四
伸子のあの様子は、いったいなんだったのだろうかと、頬杖を突いて教室の窓の外を眺めながら、昼休みの喧騒の中、佳苗は昨日のことを思い返していた。室内は年頃の子どもたちの集団が立てる様々な音に溢れていたが、佳苗には届いていない。彼女の周りには分厚いガラスの壁が張り巡らされているかのように、それらはどこか距離を置いた、別の場所での事物のようなものだった。
陽子の両親が失踪宣告の申し立てをしたのは、つい半月ほど前のことだ。それまで絶対に応じようとはしなかった伸子が、ようやく受け入れたのだと聞いている。
それなのに――『待っている』?
やっぱり、暗に佳苗のことを責めているのか。
この、薄情な、臆病な、卑怯者のことを。
佳苗はクシャリと前髪を掴む。
そして、しばらく前から彼女に掛けられていたらしい声に、初めて気付いた。
顔を上げると、おさげに眼鏡をかけた、ごくごく平凡な顔立ちの少女が机の脇に立っていた。同級生の一人だということは判るが、名前までは思い浮かばない。確か、高校になってからこの地域に引っ越してきた子の筈だった。
「何?」
「え、……えぇっとぉ、あたしの名前、わかる?」
正直に、無言で首を振る。
「う……やっぱり……ま、いっか。山口真奈実だよ」
「で?」
他意はない。ただ、佳苗は先を促しただけだ。関心の欠片もない彼女の短い一言に、真奈実は怯んだように一瞬顎を引いたが、果敢に再び口を開く。
「あのさ、高木さんって、いつも一人でご飯食べてるでしょ? ……今日は食べてもいないみたいだけど……だからさ、あたしたちと食べない?」
『あたしたち』という部分で、彼女はチラリと背後に視線を送った。その先では、三人の女子が固唾を呑んでこのやり取りを見守っている。
正直、放っておいてくれ、と佳苗は思う。人が何をしていようが、休み時間にどう過ごしていようが、関係ないではないか。
「いらない」
「え、でもさ、ほら、話してみたら、結構楽しいかもじゃん」
「興味ない」
真奈実は単純な厚意から言ってくれているのだということは、判る。けれども、佳苗は、彼女のその屈託のなさにイライラした――自分でも不思議なほどに。
黙ってしまった佳苗に話の接ぎ穂を失った真奈実だが、まだ佳苗を誘うことに未練があると見えて、モジモジしながらその場に止まっている。
彼女が行かないのなら、自分が出て行こう。
そう思って、佳苗が椅子を引いた時だった。
慌てたように、真奈実が声を上げる。
「あ、あの!」
明らかに『面倒くさい』という色を宿らせているに違いない眼差しを、佳苗は真奈実に向ける。彼女は、何とか話の糸口を見つけたかったのだろう。そして、思いついたのが佳苗にとって逆鱗にも等しいものだとは、夢にも思わなかったのだ、きっと。
真奈実からしたら、唯一頭に浮かんだ『共通の話題』。
けれども、それは、佳苗の傷を抉るナイフだった。
「あ、えっと、さ。あの時、大変だったよね」
「……」
「ほら、あの台風。あたしはその頃東京にいたけど、新聞で見てて大変だろうなぁって……」
「……」
「その、でも、良かったね」
「……は?」
恐らく半径五メートル以内にいるものは、佳苗のまとう空気がピシリと音を立てたことに気が付いた筈だ。そしてそれは、目の前に立つ真奈実であれば、言わずもがなだった。
自分が何かを踏んでしまったことに気付いたようだが、それが何なのかは判らないらしい彼女は、元々豊かとはほど遠かった表情をさらに払拭した佳苗を前に、何とか話を続けようとする。
「あの、ほら、助かって、良かったじゃない? 亡くなった人も、結構いるんだよね?」
佳苗はガタンと大きな音を立てて立ち上がる。その音に真奈実がビクリと身体を震わせた。
彼女の言葉は、心底からのものだ。本心から、『助かって良かった』と佳苗が思っていると信じている。
けれども。
「何が良いって言うのよ」
「え?」
「良いことなんて、一つもない」
「だって……」
「わたしは、『助かって良かった』だなんて思ったことは、一度もない」
「でも……」
しどろもどろになった真奈実を、佳苗は一瞥する。彼女が悪いわけではないことは判っている。殆どの『他人』はそう思うだろう――命が助かったのは、いいことだ、と。無事生き延びた者に、『生きていて良かったね』と同意を求めるのは、ごく自然なことに違いない。
けれども、それは、生きるべき人が生き残った時に相応しい言葉なのだ。
――自分は、そうではない。
凍りついた真奈実には目もくれず、佳苗は身を翻し、教室を後にする。
彼女に声を掛ける者は、いなかった。
教室を出て、玄関を出て、門をくぐり。
無意識のうちにバスに乗って、いつしかまた、『あの場所』に辿り着いていた。
ガードレールに手を掛けて、ぼんやりと下方に視線を流す。
そうして、ぼんやりと思った。自分のこの身体はどこにでも行けるけど、心は一生ここから離れられないに違いない、と。
小さく嗤った佳苗の制服の裾が、そっと引かれる。
チラリと一瞬目を走らせて、再び眼下の木々の茂みへと戻す。相手に聞かせる意図はなく、ポツリと呟いた。
「また、あんたなの」
金髪の少女は、まるで佳苗が飛び降りようとでもしているかのように、しっかりとブレザーの裾を握り締めている。
「皺になるから放してくれない? 別に、下りたりしないわよ」
佳苗がそう言った後もしばらくマナは迷った様子だったが、やがてそっと手を開いた。
「学校は?」
自身が小学校に上がっているかどうか、という年齢の子どもにそう尋ねられると、何だか妙な感じだ。そう思いながらも、佳苗は答える。簡潔に。
「サボり」
「……そう」
マナからの返事もシンプルだった。そして、沈黙。
しばらく無視を続けたが、少女は立ち去ろうとしない。根負けをして、佳苗は再び声を掛ける。
「――何の用?」
その問いに答えはなく、逆に切り返してきた。
「何か、あった?」
何故、みな、こうやって自分に関わってくるのか。それは、佳苗の中に、嬉しさよりも苛立ちを掻き立てる。カッとした彼女は、幼い少女にバッと向き直った。
と、向けられているのは、黒檀の眼差し。
その黒は闇の色というよりも、静謐な深い泉のようだ。ヒタと視線が絡むと、どこまでも沈みこんでいくような、果てしなく包み込まれていくような錯覚を覚える。
「何か、あったの?」
金色の髪を柔らかく揺らし、彼女が首を傾げる。
通りすがりの少女。
たまたま出会っただけの、相手。
いつもの佳苗なら、自分の心の中にあるものを誰かに――陽子にさえも――吐き出すことなど、絶対に有り得なかった。己の中にあるものは、それがどんなものであっても、全て彼女だけのものだ。誰かと分かち合うことなど、なかったのだ。
けれども、今目の前に立っているこの不可思議な少女は、柔らかな綿を掻き分けるようにして、佳苗の心の中に静かに触れてくる。十年にも満たないほどしか生きていない者が、どうして、これほどまでに深い眼差しを注ぐことができるのか。
佳苗の背筋に、ゾクリと何かが走る。
と、同時に、言葉が口をついて出てきていた。
「わたしには、大事な子がいたんだ。自分とその子だったら、何にも考えなくても、その子の方を第一にできるような子が」
初めて誰かに語った陽子のことは、過去形だった――無意識のうちに。
マナは、ただジッと耳を傾けている。
「あの、台風の日。わたしと陽子はここを歩いていて……急に、あの子がわたしを突き飛ばして。振り向いたら、あの子は、いなかった――ううん、まだ、いたんだ。わたしの目の前で土砂に呑み込まれて。でも、その時はまだあの子の腕は見えていた」
佳苗は自らの両手に視線を落とし、それを握り締める。爪が食い込んで痛みを覚えるほど、強く。
「わたしが手を伸ばせば、あの時陽子の腕を捕まえていれば、あの子は助かったかもしれないんだ。――違う。あの子がわたしを突き飛ばしたりしていなければ、勝手に一人で逃げていれば、今ここに立っているのは、あの子の筈だったんだ」
プツリと小さな音がして、手のひらの痛みが強くなる。けれども、佳苗は力を緩めることができなかった。小刻みに震える彼女の拳に、柔らかく温かなものが触れる。そこに目を向けると、まるで何かのおまじないかのようにそっと触れる少女の唇があった。
佳苗の肩から、わずかばかり、力が抜ける。
「あの後、色々な人が、わたしに向かって『生きてて良かったね』と言ったよ。だけど、わたしはそうは思えない。わたしなんかより、陽子の方がよっぽど『生きる価値』があったんだ。何で生きているのか判らないようなわたしなんかよりも、陽子の方が、生きるべき人間だったんだ。……陽子の方が、わたしなんかよりも、ずっと、『生きてる』子だったんだ……」
最後はただの囁きだった。
「わたしの方が、自分を捨ててでも洋子を助けなくちゃいけなかったんだ。なのに、わたしは何もしなかった。陽子の腕が消えていくのを、ただ見ていただけだったんだ」
軋むような声で、それだけ言い終え、佳苗は目を閉じる。そうする度に浮かんでくるのは、土砂の中に沈んでいく白い腕。佳苗のものよりも細い腕と、小さな手。
陽子は運動が苦手で、体育の時は、いつも他の子よりも遅れがちだった。それなのに、『あの時』は凄い力と驚くほどの俊敏さで佳苗を弾き飛ばした。
反対に、佳苗はスポーツも並みよりできて、殆どの記録は学年の中でも上位に入っていた。それなのに、『あの時』はほんの少し腕を伸ばすことさえできなかったのだ。
どんなに過去を振り返ったところで、決して戻って来はしない。それはイヤというほど解かっているけれど、この二年間、佳苗は一歩も踏み出せないままでいる。
陽子の代わりに自分がこうして立っていられることが、受け入れられなかった。
語るべきことを語り終え、佳苗は口を閉ざす。まるで長く走り続けていたかのように、ぐったりと身体が重かった。
どちらも発する言葉がなく、森閑とした空気がその場を支配する。
不意に、佳苗の拳が温かくなる。きつく結ばれたそれを解きほぐそうとしているかのように、マナの小さな手が何度も何度も撫でていた。
その動きを見つめていると、佳苗の視線に気付いたのか、マナが顔を上げる。
大きく黒い目は真っ直ぐに、そして少し悲しそうな光を帯びて、佳苗に向けられていた。
やがて、慎重に言葉を選んでいるように、ゆっくりと話し出す。
「あのね、ヨウコさんが目の前にいたら、ヨウコさんに同じことを言うかもしれない。けど、今、私の目の前にいるのは、あなただから。わたしと出会って、こうやってつながりを持ったのは、あなただから。だから、カナエに言うわ」
佳苗は、ヒタと見据えてくるマナの目に囚われる。それは、漆黒のようでいて、その実、黒ではない、深い深い何色かだ。この時、佳苗には、彼女が幼い少女ではなく、長い年を経た成熟した女性のように見えて仕方がなかった。
そうして、彼女が囁く。目に、強い光を湛えて。
「『あなたが生きてて、わたしは嬉しい』って」
小さな、けれども、確たるものを秘めた声。その響きに、佳苗は一瞬圧倒される。だが、すぐに微かな笑いを漏らした。
「何で? あんたとわたしは、出会ったばっかでしょ? 何を根拠に、そんなことを思えるのよ」
「根拠なんて、ないよ。ただ、わたしの中に溢れてくる想いだもの」
「わたしには、解からないよ……」
「いいよ、解からなくても。でも、わたしがそうに思っているっていうことは、覚えていて欲しい。あなたの中に、ずっと残しておいて欲しいの」
マナの声音に含まれる切実な何かに気おされて、佳苗は頷く。そして、解かれた手を引いて後ずさる。
「わたし、もう帰る」
それだけ言って、歩き出した――ひとまずは、自宅への道を。
疲れきった頭で、佳苗はぼんやりと考える。
あの少女は、いったい何者なのだろうかと。
彼女に吐露した思いは、決して誰にも伝える気が無かったものだ。自分の中だけに留め、自分の中だけで処理すべき思いの筈だった。けれども、マナはそんな佳苗のガードを擦り抜け、全てをぶちまけさせた。
彼女の中にわだかまっていたことを言葉にして吐露したからといって、何かが大きく変わるわけではない。けれども、微かに、本当に微かに、動いたものもあるような気がした。
佳苗は、地面を踏みしめる足に、力を込めた。
*
立ち去る佳苗を見送って、その背中が見えなくなると、マナは詰めていた息を吐き出すようにその名を口にした。
「カイ」
一瞬の間も置かず、長い黒髪を揺らしながら、彼は現われる。そうして、両腕を伸ばすマナを、無言で抱き上げた。
マナは、細見に見えるのに力強いその腕に、身を委ねる。彼の首にしっかりとしがみつくと、その肩に顔を埋めた。
「わたしが今感じているこの想いも、いずれ消えていってしまうのかしら。全部、なかったことになってしまうの……?」
「マナ様」
「消えて欲しくないわ。失いたくない」
呟きながら、マナは己が身にかけられた呪を思う。
彼女のその身を蝕む、呪。
――かつての彼女は、妙齢の女性だった。
師の元につき、魔術を学び、研鑽に励む日々。
両親から譲り受けた天賦の才と、それを惜しまず磨く努力は着実に実を結び、いずれ希代の魔術師となるであろうことは誰からも認められた事実だった。
だが、マナが二十五歳の時。
その道は阻まれた――あろうことか、彼女の師、その人によって。
師にとって最大の悲劇が起きた、その年。彼は深夜にマナを呼び出した。
部屋の中に誰もいないことを怪訝に思いながらも彼女が部屋の中央まで足を進めた時、その魔法円は突如として発動したのだ。
床に浮かび上がる真円。
そこに描かれた複雑な文様。
読み解こうとしたマナの意識はそれを果たす前に失われ、次に目覚めた時には、全てが消え去っていて。
一見したところでは、何も起きていなかった。
師は何をしたかったのだろうかと首をかしげているところに現われたのが、一体のホムンクルスだった。それは、師はしばらく帰れないであろうといい、マナの傍に就くように命じられたと告げ、そして一冊の書を差し出した。その書は、師が肌身離さず持っていたもので。
何故、ホムンクルスなどが用意されたのか、何故、貴重な書を手放したのか――師がいったい何をしたかったのか、さっぱり判らなかった。
取り敢えず、マナはそのホムンクルスに『カイ』と名付け、言われたとおりに傍近くに置いた。
失踪した師の行方は杳として知れなかったが、しばらくは、何も変わらず日々は過ぎ。
月日が流れる中で、やがてマナは自らの身体にかけられた呪の効力を思い知らされた。
それは、遡行の呪。
彼女の身体は、ゆっくりと時を遡っていのだ。
気付いたのは、十年ほども経った頃。
一向に外見の変わらないマナに周囲が気付き始め、更に十年が過ぎた頃には明らかに若返っていることが見て取れた。恐らく、十年かけて一年分を戻っていく程度だろう。
そうして気付く、記憶の消滅。
魔術は魂に刻まれるものだから、それに関わるものは残されている。知識も力も、増え続けるばかりだった。他のどんな魔術師よりも強大な力を、彼女は手に入れている。
だが、その他の記憶は、脳という臓器の細胞一つ一つに貯えられていくものだ。脳の細胞が若返れば、当然、記憶は失われていく。メモをとっても、無駄だった。その記憶は、彼女にとってそもそも存在しないものになるのだから。
師が何を意図してマナにこの呪をかけたのかは判らない。
この呪の行き着く先がどうなっているのかも、判らない。
何も判らないままに、自分にタイムリミットがあることは理解したマナは、師を探す旅に出た。
彼を追い続け、彼の起こした騒動の尻拭いをするうちに、見えてきたもの――彼の望むこと。
それは、理を乱すことだ。
彼は、その想いの深さ故に、道を踏み外したのだ。
何かに、誰かに想いを傾け過ぎるのは、時に危険を招くこともある。思慕の念が強ければ強いほど、その相手を失えば、傷も大きくなる。
いっそ、何も感じなくなってしまえば、安寧と平穏を得られるのかもしれない。
マナは時々、かつて師と仰いだ男のことが、哀れになる。その、想いの強さに。
彼女自身、人と触れ合えばどうしても心を動かされずにはいられないのだから――今の、カナエに対して覚えてしまったこの気持ちのように。
「何かを感じるというのは、楽しいことだけじゃない。つらいことも多いわ」
「マナ様……」
「でも、失いたくないの。なかったことには、したくないの」
そうこぼし、マナはカイの首に回した腕に、力を込める。それに応えるように、彼も彼女を抱き締める力を増した。
「わたしには『今』しかないわ。今大事だと思っていることを、明日になれば忘れてしまうかもしれないから。それがとても怖くて……とても、悲しい」
声の震えを抑えることが、できない。
そんな彼女に、カイがそっと囁きかける。
「あなたが見たこと、聞いたこと、感じたこと。全て、私の中に留めておきますから。あなたが失いたくないと思うものは、全て、私の中に在り続けます」
そうして、彼は少し身体を引くと、マナと額を触れ合わせる。
「あなたが喜んだこと、悲しんだこと、怒ったこと……それらは全て、私の中に残します。決して消えることはありません」
「カイ。うん、そうだね。わたしとあなたは、ずっと、共に在るのだから」
彼から伝えられる様々な想いを受け止め、マナは頷く。
それらはどれも皆、かつて彼女の中にあったものだ。けれども、きっと、その頃と完全に同じようには感じられない。『記憶』はこうやって再び手に入れることができても、それによって引き起こされる『感情』は違うのだ。
だからこそ、マナは『今』を大事にする。
このまま時を遡り、『初め』まで戻ってしまった後はどうなるのか。消えるのか、それとも、またそこから始まるのか。
どちらも、イヤだった。
マナは我知らず、カイの両肩に置いた手を握り締める。
早く――早く、彼を捕まえなければ。