エピローグ
結局、あれは夢だったのだろうか、現実だったのだろうか。
佳苗はあの出来事を振り返る。
気付いたら、森の中にいたのは伸子と彼女だけで、あの不思議な少女は消えていた。闇に押し包まれた時、確かに彼女の声を聞き、彼女の姿を目にしたと思ったのだけれども。
あれから、一週間が過ぎた。
不思議なことに、足を踏み入れたことのないほど深い森から、佳苗と伸子は迷うことなく帰ってくることができた。まるで何かが導いてくれたかのように、いつの間にか、伸子の家の前に立っていたのだ。
その時は無言で別れて、一週間。
いつぞやと同じようにベッドの上に寝転がり、佳苗は天井を見つめる。
遮光カーテンの隙間からは、細く朝日が射し込んでおり、庭に来ているのだろう雀たちの賑やかな囀りも聞こえてくる。
あの『陽子』は、自分が会いたいと思っていたから現われた、ただの幻に過ぎなかったのか。
再び佳苗が自室に引き籠ってから、祖母の鈴は、相変わらず淡々と彼女に接している。もう登校しなくなって二週間にはなり、しばしば学校からも電話が来ているようだが、鈴が佳苗に何か言ってくることはなかった。
いつもと変わらず、佳苗が食べに下りてこようがくるまいが、食事を作り。
そう、無駄になるかもしれないのに、毎日、食事を用意し――待っていてくれていたのだ。
佳苗はゆっくりと起き上がり、壁にかけてある制服を手に取った。少しの間それを見つめた後、着替え始める。
制服を身に着けて下りてきた佳苗に、鈴は微かに眉をひそめたが、結局何も言わずに自分の食事を口にし始めた。
佳苗も鈴の向かいに座って、箸を手に取る。
無言での、朝食風景。
「ごちそうさま」
食べ終え、立ち上がった佳苗に、鈴はチラリと視線を走らせると、言った。
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
随分、久しぶりに聞いた祖母の声だった。
家を出て、佳苗は少し躊躇った後、バス停とは逆の――陽子の家がある方へと足を向ける。
当然、あれ以来、伸子にも会っていない。怖くて、会えていない。
やがて見えてきた陽子の家に佳苗の足は鈍ってくるが、それでも、歩みを止めることはなくそこを目指す。
玄関は、ひっそりしていた。
裏手の方に周り、垣根越しに中を窺う。
と。
ぼんやりと縁側に座る伸子の姿が目に飛び込んできた。
彼女のその目は一点に注がれている――一本の金木犀に。
現実と紗を隔てているようなその様子に、佳苗は踵を返してしまいたくなるのを堪えた。
声を掛ける事もできず、さりとて、何もしないまま立ち去ることもできず。
動いたのは、伸子の方だった。
ふと何かに呼ばれたかのように視線を動かすと、佳苗を認めて一瞬目を見開いた。
どんな言葉が投げかけられるのかと、佳苗が身構える。が、次の瞬間、伸子はフワリと微笑んだ。
「あら……佳苗ちゃん、いらっしゃい」
以前の彼女の笑顔が真夏の向日葵のようだったとしたら、今は秋の野に咲く名もない花のような物静かなものだ。けれども、それは紛れもない、笑みだった。
「おばさん……」
「こっちに、いらっしゃいよ」
立ち竦む佳苗に、伸子が手招きする。
佳苗は垣根の隙間をすり抜けるようにして庭に入った。近くに行くと、伸子が自分の隣をポンポンと叩く。佳苗はその場に腰を下ろした。
「ほら、あれ。あの金木犀、あの子が産まれたときに植えたのよ。そろそろ香り始める頃ね」
そして、また、無言。
少し涼しくなった風が、二人の髪を優しく揺らしていく。
やがて、再び伸子が口を開いた。
「あの子はね、フワフワしているように見えて、結構しっかりしているの。この間も、怒られちゃったわね」
『この間』というのは、あの時のことか。やはり、あれは現実にあったことだったのだ。佳苗はそう納得する。
無言の佳苗に構わず、伸子は続けた。
「わたし、あの子が可愛くて可愛くて仕方がなかった……あら」
不意に、伸子がホロホロと涙をこぼす。彼女が無意識のうちに用いたのは、『過去形』だったことに、伸子自身が気付いてしまったのだろう。今、この瞬間から、陽子のことは伸子の中で過去のものとなったのだ。
「こんなに泣いてたら、また怒られちゃうかな。ううん、きっと、泣くのは赦してくれる。泣きながらでも、動き出したら、あの子は喜んでくれるわよね」
佳苗は、彼女の言葉をただ聞いていた。無言で。
そして、立ち上がる。
「わたし、学校に行ってくる」
「そう、行ってらっしゃい。気を付けてね」
また、笑顔。それに見送られて、佳苗は歩き出した。遠ざかろうとする彼女の背中に、伸子が声を掛けてくる。
「また、遊びに来てね」
佳苗は肩越しに振り返ると、小さく頷いた。
「うん、来る」
陽子の家を出て、真っ直ぐに前を見据えながら、バス停までの道を歩く。
途中、『あの場所』に差し掛かっても、もう、立ち止まる事も、下を覗き込む事もしなかった。
自分は、きっと、変われない。
やっぱり、どこか世界と壁を作って、淡々と生きていくのだろう。
何故、自分が生かされたのかと考え続けながら。
でも、変われないかもしれないけれど、変わろうとすることは、できる。
陽子がいた頃は、彼女を媒介に世界とつながっていた。それを、自分自身の力でするように、しよう。巧くはできないだろうけれども、しよう。
陽子が望んでくれたように、ちゃんと、『生きる』ということを、するようにしよう。
バスを降り、しっかりと地面を踏みしめた。
*
目の前には、教室のドア。
佳苗は小さな深呼吸をして、それを開ける。
「おはよう」
彼女のさして大きくない声に、うるさかった教室内が一瞬鎮まり返る。
誰もが皆、なんと返していいのか、決めかねているようだ。
その中で、一人、真奈実がホッとしたような笑顔になって、応える。
「おはよう!」
彼女の軽やかな声が、教室の中に響き渡った。
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生きるということは、時につらいことですが、どんな人にも「あなたが生きていてくれて嬉しい」と思っている人が必ずいると信じてます。