五
あれから一週間、佳苗は学校を休んでいる。
別に、気まずいから、とかいうわけではない。ただ、動く気になれなかっただけだ。
殆ど部屋の中から出てこない、学校にも行っていない佳苗のことに、鈴は気付いているようだが、特に何も言ってこない。何事もないように、食事を作るだけだった。
今もベッドの上に横たわり、ただ、天井を見つめてぼんやりとしていた。
ぼんやりと、あの金髪の少女のことを、考えていた。
あの子は、何故、あんなにも悲しそうな目でカナエを見ていたのだろうか。まだ、数えるほどしか会っていない相手のことだというのに。
そう言えば、と佳苗は思う。
マナは、あまり佳苗が向けられたことのない言い方をした。
彼女が助かって、『マナが』嬉しい、と。
今までかけられた言葉は、助かって『佳苗が』良かったね、だったのに。
別に、あの少女がどう感じようが、佳苗には関係がない。
けれども、数多くかけられてきた『良かったね』よりも、何故かあの『嬉しい』の方が、ストン、と彼女の胸に落ちてきた――苛立ちを伴う事も無く。
佳苗はムクリと身体を起こす。
唐突に、陽子の家に、行ってみようと思い立った。
陽子がいなくなってすぐの頃は、彼女の両親も茫然自失の状態で、佳苗を視界に入れても何かを言う余裕がないようだった。しばらく経って、父親の伸介の方は仕事に出始めたが、少なくともある程度の日常生活を営めるようになってからは、一度も顔を合わせていない。
自分が彼らにどう思われているのかは判らない。いや、きっと、恨まれているに違いない。
だけれど、このまま、目を逸らし続けているわけにもいかないのだ。
あの時の伸子の言葉の真意は何なのかを、確かめなければならない――確かめたい。
赦しを与えてもらえるとは、はなから思っていなかった。罵られるのであれば、それを甘んじて受けよう。
ベッドから下りて、部屋を後にする。そのまま、祖母に声を掛ける事も無く、家を出た。
九月の陽射しは、まだ強い。しばらく屋内に閉じ籠っていた佳苗は、軽い眩暈を覚えた。
陽子の家は、鈴の家から歩いて十分ほどのところにある。見えてきた木造の家屋は、暑さの為か、遠目では陽炎に包まれているかのように揺らいでいる気がした。何度か瞬きをし、見直してみると、それは目の錯覚だったのだとわかる。玄関の前に立った佳苗の目には、しっかりと佇む建物が映るだけだ。
手を上げ、指を伸ばし、呼び鈴に触れる。
一瞬、息を呑み、そして、押した。待つことしばし。
「はぁい」
二年前まではよく耳にした朗らかな声が応える。
カラカラと音を立てて開いた引き戸からは、目を丸くした伸子が覗いた。
「あら、まあ、佳苗ちゃん」
「こんにちは」
小さく頭を下げると、伸子は心の底から嬉しがっているような笑みを浮かべる。
「来てくれたのね! 嬉しいわ。ほら、上がって、上がって」
明るい――明る過ぎる伸子の様子に、佳苗は戸惑いながらも促されるまま玄関に上がる。
「おばさん、待ってたのよ!」
彼女の後についてリビングに行き、勧められたソファに座る。見回したその部屋は、二年前と少しも変わっていなかった。
「麦茶がいい? カルピスがいい? 佳苗ちゃん、甘いの苦手だっけ」
キッチンでカチャカチャと音を立てながら、伸子が訊いてくる。何もかもが、全て、昔のままだった――陽子がいないことを除けば。
「あ、じゃあ、麦茶を……」
「はぁい」
明るい、声。
だが、何故かその明るさに、佳苗の背筋はゾクリと震える。
伸子の屈託のなさに、どうしても覚えてしまうのは違和感だ。
我知らず身体を固くした佳苗の前に、麦茶と虹色の美しいゼリーが置かれる。
「はい、どうぞ。これ、おばさんの新作よ。きれいでしょ」
「うん……」
「美味しいのよ。食べてみて」
佳苗はスプーンに手を伸ばす。
伸子はニッコリと笑う。幸せそうに。
そして、続く言葉。
「陽子も、美味しいって言ってくれたわ」
カラリと、スプーンが転がり落ちた。
「え……?」
「陽子もね、美味しいって言って、たくさん食べてくれたわ」
何でもないことのように、伸子が言う。至極、当たり前のことのように。
佳苗は取り落としたスプーンをそのままに、唇を振るわせた。
「だって、陽子は……」
「あら、ふふ。そう言えば、佳苗ちゃんはまだ会ってなかったわよね。あの子、帰ってきてくれたのよ」
うっとりと、夢見るような――こことは違う世界を見ているような、伸子のその眼差し。
「そんな……そんな、こと……」
「あら、ホントよ? ずっとずっと、あの子を返して欲しいって願っていたら、神様が叶えてくれたのよ。あの人も、大事な人を失うつらさはよく解るからって。帰ってきて欲しいと思うのは当然だって。だから、わたしに力を貸してくれたの」
そう言いながら、彼女は佳苗の腕を掴む。それは、優しげな笑みとは裏腹に、骨を握りつぶしそうなほどの力が込められていた。まるで、逃げられるのを警戒しているかのように。
「ねえ、佳苗ちゃんも、あの子に会いたいでしょう? あの子が帰ってきてくれたら、嬉しいでしょう?」
伸子が、歌うようにそう囁く。
それと同時に、彼女の身体からどす黒い何かが噴出し、周囲に満ちていく。
闇そのもののそれは、ガスか何か――ただの気体のように思われた。しかし、立ち込めるにしたがって、質量を持って確かに佳苗を圧迫し始める。
「お、ば……さん……」
掴まれている腕の痛みで、彼女がまだそこにいることが知れる。
――苦しい。
顔も胸も包み込まれて、呼吸もままならない。
これが、報いなのだろうか。
そう思うと、ふっと身体の力が抜ける。
もしも、そうならば……
諦め、あるいは、受容。
そんな気持ちが、佳苗の中によぎった時だった。
闇を貫き、一条の光が射し込む。
そして、その光の矢は一息に暗黒のとばりを切り裂き、容赦なく打ち払っていく。
全てが祓い清められた時、佳苗は自分が陽子の家の中ではなく、人気のない森の中に立っていることを知る。恐らく、彼女が足を踏み入れたことのない、山の奥深くだ。
――いつの間に?
伸子に腕を掴まれたまま戸惑う佳苗の耳に、凛とした声が届く。
「カナエを、放しなさい」
「マナ……?」
何故、その少女がいるのか。
しかし、そんな疑問と共に、頭の奥には不思議と納得している自分がいる。
真っ直ぐに佳苗と伸子に向けられた少女の目は、漆黒から透き通った菫色へと変化を遂げていた。
*
「来たわ!」
マナは思わず声を上げた。
そう遠くないどこかで膨らんだ、明らかな異界の気配。
それは、魔術が発動したことによるものに間違いなかった。
「青白き巨蛇の勇者よ!」
瞬時に喚起されたバティンに、命じる。
「わたしたちを、この現世に現われた異界へ跳ばして」
彼女の言葉の通り、マナとカイはその真っ只中へ一気に入り込むことができる筈だった。三十の悪魔軍団を率いる公爵であるバシンの力が及ばない場所など、有り得ない。
だが。
「え?」
まるでガラスの壁でもあったかのように、彼女たちは目的地に到達する直前で弾き飛ばされた。カイに支えられながら、マナは思わずキョトンと声を漏らしてしまう。
「これは、結界ですね。かなり繊細かつ強固です。おそらく、彼が……」
「もう! さっさと破ってやるわ!」
鼻息も荒く、新たな悪魔を呼び出そうとしたマナの肩に、カイがそっと手を置く。
「私がやりましょう。解封の許可をください」
「え、でも……」
心持ち、マナは頬を赤らめる。
「中で何があるか、判りません。ここで解いておいた方がいいでしょう」
「ん……わかった……」
「ありがとうございます。では」
その言葉と共に、カイはその場にひざまずく。それは、丁度マナと同じ目線になる高さだった。
マナは指先だけで彼の額に触れる。
「雄偉なる翼、獰猛なる尾を持つ至高の狗よ。我が息吹に応え、真の姿をここに現せ。そなたの名は――マルコシアス」
それは、強大な力を有する地獄の侯爵の呼称だった。
彼女は唱え終えると、カイの頬に手を添える。そして、彼の唇に己のそれを触れさせ、そっと息を吹き込んだ。
ほんの一瞬の、触れ合い。
マナは数歩後ずさり、彼の変化を見守る。
要したのは、わずかな時間だけだった。
彼の背中に広がった翼が、バサリと音をたて、空気を震わせる。スルリと伸びた尾は、その先端の蛇の頭から終始炎を吐き出していた。そしてその目は、マナと同じ菫色へと塗り替えられている。
カイ――いや、彼の中から解き放たれたマルコシアスは、俯けていた顔を上げて視線を巡らせる。その先にマナを捕らえると、彼女に向けて手を伸ばした。
「久しいな、マナよ」
「久しぶり、マルコシアス」
だが、そう答えたまま動こうとしないマナに、彼はふっと笑みを漏らす。そして彼は立ち上がると、数歩のうちに彼女の元に辿り着いた。マナの前で再び膝を突くと、すくい上げるようにして彼女を見つめ、その手を取った。
「そなたは、もっと我を呼ぶべきだ。……また、幼くなったか?」
ふくふくとしたマナの手をしげしげと見つめ、彼はそう呟く。そうして、その指先にそっと口付けた。
「我をこんなでく人形の内に封じたあの男は赦しがたいが、そなたに会えたことは、僥倖だ」
「マルコシアス……いいから、行くわよ。ほら、あの結界を壊して」
彼の手の中から自分の手を引き抜き、マナは努めて冷静な声でそう告げる。
彼女がマルコシアスを呼ばない一番の理由は、この態度だ。穏やかなカイと比べて、何と言うか――気まずい。
素っ気ないマナの態度に別段気を悪くしたふうもなく、マルコシアスは立ち上がると頷いた。
「相変わらず、つれないことよ。まあ、良い。主であるそなたの手足となることが、我の至上の悦び。では、少し離れておけ」
そう言い置いてマナを下がらせる。彼の手の中に光が灯り、伸び、それはやがて巨大な剣へと形を変える。本来であれば両手で扱うべきサイズのその両刃の剣を、彼は無造作に片手で振り上げ、そして下ろした。そこから放たれた輝きが、空間を震わす。
確かに、何もない空間の筈だった。
だが、マルコシアスの剣から撃ち出された光は、見えない何かに激突する。
拮抗する両者。
だが、それは一瞬のことで、マナが見守る中、ピシリと何かが砕ける『感覚』が辺りに響いた。
ひびは亀裂となり、そして、見えない檻を破壊する。
やがてその『何か』はバラバラと崩れ落ち、消え去った。後に残されたのは、忽然と現われた二人の女性――佳苗と、もう一人年配の女性だ。その女性からは、明らかに異質な気配が漂っていた。
佳苗の腕が取られているのを目にし、マナは言い放つ。
「カナエの腕を放しなさい。そして、あなたはあなたの住む世界を取り戻すのよ。不用意に、その力に触れてはいけないわ」
だが、その女性は顔を歪めて首を振る。
「イヤよ……イヤ! だって、これが無いとあの子がここにいられない! また、いなくなっちゃうわ。ほら、見てよ。あの子でしょ? どこも変わりないのよ?」
そうして彼女が指差した先にいるのは、小柄な少女。緩いクセ毛に、大きな目。
「陽子……」
いつの間にか姿を現し、佇んでいた少女を見つめ、佳苗が呆然とその名を呼ぶ。彼女の声を受け、少女はニッコリと――いや、ニタリと、微笑んだ。その様に、佳苗がハッと息を呑む。
「私の可愛い娘なのよ。ねえ、どんな姿でもいいから会いたいって思うのは、当たり前のことでしょう? 何をしたって生きていて欲しいって思うのは、当たり前のことでしょう? 『あの人』は、そうだねって言ってくれたの。だから、この力をくれたのよ」
縋るような眼差しで同意を求めてくる陽子の母親に、マナは唇を噛む。その気持ちは、理解できる。けれども、同調してはいけない想いだ。
「でも、それは自然のカタチとは違うのよ? いつか、ひずみが出てきてしまうわ。その時、どんなことが起きるか、判らないの」
「いつかなんて、どうでもいい。私には、『今』この子が必要なのよ」
激しく首を振り、髪を振り乱してそう言ってのけた彼女は、まるで悪鬼のようで。
マナには、その哀れな母親を説き伏せられる自信がなかった。
「でも、それはやっぱり正しくないことだわ」
力を失った声で、そう言い募る。
と、そんな彼女に被せるように、妙に明るい笑い声が響いた。
「はは、お前は相変わらずだなぁ。そういう硬いところは、母親そっくりだ」
声に遅れて、陽子の母親の隣に何かが凝集する。それは見る見る大きくなり、やがて人の形となった。
「……ゲイル!」
やはり、だった。
それは、マナが追いかけ続けてきた男。
再会は約二百年振りだが、その姿は彼が行方をくらました時のままだ。
そう、二百年振りだというのに、彼はヘラリと笑うと、いとも気軽にマナへ向けて片手を振ってよこした。