表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/9

エピローグ

 結局、あれは夢だったのだろうか、現実だったのだろうか。

 佳苗かなえはあの出来事を振り返る。

 気付いたら、森の中にいたのは伸子のぶこと彼女だけで、あの不思議な少女は消えていた。闇に押し包まれた時、確かに彼女の声を聞き、彼女の姿を目にしたと思ったのだけれども。

 あれから、一週間が過ぎた。

 不思議なことに、足を踏み入れたことのないほど深い森から、佳苗と伸子は迷うことなく帰ってくることができた。まるで何かが導いてくれたかのように、いつの間にか、伸子の家の前に立っていたのだ。

 その時は無言で別れて、一週間。

 いつぞやと同じようにベッドの上に寝転がり、佳苗は天井を見つめる。

 遮光カーテンの隙間からは、細く朝日が射し込んでおり、庭に来ているのだろう雀たちの賑やかな囀りも聞こえてくる。

 あの『陽子』は、自分が会いたいと思っていたから現われた、ただの幻に過ぎなかったのか。

 再び佳苗が自室に引き籠ってから、祖母のすずは、相変わらず淡々と彼女に接している。もう登校しなくなって二週間にはなり、しばしば学校からも電話が来ているようだが、鈴が佳苗に何か言ってくることはなかった。

 いつもと変わらず、佳苗が食べに下りてこようがくるまいが、食事を作り。

 そう、無駄になるかもしれないのに、毎日、食事を用意し――待っていてくれていたのだ。

 佳苗はゆっくりと起き上がり、壁にかけてある制服を手に取った。少しの間それを見つめた後、着替え始める。

 制服を身に着けて下りてきた佳苗に、鈴は微かに眉をひそめたが、結局何も言わずに自分の食事を口にし始めた。

 佳苗も鈴の向かいに座って、箸を手に取る。

 無言での、朝食風景。

「ごちそうさま」

 食べ終え、立ち上がった佳苗に、鈴はチラリと視線を走らせると、言った。

「行ってらっしゃい」

「……行ってきます」

 随分、久しぶりに聞いた祖母の声だった。

 家を出て、佳苗は少し躊躇った後、バス停とは逆の――陽子の家がある方へと足を向ける。

 当然、あれ以来、伸子にも会っていない。怖くて、会えていない。

 やがて見えてきた陽子の家に佳苗の足は鈍ってくるが、それでも、歩みを止めることはなくそこを目指す。

 玄関は、ひっそりしていた。

 裏手の方に周り、垣根越しに中を窺う。

 と。

 ぼんやりと縁側に座る伸子の姿が目に飛び込んできた。

 彼女のその目は一点に注がれている――一本の金木犀に。

 現実と紗を隔てているようなその様子に、佳苗は踵を返してしまいたくなるのを堪えた。

 声を掛ける事もできず、さりとて、何もしないまま立ち去ることもできず。

 動いたのは、伸子の方だった。

 ふと何かに呼ばれたかのように視線を動かすと、佳苗を認めて一瞬目を見開いた。

 どんな言葉が投げかけられるのかと、佳苗が身構える。が、次の瞬間、伸子はフワリと微笑んだ。

「あら……佳苗ちゃん、いらっしゃい」

 以前の彼女の笑顔が真夏の向日葵のようだったとしたら、今は秋の野に咲く名もない花のような物静かなものだ。けれども、それは紛れもない、笑みだった。

「おばさん……」

「こっちに、いらっしゃいよ」

 立ち竦む佳苗に、伸子が手招きする。

 佳苗は垣根の隙間をすり抜けるようにして庭に入った。近くに行くと、伸子が自分の隣をポンポンと叩く。佳苗はその場に腰を下ろした。

「ほら、あれ。あの金木犀、あの子が産まれたときに植えたのよ。そろそろ香り始める頃ね」

 そして、また、無言。

 少し涼しくなった風が、二人の髪を優しく揺らしていく。

 やがて、再び伸子が口を開いた。

「あの子はね、フワフワしているように見えて、結構しっかりしているの。この間も、怒られちゃったわね」

 『この間』というのは、あの時のことか。やはり、あれは現実にあったことだったのだ。佳苗はそう納得する。

 無言の佳苗に構わず、伸子は続けた。

「わたし、あの子が可愛くて可愛くて仕方がなかった……あら」

 不意に、伸子がホロホロと涙をこぼす。彼女が無意識のうちに用いたのは、『過去形』だったことに、伸子自身が気付いてしまったのだろう。今、この瞬間から、陽子のことは伸子の中で過去のものとなったのだ。

「こんなに泣いてたら、また怒られちゃうかな。ううん、きっと、泣くのは赦してくれる。泣きながらでも、動き出したら、あの子は喜んでくれるわよね」

 佳苗は、彼女の言葉をただ聞いていた。無言で。

 そして、立ち上がる。

「わたし、学校に行ってくる」

「そう、行ってらっしゃい。気を付けてね」

 また、笑顔。それに見送られて、佳苗は歩き出した。遠ざかろうとする彼女の背中に、伸子が声を掛けてくる。

「また、遊びに来てね」

 佳苗は肩越しに振り返ると、小さく頷いた。

「うん、来る」

 陽子の家を出て、真っ直ぐに前を見据えながら、バス停までの道を歩く。

 途中、『あの場所』に差し掛かっても、もう、立ち止まる事も、下を覗き込む事もしなかった。

 自分は、きっと、変われない。

 やっぱり、どこか世界と壁を作って、淡々と生きていくのだろう。

 何故、自分が生かされたのかと考え続けながら。

 でも、変われないかもしれないけれど、変わろうとすることは、できる。

 陽子がいた頃は、彼女を媒介に世界とつながっていた。それを、自分自身の力でするように、しよう。巧くはできないだろうけれども、しよう。

 陽子が望んでくれたように、ちゃんと、『生きる』ということを、するようにしよう。

 バスを降り、しっかりと地面を踏みしめた。


   *


 目の前には、教室のドア。

 佳苗は小さな深呼吸をして、それを開ける。

「おはよう」

 彼女のさして大きくない声に、うるさかった教室内が一瞬鎮まり返る。

 誰もが皆、なんと返していいのか、決めかねているようだ。

 その中で、一人、真奈実まなみがホッとしたような笑顔になって、応える。

「おはよう!」

 彼女の軽やかな声が、教室の中に響き渡った。

読んで下さって、ありがとうございました。

感想・評価などをいただければ励みになります。


生きるということは、時につらいことですが、どんな人にも「あなたが生きていてくれて嬉しい」と思っている人が必ずいると信じてます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ