七
グイグイと、首が絞め付けられる。
苦しい。苦しいけれども、それでもよかった。
佳苗は自分に圧し掛かる伸子の顔をぼんやりと見つめる。
首を絞められているのは自分の方なのに、何で彼女はこんなにもつらそうな顔をしているのだろう。
陽子を死なせて生き延びた自分が報いを受けるのは当然のことなのに、と佳苗は思う。だから、そんなに苦しまないで欲しい、と。
だが、心は生を投げ出していても、身体は抵抗してしまうようだ。
無意識のうちに佳苗の手が上がり、首にかけられている伸子の手を掻き毟る。
けれども、それも、そう長いことではなかった。
頭の中の血管が膨れ上がったかのように顔中に圧迫感を覚え、目の前が深紅に染まる。
ああ、もう少しかな。
佳苗が、そう思った時だった。
キインと耳鳴が響きっぱなしの彼女の耳に、甘い、けれども悲しそうな声が届く。その瞬間、首を絞め続けていた伸子の手から、力が抜けた。その声の方を見ようとした佳苗を、衝動的な激しい咳込みが襲う。身体を捻ろうとするが、伸子に組み伏せられた状態ではそれもままならなかった。涙で滲む視界に、ポカンと口を開けている伸子と、彼女の腕に手をかけている陽子の姿が映った。
陽子が、再び口を開く。
「お母さん、もう止めて」
娘の言葉に、伸子は激しく首を振る。その度に佳苗の首はグッグッと押され、また咳が出た。
「でも、こうしないと、お前が……!」
悲鳴のような母の声に、陽子は悲しげに、けれども決然とかぶりを振った。
「ゴメンね。大事な人を助けようとして、別の大事な人を、こんなに悲しませちゃった。でも、ダメだよ」
伸子は、頑是無い子どものように、ただただ首を振るだけだ。
「お母さん、『それ』をしても、わたしは戻らない。わたしが今ここにこうしているのは、戻りたかったからじゃ、ないんだよ」
「ウソ! ウソよ! お前はまだまだ生きたい筈よ!? まだ、死ぬなんて早すぎるもの!」
「うん、そうだね。わたしも、正直、『残念!』と思った。でも、未練はないんだよ……ううん、そう言っちゃうと、ウソになるか。もっともっと、遊びたかったし、高校行って、大学……は無理かな、結婚して、赤ちゃん産んで。お母さんみたいなお母さんになりたかった」
「だったら――だったら、お母さんが、今からその夢叶えてあげる。できるのよ? できるって言われたんだから。お母さん、お前の為なら何でもできるのよ?」
宥めすかすような、懇願するような、伸子の眼差し。けれども、陽子は首を縱には振らない。親と子が逆転したかのように、陽子は慈しみを湛えた目を母に向ける。
「ホントにゴメンね。お母さん、大好き。……でも、いらない。それよりも、わたしを逝かせて欲しい。わたしがここに残っているのは、お母さんと――佳苗の所為なんだよ。二人の気持ちが強すぎて、わたしはここから離れられないの。未練があるからじゃない、二人のことが心配すぎて、早く逝きたいのに、逝けないだけなの」
佳苗の首が、軽くなる。
伸子は両手を佳苗から離すと、小さな子どものように後ろにぺたんと座り込んだ。涙を溢れさせている双眸は大きく見開かれており、茫然自失の態だった。
陽子はその母の首にしがみつく。
「ゴメンね、置いて行って、ゴメン。でも、ありがとう。わたし、お母さんの娘で幸せ。お母さんがまた幸せになれたら、わたしももっと幸せになれるんだけどな」
そう言って、別れの前とは思えない、晴れ晴れとした笑顔を伸子に向ける。そして、佳苗に向き直った。
「佳苗も、ゴメンね。助けられた方がそんなにつらくなるなんて、思ってなかった。でも、また同じ場面になっても、わたしは多分、同じことをしちゃうと思う」
「陽子……わたし……陽子を……」
謝罪と懺悔を口にしようとした佳苗に、畳み掛けるように陽子が言う。
「多分ね、佳苗がつらくなるのよりも、自分がつらくなる方が、イヤだったの。佳苗が死んでしまうのが、イヤだった」
「わたしだって……わたしだって! 皆も、わたしよりも、陽子が生きてる方が良かったに決まってる!」
「うぅん、でもね、わたしは、今、佳苗が生きてくれる方が良かったって、思ってる。他の人はわからないけど、わたしは佳苗に生きていて欲しい」
ポロリと、佳苗の頬を雫が転げ落ちていく。一つ、また一つ、と。
陽子が苦笑しながら手を伸ばすと、佳苗の頬を拭った。
「あのね、佳苗。わたし、たまに佳苗が見せてくれる笑顔が好き。笑わせられると、『やったぁ!』っていう気持ちになるの。わたしが笑わすことができなくなるのは、ちょっと悔しいんだけど、佳苗を笑わしてくれる人がいてくれたらなぁって、思う」
そして、また、ニコリ。
「わたし、二人のことが大好きよ。大好きな二人だから、信じてる。ちゃんと、また前を向いてくれるって、信じてるからね」
それを最後に、陽子の身体はサラサラと崩れ始める。
「やだぁ! 陽子ぉ!」
叫びながら、伸子が失われゆく娘をかき集めようとするが、それは淡雪のように一瞬にして消え去っていってしまう。
言葉の他には何も残さず、陽子は、また、いなくなった。
その場に響くのは、我が子を失った母親の、慟哭のみ。
佳苗もまた言葉もなく、ただ、溢れる涙を止めることができずにいた。
*
一人の少女が消えていく場面に立ち会って、マナ「ああ」と溜息をついた。振り返って見てみると、オセが全身に絡み付く触手を引きちぎり、ゲーデの肩口に切りつけたところだった。ゲーデは、瞬き数回ほどの時間を置いて、霧消する。滅する意志を込めてはいない筈だから、ただ、ここから失せただけなのだろう。だが、それと共にその力が及ばなくなったのか、少女は形を保っていることができなくなったのだ。
また、ゲイルの所為で、流さなくてもいい涙を流すことになってしまった者が出た。
マナは父親の愚かさと己のふがいなさに腹立たしくなる。
彼の望みは、自身の妻であり、マナの母親である女性を蘇えらせること。
けれども、それはしてはならないことだ。
マナの母親は、常々娘に言い含めていた。
魔術を用いるものは、決して理から外れてはいけないのだ、と。
そんな彼女が、ゲイルの呼びかけに応える筈がない。
どんなに望もうとも、決して叶わぬ夢なのに。
彼の頑迷さが腹立たしく、悲しい。
ふと背後に気配を感じ、そちらに視線を走らせると、オセと、ホムンクルスを倒し終えたマルコシアスがすぐ傍に立っていた。取り敢えずは、オセを書に戻す。
「ご苦労様」
そっと声を掛けて、革張りの重い書物を消し去った。そして、佳苗と陽子の母親から二、三歩後ずさる。
「マナ」
「行こう、マルコシアス」
「あの二人は、どうする?」
「わたしにできることは、何もないよ。だって、なんの関係もない人間だもの」
軽く唇を噛んで、マナは答える。そう、彼女たちの『これまで』を知っているわけではなく、『これから』に関わるわけにもいかないマナには、何もできないのだ。
強がりが、見えてしまっただろうか。
マルコシアスが、ヤレヤレという風情で息をつく。そして、その場にひざまずいた。
「そなたは、我には甘えてくれん。仕方があるまい、奴めに任せるとしよう――封印を」
「マルコシアス……ありがとう」
マナは彼の頭に両手を添えると、額にそっと口付ける。
「忠実なるしもべに安らかな眠りを」
囁きが終わると共にマルコシアスの身体は光を放ち始め、そして、それが収束すると、翼も尾もない、いつもと変わらぬカイの姿が現われる。
「マナ様、お疲れ様でした」
穏やかな眼差しで彼女に向けて手を差し伸べたカイに、マナはしがみつく。
「はやく、終わりにしたいな」
カイの首筋に顔を埋めてそうこぼした彼女を無言で抱き上げると、彼は歩き始めた。
佳苗たちが見えなくなった頃、マナはポツリと呟く。
「なんで、人はあんなに弱くて、あんなに強いんだろう。いつも、思うよ」
人の弱さは運命の糸を絡ませてしまうけれども、それを解きほぐすのは、結局人の強さだ。確かに、マナも手を出す。でも、一番大事なところは彼ら自身が解決しなければならないことだし、たいていの場合、彼らはそれを成し遂げる力を持っているのだ。マナの力が必要なところなど、ほんのわずかな部分に過ぎない。
そんな彼らが、心底から愛おしい。
マナは、大きく一つ、息をつく。
そして、笑った。
「ああ、もう! また逃げられた!」
いつもの調子を取り戻した主人に、カイがクスリと笑みを漏らす。
「でも、私があの方にお会いしたのは、私が作られた時を除けば、今回が初めてです。……あのような方だったのですね」
「創造主が浮薄な男でがっかり?」
マナのからかいを含んだ問いかけに、カイは困ったような笑みで応えただけだった。
「昔は、ああいうところをカッコイイと思ってたんだけど、今となっては迷惑なだけなのよね。盲目だったわ」
ゲイルを追っている間、いざ顔を合わせたら、かつて彼に心酔していた自分が出てきてしまうかもしれないとも思っていた。けれども、およそ二百年ぶりの再会で、そんな気持ちはまったく起こらず、あったのは苛立ちと呆れだけだ。
「次こそは! ガッチリ捕まえてやるんだからね! 首に縄を付けてでも家に連れて帰るんだから!」
空に向けて宣言するマナを、カイは静かな微笑で見守っていた。