色々な種目で勝負を挑んだ全一だったが、全てにおいて僅差の負けを喫してきた。そう、僅かだからこそ悔しく、燃えてくる。差はほとんどないのに何故か負ける。その上、肝心の聖は勝負事に対する興味は薄い。本気を出している気配がないのだ。
普通だったら、こんな人間の相手は嫌になってしまい、無関心を決め込むだろう。だが全一は違う。彼は巨大な壁を感じたら挑みかかり、正面から打ち崩したくなる人間だった。
「ふん、まあいい。学校が出すテストなどで君の才覚を計る事自体が無謀なんだろう。ならば僕が君を計ってやる」
「今日のお題は?」
「チェスだ」
「早指しなら付き合うよ。鈴音が来るまでって事で」
「よし」
手近にあった引き出しからチェスのセットを取り出して、さっそく準備。このチェスセットは全一が家から持ち込んだ物で、聖との勝負事によく使われる。戦績は、やはり負け通しではあるが。
「会長、今日こそ勝つと思うか?」
「難しいと思うが。お爺様に付き合って将棋を指した事もあるけど、石黒は大した指し手だと言っていたな」
いつの間にかじゃれ合いを終えた外野が好きなことを言ってくれる。チェスも自前の物を用意するだけあって、全一はこの分野でも少なからぬ自信を持っていた。それを粉砕してくれたのも聖であったが、やはり戦意が衰えることはなかった。
強大なる実力を持ったライバル。しかも本気を出していないらしい。大いに結構。自分が好敵手とするのだ、そのぐらいのスペックは当然のように持っていて欲しいものだ。自分はその巨大な壁を正面から踏破し、打ち崩すまでになってやる。
天海全一は自覚していないだろうが、人生初の好敵手の出現にこの一年浮かれていた。彼は困難が前にあると燃える人間ではあるが、これまでは高い能力でライバルらしいライバルに恵まれてこなかった。そこに現れた石黒聖という好敵手。浮かれてしまうのも無理のない話だったのだ。
事あるごとに勝負を仕掛け負けてもめげない。勝負だと理解されなくても根気強く張り付く。そして今日も彼は越えるべき壁に勝負を挑む。
「方式は五分チェス。一気に行こう」
「いいよ」
「先攻はこちらか。いくぞ」
◇
御堂学園高等部一年に所属する女子生徒、近藤 鈴音には敬愛してやまない人と不倶戴天の怨敵の二人の人間が身近にいる。
授業を終えた彼女は、教科書とノートを詰めたカバンとは別に着替えと水着、タオルが詰め込まれたバッグを手に教室を出た。温水プールで一年を通じて泳げる設備を持った御堂学園では、強豪の水泳部を抱えている。鈴音はそこの部員であった。
水泳部内での実力は程々、中等部から入部しているが目立つような成績を上げたことはなく、数の多い部員の中で埋もれている一人である。けれど鈴音はその事で気にしたり、悩んだりすることはない。元々、泳ぐ事と体力づくりのために入部したのであり、大会に出場することに興味はなかった。
現在の彼女の興味はただ一点。敬愛する人、御堂怜緒との距離を縮めることであった。
鈴音が怜緒と出会ったのは御堂学園中等部に入学して間もない頃になる。
最近までランドセルを背負って小学校に通っていた鈴音は、広大な敷地がある学園で迷ってしまった。そこに現れ、案内を買って出たのが怜緒である。出会い方としては凡百のフィクションにありがちなものだったが、鈴音にしてみればお話みたいな運命を感じる出会いであった。
恋に恋する初心な面があった当時の鈴音の目には、上背がある凛々しい怜緒がそこらにいる男子よりも輝いて見える憧れの存在として映った。
部活は入学当初から水泳部に入ると決めていたため、剣の道を往く怜緒とは憧れの存在として遠くに見るだけで終わるのだろうと思っていた。
その彼女が掛け持ちで別の部活動に入っていると知った時、深く考えることもなく入部届けにサインしてしまったのが、怨敵と出会うきっかけだった。鈴音、入学から一ヶ月目で実践派文芸部に入部、部長の石黒聖とのエンカウントを果たした。
彼を知ったことで、なぜ他の怜緒ファンが入部してこないのか思い知ったが後の祭り。人間台風の猛威に思い切り巻き込まれていた。
だが、それでも彼女は部を辞める事はない。遠くで見るだけと思っていた怜緒と身近に接して、彼女と一緒に部活動に励む日々をどうして辞める事ができるか。接する毎に憧れは愛おしさ、尊敬、敬愛になっていく。色々な顔を見せる怜緒に鈴音は夢中であり、実践派文芸部の活動も良いものだと思えるようになっていた。
ただ、出会って数分で石黒聖は怨敵認定するべき存在となったが。
ずんずんと足音も荒々しく部室に向かう鈴音。身長一五〇㎝半ばの部内で一際小柄な体型なのでいま一つ迫力はないが、怒っている事は周囲の人に良く分かった。
怒りもする。彼女が敬愛する人が、怨敵の嫁になるという噂が学園に広まりだしているのだ。一発殴るどころか、サクッと一刺ししたい気分である。今からでも家庭科教室から包丁を調達しようか、などと半分本気で考えていた。
噂の真偽はともかく、噂があること自体が許せない。敬愛するべき『怜緒お姉様』についた特大の悪い虫、石黒聖に怒りの鉄槌を下しても罰はないと思う。むしろ称賛されるべきね、と怒りのオーラを纏いつつ鈴音は部室の前にやってきた。
「まず入ったらグーで一発殴る。その後キックも入れて……うん?」
聖に下す処刑方法を考えていたが、不意に周囲の変化に気付いた。
――何か、違和感がある。
どこが、とか具体的な言葉に変換できない何かを鈴音は感じ取った。昔から勘が良いほうで、霊能力でもあるのかと思っていた時期が彼女にはある。振り返れば恥ずかしい黒歴史だが、この勘働きは今でも結構信じていた。
周囲に人の気配はなくなっている。元々人気の少ない旧校舎だが、それでも特別教室に用がある人はいるはずだ。でも今は耳が痛いほどに静か。静か過ぎるくらいに。
何より、外にいるはずの野球部やサッカー部、ラクロス部といった部活動の活気が聞こえてこないし、目の前の部室からも物音がしない。この時間なら聖や赤沢は確実にいるはずなのに。怨敵の趣味はロック鑑賞だ。賑やかな部室が基本である。
何時もの校舎の雰囲気と違う。嫌な予感に逃げ出したくなるが、この扉一枚向こうに怜緒もいると思えば怯えて無様をさらしたくない。
勇気を奮い起こして部室の扉を引き開けた鈴音。そうして見えた視界の光景は、彼女の予感を悪い意味で裏切るものだった。
部室の中が強い光に包まれている。外に漏れることのない強い光が部室中を照らし、鈴音の視界を眩ましている。
手で視界を遮りながら部室に入ると、中にいた人達の様子が分かるようになった。部室内に五人のメンバー、実践派文芸部のフルメンバーがこの場に揃っている。
紅兵や怜緒、全一などは突如として起こった事態に呆然としている。例外なのはただ一人、起こった出来事を前に目を輝かせている聖である。
「おおぉぉっ! 凄いぞ、リアルに超常現象が目の前で起こっている。これは記録しなくては。あ、ちょうど良い、鈴音そこのビデオカメラで動画を撮影して」
「ふぇ? あ、うん。――これでいい?」
「グラシアス! 良い仕事だ鈴音部員」
謎の発光現象が目の前で起こっているのに、動きが固まるどころか嬉々として一眼レフのデジタルカメラで撮影を始める聖。三脚を付けたビデオカメラの近くにいた鈴音をごく自然に助手にして、さっそく撮影会を始めている。シャッターを凄い勢いで切り続け、本職のカメラマンばりに写真を撮影していく。
その様子を見て、ようやく我に返って再起動を果たした鈴音が聖に詰め寄った。
「ちょっと、石黒部長! これは何なのですか!? どうせ貴方の仕込みでしょ」
「う~ん、仕込みじゃないのは誓って言えるけど、僕の持ち込み企画なのは確かだね」
「何ですかそれ。仕込みじゃなくて、持ち込みって」
「それはね――」
聖が説明するには、図書館で不思議な本を見つけて興味が出たから部室に持ち込んだ。ついさっきまで何ともなかった本だが、突然光りだし、あろうことか宙に浮いたのだとか。
彼の言葉に鈴音は光源がある教卓に目を向ける。なるほど、目が慣れると光の中に本らしき物が空中に浮いているのが分かる。実感が湧かないが、間違いなく本物の怪奇現象のようだ。
鈴音が見ているなか、光を放ち続ける本に動きがあった。空中に浮かんだ本がひとりでに開き、パラパラとページが捲れていく。同時に放っていた光が弱まり、代わりに床に光を放つ魔法陣じみた複雑な紋様が部室の床一面に浮かび上がってきた。
足元に現れた魔法陣らしい紋様に聖を除いて全員が足を浮かせて驚く。聖はカメラを床に向けて変わらず撮影を続けて「おー、魔法陣」とか感嘆の声を出していて、こんな異常事態でもマイペースを崩さない。少しは慌てなさい、と鈴音は思うが彼が慌てている場面は想像が難しい。
「これは拙い気がする。一度外に出よう!」
この場ですぐにまともな意見を出したのは生徒会長の全一だ。この超常現象に危機感を感じた彼は、鈴音が入ってきた扉に手をかけて開けようとする。が、しかし――
「開かないっ!? 鍵はかかっていないはず」
「窓も開かない!」
全一が力を込めても扉はびくともしない。窓に手をやった怜緒も鍵が開いているはずなのに開かない様子を伝えてきた。
「御堂っ、どけ!」
「何を!?」
危機を感じた紅兵は、手段を選ばない。怜緒を窓からどかし、手近にあったパイプ椅子を手に持って窓に叩きつけた。開かないなら割れば良い、という事だ。
隆々たる体格から放たれたパイプ椅子の一撃は、しかしガラス製であるはずの窓を破れなかった。金属同士が激しくぶつかる音がして、返ってきた衝撃で紅兵はパイプ椅子を落としてしまう。
「なんじゃコレ!? 窓ガラスが硬化テクタイトみたいになってやがる。お前の仕業ってことはないよな?」
「ないね。幸いにして学園内に敵は作ってないから、狙撃を心配する必要はないし、部室の窓を防弾仕様にする意味はないよ」
紅兵の問いかけに聖は変わらずデジカメで撮影を続けて答えている。これほどの異常事態の中でも彼は平然としており、部室を見渡して一言感想を口にした。
「これで僕達は閉じ込められたね。どうしようか?」
「あれが原因なのは明白だろう。なら、あれを何とかするのが一番なのではないか」
「怜緒お姉様……」
危機感がない戯けた聖に代わり、怜緒が一歩本の前に進み出る。手には刀袋から出てきた一振りの打刀、シンプルな突兵拵の柄に手をかけて鯉口を切った。
どうやら過激な事に元凶らしい本を斬るつもりだ。その様子を見た鈴音は不安そうに声をあげ、怜緒は彼女を見やり不敵に笑って見せた。
すらり、鞘から現れる刀身。彼女の目は獲物を狙う猛獣のように、ページが捲くれ続ける本を見据える。本のページが捲れるたびに床の魔法陣の輝きが増していく。時間がない、直感が鈴音にそう告げていた。
「確か、鍛えた鉄には魔を祓う力があるのだったか。怜緒の千子村正でズンバラリンとできる? アレ」
「してみるさ」
軽く呼気を整えた怜緒は刀を構え、見据えた本に一足で飛びかかった。五M近くはあった距離をゼロに縮めて、唐竹に刃は振り下ろされた。
刃と本がぶつかる。異常に次ぐ異常な事態の中でここにも異常な現象が起こり、本は斬り落とされる事なく刃は止められた。
そして部室を照らす不可思議な光は一気に強まり、部屋に溢れかえる。
自分の手も見れないほどの光の中、鈴音の意識も白く漂白されていく。そしてこの場にいる実践派文芸部の全員の意識も光の中に消えていった。
光が収まった後、実践派文芸部の部室に五人の姿は無くなっていた。五人の行方に関して、残されたデジカメやビデオカメラの映像で騒動が巻き起こったのだが、それは別の話というのはサルでもわかる事だろう。
◆
漂白された意識が急速に色彩を取り戻し、現実に焦点を結ぶ。カメラのフラッシュよりも強力な光を浴びて途切れた身体の感覚は、手に持った刀の柄の感触から復帰した。
「……うむん? 一体何があった」
御堂怜緒は、なぜ自分が愛刀を抜き身で持って外にいるのかしばらく分からなかった。周囲をゆっくりと見やり、何でこんな場所に居るのか記憶を掘り返す。
彼女の現在いる場所は、見渡す限り一面の草原であった。
なだらかな丘陵地帯に青々とした草が茂り、樹木は見える限り一本も無い。視界を遮るものが一切無く、天を仰げば程よく雲のある青空が広がっている。日本では見慣れない夢の中のような光景だが、草原を吹き抜ける風が草を撫でて肌にも吹きつける。
匂う草と土の薫り、耳には草が揺れて擦れ合う音が重なり、波音に似た清涼な音が聞こえる。これらには確かな実感があった。
五感全てで感じる夢。そうでなかったら、これは現実だ。
「あ、そうだ! 聖は? 赤沢、鈴音、生徒会長は?」
これが現実だと受け入れた怜緒は、ここでようやくさっきまで何をしていたかを思い出した。
聖が持ち込んだ不思議な本が引き起こした怪奇現象。それに危機感を抱いた彼女が、本を斬り捨てるべく剣を抜き、斬り付けた途端に光があふれ……この後は意識がない。
改めて周囲を見渡しても実践派文芸部の面子どころか、怜緒以外の人間は一人もいない。ふと、地面に人工物を見つけた。彼女の持ち物である刀の鞘と刀袋、それとバッグだ。刀を抜き身のままにする趣味は彼女にはないので、鞘を拾い上げて納刀。刀袋に入れようと思ったが、今の異常な状況に警戒感が湧いたので袋はバッグにしまい刀は手に持つ。
学園指定の内履きと通学用にしているシューズも見つけて、シューズの方を履き替えて内履きはバッグへ。昇降口の靴箱に入れたはずのシューズがなぜここにあるのか? 考えても解答は出そうにない。
「……さて、どうすればいいか」
疑問で溢れかえって混乱する頭を、持ち前の胆力と精神で強引に落ち着かせ、最善の行動を考える。
こうなった原因や理由を知りたくはあったが、この場で考えて出る答えではないのは明白だ。だから怜緒の思考は、すぐさまこの後の行動を思考する。唐突に突きつけられた異常事態に、彼女は素早く思考を切り替えたのだ。
風光明媚な場所ではあるが、周囲に人影は無い。遮蔽物がない丘陵は見渡す限り人工物は一切ない。指針すらなし、この場で待っていても助けがある気配もしなかった。
「余りにも馬鹿らしいが、運を天に任せてみるか」
まずはバッグの中身を確認。稽古着の袴と胴着に替えの下着、タオル、清汗スプレー、ペットボトルに入ったスポーツ飲料が中に詰まっている。
この内、飲み水になるスポーツ飲料と衣類は重要な存在だ。以前、聖によって強引に企画された無人島サバイバルで得た知識が脳内に蘇る。人は一日二Lの水を必要とするが、手元にあるのは五〇〇㏄だけだ。これでどれだけ行動できるかが生死を分ける。
バッグの底にチョコ菓子も見つけた。ナッツをチョコで包んだこのタイプは中々にカロリーがあり、この非常時にはありがたい。後で鈴音と一緒に食べようと思っていた物が、こんな場面で非常食になるとは奇妙な気分だ。
これら物資が尽きる前に次の補給の目処を立てなければ、怜緒に未来はない。
おもむろに怜緒は手に持った刀を地面に立てて、柄から手を離す。支えを失い傾いた刀はパタリと地面に倒れ、あたかも一方向を指し示しているかのよう。
「あっちか……よし行こう」
相当に馬鹿らしいのは怜緒自身も分かっている。紅兵辺りにアホの子と言われても反論できない。
けれども周囲に一切の人工物がなく助けが来るあてもなし、さらに目印になるようなものもない草原のただ中だ。移動するにしても漠然と歩くしか方法が無い。ならばこういう方法で自分をある程度納得させる必要が彼女にはあった。
愛刀村正が指す方向に足を踏み出す。茂る草は怜緒の脛ぐらいと高くなく歩行に問題はない。足の下で踏まれた草が音を立てて、道なき道を作り始めた。
◆
怜緒が見知らぬ土地を歩きだして数時間の時間が経った。空にあった太陽が傾き出して、地平線の彼方から月が顔を出したのだが、それが怜緒を驚愕させた。
「月が大きい。それに二つある」
まだ日中という事もあって顔を出しても光が弱い月。それでも見慣れた月よりも数倍大きく、何より二つもある異常さは彼女の目を釘付けにした。
二つの衛星は見かけのサイズは同じで、一方が青味がかった色でもう一方が赤味がかっている。さらに青い方はその周囲に薄くリングを形成しているのが視認できた。
こうなるとここは地球ではない、別の惑星という結論が下された。はたまた自分の脳が完全におかしくなったのか、怜緒は額に手を当てて目を閉じて天を仰いだ。感じる草原の薫風は相変わらずリアルなままだ。
さらに数時間歩く。その間にスポーツ飲料は約二〇〇cc、チョコ菓子は三個消費された。
太陽は傾きを強め、地平線の彼方に沈もうとして赤い色に染まる。反対に二つの月は空に昇り、輝きを増してきた。夜が来ようとしている。暗くなる周囲に怜緒の内心は焦り出していた。
これだけ歩いて周囲に一切の人工物がない環境は、日本ではまずありえない。いや違う星らしいから、そもそも人類が存在しないのかもしれない。つまり人を探して歩く事自体が無意味なのかもしれない。
そう思い至ったところで怜緒の膝が折れて、大地に前のめりに倒れこんでしまった。延々と目的地もなく歩き続ける行為は、肉体以上に彼女の精神を消耗させていた。
制服につく草を気にすることなく、寝返りをうって仰向けに。黄昏時の空は怜緒の心情などお構いなしに紅く美しい。
私はここで死ぬのか。ふとそんな思いが浮かび、即座に否定した。何を弱気になっている御堂怜緒、この身は病もケガも無く空腹ではあるが動けるではないか。そうだ、今は休憩だ。日が沈むから火を起こす必要があるだろう。さあ、生きるために動くんだ。
持ち前の逞しい精神で復帰した怜緒は、火付けのための薪を調達しようと身を起こした。すると傍らに何かがいつの間にかいた。
咄嗟に刀に手が伸びる。しかし、良く見るとそれは見慣れたものである。
「犬?」
ポツリと呟いた彼女に返答するように、オンと一声返す動物。
茶色の毛皮に包まれた四足の獣。大型犬サイズのそれは、ピンと立った耳に巻いた尻尾を持つ柴犬をそのままサイズアップさせたような姿をしている。
その柴犬(大)と言うべき犬の首には、目立つ赤い革の首輪が付けられている。つまり飼い犬。そこまで思い至った怜緒は体を起こし、周囲を見渡した。
黄昏時の赤い太陽に照らされた草原に、白い何かが見える。白く沢山群れた何か……ここでも聖によって振り回された過去があれは何か理解させた。
あれは羊だ。沢山の羊が群れを成して移動しているのだ。その群れが近づくにつれてカラコロとベルの音が耳に入る。よく見れば羊の群れに山羊が混じっており、その山羊の首にかかったベルの音だ。
羊と山羊によって出来た白い群れ。その中から人影が出てきた。
「リッキー! どうしたの、そんなところにいて」
人影は若い女性だった。小柄な体躯に金髪、顔立ちや肌の色からしてコーカソイド系の人種だ。生成りの質素な服装をしており、手には天然の樹木をそのまま使った長い杖を持っている。
その女性――いや、外見の年齢は怜緒よりも幼く見えるため少女が正しい――が呼んだリッキーは目の前にいる犬の事を指しているのだと思った怜緒は、近づいてきた少女が気付くようにゆっくり立ち上がって見せた。
少女はすぐに怜緒を見て、表情を引き締める。緊張して警戒している顔だ。杖を持つ手に力が篭ったのも怜緒は見て取れた。
「どなたですか? あなたは」
金髪碧眼の少女がごく普通に日本語を話していることに怜緒は違和感を持った。まるで出来の良い吹き替え映画みたいだ。
だが、こうして言葉が通じるのは幸いだ。怜緒は英語ぐらいならヒアリングできる自信はあったが、別の惑星らしい場所の言語まで分かるとは思っていない。
この僥倖に感謝しながら、こうして言葉が通じて意志を疎通できる相手が見つかった幸運を逃さないように懸命に頭の回転を上げた。まず怜緒は努めて穏やかな口調で友好的に話しかけてみるところから始めた。
「驚かせてすまない。私は道に迷ってしまった者だ。周囲に人家がないかと探していて、今はちょうど疲れて寝転がっていた。もちろん君に危害を与えるつもりはない。ほら」
手に持った刀を地面に置き、無害さをアピールするため両手を開いて見せる。少々オーバーな気もするが、ジェスチャーは多少大げさな方が伝わりやすく良いはずだ。
そのオーバーなアクションが通じたのか、少女は少し警戒を解いたようだ。手に篭っていた力が抜けるのが怜緒には分かった。
「道に迷ったんですか? この辺りの街道は一本道で迷うようなものではないはずだけど」
「その、街道そのものがどこにあるか分からなくて」
「はい?」
警戒は解いてくれたようだが、今度は怜緒の話に呆れるような表情になっている。言葉にするなら「何言っているのかしら、この人」だろう。
これでは不審人物扱いされてしまう。どうしたら良いのか。怜緒は少女を含め周囲の情報からどう答えればベストか素早く思考を纏める。
シンキングタイム三秒。どうにか怪しまれない時間内で考えをまとめて、言葉にした。
「獣に襲われたんだ。それで逃げる時に街道を外れてしまって、今どこにいるかも見当つかないんだ」
「獣に! 大変だったんですね」
「うん。幸いケガも無いし、被害らしい被害はなかったけどね」
吐いた嘘に少女は口に手を当てて驚き、続いて同情するような目で怜緒を見る。これを見てベストの発言をすることに成功したと怜緒は確信した。
観察したのはまず少女の来ている服だ。極めて簡素で裁縫も手縫い、現在の地球だったら大概は機械による大量生産のため、文明レベルは遅れていると推測できる。
次に観察したのは少女の連れている羊。状況からして少女の仕事は羊飼いと思われる。さらに少女の腰にはひも状の革製品がある。あれはスリングで、石を遠くに飛ばす投石器の一種だ。目的は獣避けだろう。
以上の事から一本道である街道を外れるに足る理由として獣に遭遇したと言えば、日常的に獣の襲撃に神経を尖らせている羊飼いの少女は納得してくれる。
そこまで考えて怜緒は言ってみたのだが、効果はてきめんだ。
「だけど、大変だったでしょうに。道に迷ったんですよね? でしたら私の村に案内しましょうか」
「ありがたい。お願いできるだろうか」
「はいっ」
少女は自ら怜緒を村に案内すると言ってくれるほどに効果があったのだ。あまりの効果に嘘を吐いた申し訳なさが胸に込み上げてくるが、人家で夜を過ごせる魅力は捨てがたい。
怜緒は素直に少女の好意に甘えてみることにした。
「ちょうど家に帰るところだったんです。こっちです」
「ああ」
少女の案内に頷いて、刀を拾い上げた怜緒は彼女の後をついて行く。さらにその後ろを羊の群れと犬がゆったりとついて来る。
草原を赤く染めだした太陽の下、少女と羊と犬が家路につく。怜緒には何かの原風景を想わせる光景だった。
こうして羊飼いの少女に助けられた怜緒は、カラコロとベルの鳴る羊の群れと一緒に少女の村へと向かった。
◇
さて、極めて唐突だが『日常』と『非日常』について軽く論をぶってみたい。
よく日常が退屈で退屈でしょうがないと言い、非日常に強い憧れを持つ人がいる。笑止、とまでは言わないがそれはその人の日頃の心構えが緩いのではないだろうか?
言うまでも無く、日常と非日常などというのはその人の主観によるものだ。極端な例だが、一般市民にとって暗殺者やテロリストは非日常そのものだけど、その当人にとっては暗殺することテロをすることは日常の一環と言える。普通の人が何処かの異世界に飛ばされてしまうイベントも非日常だけど、その人がその世界に根を下ろして生活し始めたらそれも日常となっていくのだ。
言ってみれば、『非日常』とは一過性のイベントだと思われる。その人の日常にない出来事が非日常なのだ。当たり前? ああ、そうだろうね。だが、もう少し付き合って欲しい。
では、日常が退屈で非日常に憧れを持っている人は『非日常』に出会えるか? 答えは余程の事がなければノーだ。
そもそも出会う? 何を『待ち』の姿勢でいるのやら。一箇所に居てイベントを待っていても退屈なのは当然だろうに。動かないでどうする。イベントとは待つものではなく起こすものだ。
剣と魔法のファンタジーこそ地球にはないが、充分以上に世界は退屈しないエンターテイメントだ。本気で楽しむ気になれば一生涯退屈とは無縁だろう。テレビやインターネットで配信される映像を見て何を分かった気になっているのやら。その場所に行ってみないと感じられない楽しみだってあるのに。
危険? 面倒? お金? それだって、本気の本気になれば解決できることが多くないだろうか? それもせずに退屈だとか言うのはまさしく緩い、ヌルイ。
「いやいや、まったく。スプラッタ映画を軽蔑しているCOOL好きな殺人鬼の言葉通りだよ。探した伏線がこんな具合に回収されるとはね」
少し予想を上回っていた、悪魔召喚ぐらいはあるかと思っていたんだけど……などなどと小さな声がその空間に漏れるように響く。その声は今まで『日常と非日常』についての持論を展開していたが、今はひたすらに感慨深い声をだしている。応える声はなく、ここには声の主以外に人はいなかった。つまり盛大な独り言だ。
その場所は静かで清潔で一種壮観な場所である。そこは極めて広い部屋だ。日本の一般的な二階建ての家屋が丸一軒納まる空間は、四方を囲む壁の代わりに本棚が占めている広大な書庫だった。
壁に据え付けられた本棚に、床に据えられた本棚も幾つか立ち並ぶ。そのどれにも大量の本が収められており、蔵書数の膨大さが一目で分かる。何千何万冊と本が整然と並ぶ光景は本好きな人には垂涎ものだ。
「うーん、だけど紅い館の図書館には流石に及ばないか。印刷技術も確立していないから、そこからだね」
書庫の片隅でこの壮観な様子を見ても満足しない人物が独り言を繰る。声としては小さい方だが、周囲が静かなため良く響く。さっきからずっとブツブツと言っているのもこの人物だ。
この人物の外見を一言の言葉で無理やり表すなら『可憐』だろうか。いや、可憐という言葉を人型にしたらこんな姿になるという方が正しいかもしれない。
年の頃は十歳いくかいかないかの少女だ。クセのない艶やかな黒髪は背中まで伸び、モンゴロイド系とコーカソイド系の人種的特徴の良いとこ取りをしたように見える顔立ちと肌をしている。特に幼い見た目からくる愛らしさは万人が認めるところだろう。
少女ならではの透明感ある魅力は、着ている白いドレスと相まって雪を思わせる。触れれば壊れてしまうのでは、そう錯覚するほどに繊細で触れ難い印象をこの少女は持っていた。
もっとも当の本人は、繊細とは地球とアンドロメダ星雲ほどに遠くかけ離れた本性の持ち主であったが。
「にしても……これもネット小説で言うテンプレートって奴なのかな。いやいや、いざ身に降りかかるとテンプレとか騒いでいられないものだ」
そんなことをケタケタ笑いながら言っている。しつこい様だが、これは見た目可憐な少女の独り言である。
可憐に見える少女が独り言を言いながら笑っている様はかなりシュールではないだろうか? 実際、こういう事を少女が人前でやってしまい、周りをドン引きさせたのは一回や二回ではなかったりする。けれど少女は自重しなかった。少女は自分が自分であるために言葉を紡ぐのだから。
「TS転生ものって奴か。しかもお約束なことにファンタジー色の濃い世界だこと。魔法はあるし、獣人、エルフは標準装備。転生トラックに轢かれてもいないし、神や死神に出会ってはいないけど、あの本を起点に異世界転生というのは出来過ぎだ」
そう、この少女はあの実践派文芸部で本の光に飲み込まれた五人の中の筆頭、石黒聖が転生した姿だった。
彼は文芸部を名乗るからには、とネット小説や同人関係にも理解がある。むしろかなり読む耽っていた時期もあったぐらいだ。
そういった作品群の中である日死んでしまった主人公が、やおら異世界の子供として転生するという話は割とあった内容だった。ちょうど今の聖の状況と非常に似通っている。
こういう良くあるパターンを『テンプレート』もしくは略して『テンプレ』などと呼称するが、当の本人だと笑ってしまうぐらいに笑えない。だから聖はいっその事と笑い飛ばしている。
「しかも何? この大陸地図は。ギャグとかジョークにしても大爆笑だよ」
聖が少女として現在の肉体を得て現地時間で十年近い時間が経過している。その間、肉体の練成、知識の習得をたゆまずやって来た。彼、いや彼女がこうして巨大な書庫に足を踏み入れる事が出来るのもその成果だ。ここに入れるのはごく限られた人々だけで、その中で聖は間違いなく最年少であった。
転生したこの世界の情報を多く取得する必要からこうして本と接している彼女だったが、時折この世界の『あざとさ』に呆れてしまう。
聖が手に取ったのはこの世界の地図だ。ここでは測量もまだ未発達なため、未発見の部分や不明な地域も多い。けれど流石に蛇や亀の上に大地が乗っているとか、平らな大地に星が吊るされているとかはない。むしろそういう世界だったら聖はもっと面白がっていただろう。
聖が呆れたあざとさは、この世界の中心地となる大陸『アメジア』の形状だった。
はっきり言おう。その形状は日本列島そのままだ。もちろん大陸などと呼ばれるからにはスケールは大いに異なり、この『列島』の面積は推定するとユーラシア大陸に匹敵する広大さを誇っていた。北は北極圏、南は南極圏に届く南北に長い大陸それがアメジアだった。
聖が現世の肉体を得たのはこの大陸の中にある一つの王国、『モントライヒ王国』になる。しかも――
「殿下、どこですか? どこにおられます? もうじきパーティーですよ、殿下ぁ?」
書庫の外から内部の静けさを破る声がした。呼んでいるのは聖である。
そう、殿下という敬称で分かるように現世の聖は王族に連なる血脈をもって生を享けていた。そして声が言うパーティーとは、聖がこの世界に生まれて十年目を祝う誕生日パーティーの事である。
ふと、このままパーティーなどドタキャンしてしまおうか? と悪魔の誘惑にかられた聖だが、流石の変人でも倫理ぐらいは知識として頭にある。ドタキャンした場合のメリットデメリットを考え、デメリットが勝ってしまった。
仕方なしに扉の向こう側へと声をかけるとした。
「ここだよ、書庫の中」
「こんなところに! いくら書物が好きでも、誕生パーティーぐらいは出ましょうよ」
「うん、理解している。だから今から行くよシャル」
聖がシャルと呼ぶ書庫に入ってきた人物は女性である。二十歳前後に見えるうら若い女性で、短く切り揃えられた赤毛の髪や切れ長の目は、見る人に凛々しい印象を与える。パンツにシャツ、ベストと女執事風の服装をして、腰にはこの王国伝統の刀剣『月肢刀』を差している。ちなみに聖の知識だとこの月肢刀、外見や機能、製法まで日本刀そのままだったりする。
この女性、シャルは現世に生まれた頃より聖がお世話になっている世話人兼護衛役の従者なのだった。
聖から見ると彼女は御堂怜緒に良く似ており、怜緒が数年歳を重ねればこうなるのではないかと思える位だ。だからつい、地が出てからかいたくなる時があった。
「殿下。貴方様が本や知識が好きなのは良く分かっていますが、こういう時ぐらい控えては? 陛下も心配してましたよ」
「あ、母さん心配させると拙いか。分かった急ぐ。母さんが飛んでくる前に会場に着いてみせるよ」
パタパタと手早く身なりを整えて、書庫を出てから会場になっているホールへ急ぐ聖。横にはぴったり付き従っているシャルの姿がある。二人の身長差は五〇㎝はあるため、当然と歩幅も差が開くはずだ。しかし主人の歩幅すら心得ているシャルにとって聖に自然な形で付き従うのは難しくない。
書庫から出て、清潔に掃き清められた廊下を早歩きで進んでいく。軽やかに、しかし不作法に見えないように。
会場になっているホールに入る直前、扉の横で警備をしている衛兵が呼び出しの声を高らかに謳い上げた。
「王国王女、アーデルハイド・オクタヴァン殿下のおなーりーっ」
聖の現世での名前を謳い上げ、ホールに居る人々に主賓の登場を知らしめる。ホールで歓談していた招待客達は主役の登場で一斉に口を閉じて、さざめき声が一瞬で収まった。
彼らの視線は、現れた幼い主役に集まる。普通の子供だったら身を引いてしまうぐらいの圧力がその場にはあった。もちろん、アーデルハイド《聖》は普通ではなかった。
「本日は私、アーデルハイド・オクタヴァンの十年目の生誕を祝う席に集まって頂き、感謝いたします。
十年という歳月は人間族にとっては嬰児が大人となるほどの時間ですが、私にとってはあっという間の時間で、まだまだ学ばなくてはならない事が多すぎます。身体も見ての通り小さいですし。
ですので、今後も期待に応えられるよう皆さんのご指導ご鞭撻をお願いいたします。
では、料理も冷めてしまいますので挨拶の言葉はここまでで。ありがとうございました」
白いドレスの裾を摘んで優雅に会釈、主賓の挨拶を締めくくる。すると招待客達からの拍手が上品に返ってきた。誰もこれを彼女の即興の挨拶と思っている者はいない。
アーデルハイドは拍手にもう一度だけ会釈を返して、目的の人物の元へ歩み寄る。
そこには二〇代後半の美しさと妖艶さに加え、威風というものが見事に配合された女性が立っていた。女性の周囲には護衛の兵と、歓談相手の内務大臣がいた。ただ立って会話しているだけなのに存在感がある。
彼女こそがこの国、モントライヒ王国の女王リディア・オクタヴァン。王であると同時に、今の聖の母親でもある人物になる。
「母上、遅れました」
「主役が遅れる演出はアリだけど、スピーチを短く纏め過ぎね。どうせ貴女のことだから即興でしょう」
「流石です。けれど長々と話して料理が冷めてしまうのも勿体ないというのは本音ですよ」
「この宴はあなたの誕生会よ。もう少し言葉があってもいいんじゃないかしら。これは今後の課題ね」
王族だ何だと言っても普通の母子の会話と変わらない。ただ、アーデルハイドと話す間のリディアは女王よりも母親の顔をしている。
実のところ石黒聖としての精神は、こういう母子の会話が不得手だったりする。これは血縁のある人物との会話に慣れていないと言い換えることが出来る。聖は早くに両親を亡くし、兄弟親戚も無く、天涯孤独の身の上だった。
持ち前の才覚とバイタリティでお金に不自由しない身分になれたし、親しい人物も多く出来た。だが、血を分けた相手はいない。そういう相手との距離感が聖には全く経験がなかったのだ。
そんな前歴があるために、聖は母親という存在とどう接して良いか分からなかった。
今でこそまともにコミュニケーションが取れているが、五年目まではお互いに試練の多い歳月だった。
それは五年が十年に感じるほど……
「いや、実際こっちの五年は地球の十年に相当するか。僕が人間だったら今日で普通に二十歳になれたのになぁ」
「ハイジ、あなたこんな所でブツブツ言わないの。お客さんが見ているわよ」
「おっと」
「そんな風だから『呟き姫』なんて名前まで頂戴しちゃうのよ。成人するまでにその癖を何とかしなさいな」
母親から呆れの混ざった言葉を言われてしまうと、アーデルハイド、愛称ハイジは苦笑するしかない。一国の王と母親を兼ねる相手に口で勝てた事などなかった。この場合の苦笑は敗北宣言の意味があった。
負けた者の常として逃走を選択したハイジは、「じゃあ、来賓の人達にご挨拶してきます」と言い置いてその場を離脱していく。残された女王陛下は、隣にまだいた内務大臣と顔を見合わせて、どちらともなく苦笑しあう。表情には子を持つ親の苦労と喜びがあった。
学園一の変人と言われた石黒聖、今生においてはアーデルハイド・オクタヴァンの名を持つ少女は、こうして今日で十年目の誕生日を迎えた。身近な人々からは少々風変わりな人物と言われているが、まだ聖の時の様な伝説は成していない。
後世に賛否両論で色々と言われる彼女だが、いまはまだまだ大人しい王国王女に過ぎなかった。