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「何だか最近、鈴木さん家の奥さんを見かけないわねぇ」

 登校途中のバスの中、佳苗かなえは、近くに座っている中年女性のやり取りを、聞くともなしに聞いていた。

「それを言うなら、金子さんとこも。ほら、どっちも『あの時』……」

 女性は、最後まで明言することなく、口を濁す。

 どこか、何かがはばかられるような、雰囲気。

 あの災害から、こんな空気が漂うことが増えた気がする。一番顕著なのは、『犠牲者』が出た家族と出なかった家族の間の、壁のようなもの。それは、『同情』とはまた違う、何か。

 家族の一員を失った人たちが打ちひしがれるのは、当然だろう。それにもまして色濃く滲むのは、彼らを取り巻く、周囲の者達が放つものだった。

 以前は小さいだけに和気藹藹としていた村が、あれ以来一変している。

 その正体が何なのか、佳苗には判らないし、別に判ろうとも思わない。

 けれども、陽子ようこがいた頃とは違うというそのことが、イヤだった。

 ――陽子……そう、陽子だ。

 昨日のあれは何だったのだろうかと、佳苗は思い返す。

 確かに、陽子だったように、思う。

 佳苗が彼女を見間違える筈がない。

 夢? 幻? あるいは――

 陽子の遺体は、結局出てこなかった。

 それは、つまり、彼女が生きているかもしれないということではないのだろうか。

 もしもそうなら、今までどうしていたのだろう。

 土砂に押し流されて、記憶喪失になっていて、最近思い出したとか……?

 佳苗はあまりにバカげた、そしてあまりにも希望的観測に満ちた考えに、小さく嗤う。そんなことが、ある筈がない。

 そうやって自嘲して、もう一つ頭の中をよぎったことに、佳苗はそのまま嗤いを凍り付かせた。

 だったら、あの彼女は……。

 ずっとあの場に囚われていて、佳苗のことを待っている、とか……?

 その方が遥かに有り得ることのように思えた。

 彼女を見殺しにした自分を、陽子がどんなふうに思っているのか、知るのは怖い。

 でも、それでも、もう一度会えるのであれば、何を言われても良かった。罵る声でも、怨嗟の声でも、もう一度、陽子の声を聞くことができるのであれば。

 無意識のうちに、佳苗の手が伸び、停車ボタンを押す。

 そこは、いつも下りる停留所のずっと手前だ。

 佳苗の頭は何も考えることなく、バスが停まった所で座席から立ち上がる。

「あれ、どうしたんだい?」

 ステップを降りる佳苗に気付いた顔馴染みの運転手が、怪訝な顔で呼び止めた。

「ちょっと……忘れ物を……」

 気もそぞろにそう答えた佳苗の背中を、「気を付けて」という彼の声が追いかける。

 時刻表を確認すると、戻るためのバスが来るまでには、まだあと三十分以上もあった。バス停四、五個の距離なら、歩いてしまっても同じだろう。

 殆ど迷うことなくそう決めると、佳苗は歩き出す。妙に気が急いて、いつの間にか小走りに近くなっていた。息を切らせながらも、足を緩められない。

 そうして、『その場所』に着いた頃には、制服の下は汗でぐっしょりと濡れていた。

 陽子がいたのはどの辺だっただろうかと、佳苗はガードレールから身を乗り出す。

 本当にいたのだろうか。見間違えだったのではないだろうか。

 木々が茂るその先を見通すことは難しくて、意を決した佳苗はガードレールを乗り越えた。切り立っている、とまではいかないけれど、そこそこ急な斜面を慎重に下りていく。

 ようやく平らになった地面で立ち止まると、佳苗は周囲を見回した。鳥の声や、風が微かに梢を揺らす音が聞こえてくるくらいで、他に何の気配もない。

 空気が――世界が、違う?

 佳苗は、一瞬、そんな奇妙な感覚に囚われそうになる。小さく頭を振って、微かな不安を払い落とした。

「陽子……?」

 試しに、そっと名前を呼んでみる。

 返事はない――当たり前だ。いる筈がない。

 そうは思っても、佳苗はそこに佇んだまま、動くことができなかった。

 しばしの静寂。

 どんな小さな囁きも聞き逃すまいと、佳苗は耳を澄ませる。

 けれども、結局。

 どれほど待ってみても、求める声は響いてこなくて。

 佳苗は眼瞼を閉じると、強張らせていた全身から、ホッと力を抜いた。

 と、その時。

「カナエ」

 背後から突然に呼ばわれた自分の名前に、目を見開いて振り返る。

 果たして、そこにいたのは。

「こんにちは。危ないって、言ったのに」

 眩いほどの金色の髪を揺らしながら、たしなめるように、少女が口を尖らせた。人形と見まがう顔立ちは、その表情故に生き生きとした輝きをも放っている。年端も行かない少女の筈なのに、眼差しはどこか妙齢の女性を思わせる。

「カナエ」

 再び自分の名前を耳にして、佳苗はハッと我を取り戻した。

「あなた、確か……」

「マナ、よ」

 パッと、大輪の華が開いたような、笑み。佳苗はそれに、思わず眼を奪われる。そして、何度か瞬きをして我に返る。

 一瞬とは言え、年端もいかない少女に見惚れた自分にバツの悪さを覚え、佳苗は少し尖った声を出した。

「あなた、こんなところで、独りで何をやってるの? 誰か、一緒じゃないの?」

「あっちの方に――と少女は背後を指差し――いるわ」

 彼女が言うのは、昨日一緒にいた、タキシードのようなものを着た男性のことだろうか。兄というには年が離れすぎていたように見えたから、父親なのかもしれない、と佳苗は当たりをつける。

 最近はスローライフとかで、何もない田舎町に滞在してみるという風潮があるらしいから、きっと、この子達は旅行者で、この辺に泊まっているに違いない。たまたま、彼女たちが散歩している時に、自分が居合わせるのだ。

 佳苗は、筋が通りそうな理屈をつけて、自分を納得させる。

 さっさとこの子を親に渡してしまおう。

 そんなふうに考えた。

 が、つられて視線を向けた先に、人影らしきものはまったく見当たらない。これは、迷子というものではなかろうかと、佳苗は思う。

「えぇっと、マナちゃん、だっけ? おまわりさんのところに連れて行ってあげようか?」

 滅多に出さない猫撫で声で佳苗が促すと、マナと名乗った少女は、くすぐったそうに笑みを漏らした。

「ふふ、大丈夫。ホントに、ちゃんといるから。カナエ、優しいんだね」

 彼女のその台詞を耳にした途端、頭の中で、同じ感想を述べる別の声が木霊する。

 ――佳苗って、ホントは結構優しいよね。

 陽子も、事ある毎にそう口にした。

 二年前を最後に聞いていないその声を、佳苗は頭を振って追い払う。

 自分が本当に優しい人間だったなら、あの時、陽子は助かっていた筈だ。そう、自分が陽子のように、自分の身を捨ててまで誰かを助けるような、人間だったなら。

 彼女の中に長いこと巣食っている何かに捕らえられそうになった佳苗を、フワリと包み込むような呼びかけがすくい上げた。

「カナエ?」

 目を開ければ、佳苗の心の奥深くまで染みとおってくるような漆黒の眼差しが、ジッと彼女に向けられていた。

「……なんでも、ないよ」

 辛うじて笑みと受け取れるほどのものを口元に刻んだが、硬い声音は整えようがなかった。この少女は、佳苗が懸命にしまい込んでいる何かを、引っ張り出してしまいそうな気がする。

「わたし、もう行くから。あなたも早くお父さんのところに行きなさいよ?」

 そう言い置いて、彼女は道路へ戻るべく、斜面に向かった。下生えをむんずと掴んで、よじ登る。みっともない格好なのは百も承知だったが、佳苗は頓着していられなかった。無性に、その場を離れたくて仕方がなかったから。

 道路に戻ってしまえば、下の様子はまた見えなくなった。マナの金髪が枝葉の隙間に覗いたような気がしたけれど、きっと見間違いだろう。

 ふっと、生暖かい風が腰まである佳苗の髪を揺らしていく。

 唐突に現実へ引き戻されたような心持ちがして、佳苗は溜息をつく。そして、授業が終わる時間まで何をして過ごそうかと、空を見上げた。


   *


 背後からひっそりと近付いてきた気配に、マナは振り返る。

「カイ」

 呼びかけに応えるように、黒髪の青年は優しげに微笑んだ。

「また、あの方でしたか」

「うん、そう。……この村は全体的に暗い思念が取り巻いているけれど、彼女は特に濃いわ。何がそんなにあの子を捕らえているのかしら」

 金髪を揺らして、マナが首をかしげる。

「マルバスを召喚してみては?」

「うぅん……勝手に覗くのは、気が進まないんだけどな……」

「ためらっていると、時期を逃しますよ? それに、彼女も救うことができるかもしれないではないですか。知ったことを、あなた一人の胸の中に留めておけば、いいでしょう? 公にならなければ、秘密は秘密のままです」

 穏やかな微笑と共に、カイはそう言い切った。

 マナは少々複雑な面持ちで、彼を見上げる。

「……やっぱり、あなたも口がうまいわね」

 決して褒め言葉ではないであろう彼女の言葉に、カイは笑みを深くしただけだった。

 まだ少し思案した後、彼女は小さく溜息をつき、諦めたように頷く。

 そして、両手を真っ直ぐに差し伸べた。

「出でよ、七十二柱を封ぜし書よ」

 マナのその声で現れる、書。

 それは彼女の知恵、彼女の盾、彼女の剣――彼女の力の全て。古の七十二の悪魔を封じた、書。

 悪魔たちの力は強大で、時に召喚者さえも欺こうとする。そのものたちを操り、己が操られない為には、何よりも強い心を持つことが要求される。わずかでも心に隙があれば、そこを容赦なくつけ込んでくるのだ。

 召喚の為の言葉を口にする前に、しっかりと心に鍵をかけなければならない。

 マナはキュッと唇を一度噛み締めると、再び口を開いた。

「黒きたてがみをなびかせし獰猛なる金獅子よ。全てを暴くその口をもって、秘せられし真実を我に告げよ」

 詠唱と共に革張りの書物が勝手に開き、そこから魔法円が浮かび上がる。それはマナを包み、輝き始める。

 陣が完成すると共に、彼女の前に陽炎のような何かが揺らめき立ち、やがてそれは形を成す。

 現れたのは、金色の獅子――鬣だけが、漆黒の。その目だけが無心の獣のものではなく、狡猾そうな輝きを閃かせていた。

 悪魔の名は、マルバス。その力は、人の隠そうとしていることを、暴くことができる。便利である反面、マナとしてはあまり使いたくない力だった。

「ご機嫌いかが?」

「久しいな。我が主は、この力をなかなか呼ばぬ」

「必要がなかっただけよ。そして、今は、あなたの力を借りたいの……貸してくださるかしら?」

 年端もいかぬ少女の言葉に、悪魔は満悦の表情だ。

「うむ」

 ゴロゴロと喉を鳴らしながら、頷く。

「では、この場に残る少女の気配は、お判り?」

「心地良い波動だの。罪の意識、自虐、虚無」

「どういうこと?」

「さて。娘は、生きた。その友は、死んだ。その二つが強く渦巻いておる。我には見え、ただそれを告げるのみ。判ずるのはそなただ」

 マナが眉間に皺を寄せるのを、獅子はどこか楽しそうに眺めている。その視線に気付き、彼女は肩を竦めた。

「わかった。後は自分で考える。ありがとう、助かったわ」

「うむ、また呼ぶがよい」

 金色の獅子はペロリと舌なめずりすると、一瞬にして掻き消える。後を追いかけ、魔法円も薄らいでいった。

「お友達が、亡くなってるの……? それが、ヨウコさんかしら?」

 この近辺では、二年前の災害で十人以上が命を落としたと聞いている。この狭い社会の中で、それは大きな衝撃だっただろう。

 外観的には、村の建物は修復され、日常も戻っている。けれども、人当たりの良い村民たちにも拘らず、受ける印象は、どこかほの暗い。二年という時が過ぎても、目に見えない傷はまだ癒えていないのか。

 カナエの中にあるものが悲しみであるならば、判る。だが、『罪の意識』とは、いったい何なのだろう。

 カナエとヨウコの間には、ただ、『助かった者』と『助からなかった者』ということ以外に、何かがあるに違いない。

 この村を襲った悲劇に、マナの追い続けている者は、どんなふうに関わっているのか。

「きっと、また、ろくでもないことなんだろうなぁ……」

 心の底からの溜息と共に、そう呟く。

「マナ様……」

 気遣うように、マナの唯一の拠り所が彼女の名前を呼ぶ。まるで希少な宝石であるかのように。

「カイ」

 両腕をカイに向けて伸ばしたマナを、彼は無言で抱き上げる。

「何だか、良くないことが待っている気がするな……いつものこと、か。まったく、あの人は……一つのことしか、頭にないんだから……」

 呟きながら首にしがみつくマナの髪を、カイはただそっと撫で下ろすだけだった。


   *


 奇妙な少女から逃げ出すようにあの場を立ち去って、結局、佳苗は家に帰ることにした。小さな村のことなので、そこらをウロウロしていたら、顔見知りに出会って根掘り葉掘り訊かれるのが関の山だ。

 どうせ、すずは佳苗が早く帰ろうが帰ってこなかろうが、気には留めまい。

 特に急ぐ事も無くぼんやりと歩いていた佳苗は、前から近付いてくる人物にギクリとする。

 一瞬、身を翻して駆け出したくなった。

 が、それよりも早く、相手に気付かれてしまう。

「まあ、佳苗ちゃん」

 陽子の母、伸子のぶこは、嬉しそうな声を上げて手を振ってきた。その響きに、屈託や陰鬱さは全くない。朗らかで、楽しげで、まるで以前の彼女のようだ。

 そう考えて、佳苗は本当にそうだろうかと自問する。

 伸子のどこか茫洋とした目は、『明るい』というよりも、『熱に浮かされている』ようだ。

 もしかしたら、病院に通い始めたのかもしれない。何か薬でも飲み始めたのなら、急に変わってもおかしくないように思えた。

 立ち止まった佳苗がそんなふうに思考を巡らせている間にも、伸子はどんどん近付いてくる。そうして、ついに、彼女の前で立ち止まった。

「久し振りね。どうしたの? 早引け?」

「はい……ちょっと、気分が悪くて」

「まあ、大丈夫?」

 そう言うなり、伸子は熱を確認しようとしてか、佳苗の額に手を伸ばしてくる。

 九月に入ってまだ間もないこの時期の気温は、まだ高い。

 にも拘らず、伸子の手は冷え切っていて、佳苗は触れられた途端にゾクリと背筋を震わせた。彼女の手は真冬でも温かくて、『人間カイロ』と自称していたくらいだったのに。外から帰ってきて冷たく凍えた陽子と佳苗の頬をギュッと包み、自慢そうに「温かいでしょ?」と訊いてくる顔を、佳苗ははっきりと思い出せる。

「熱はないみたいね」

 心配そうな伸子の声に、佳苗は追憶から引き戻された。目の前には、見上げてくる大きな目――陽子とよく似た顔立ち。

 佳苗は、思わず一歩、後ずさる。

「どうしたの?」

 心持ち目を見開いて、伸子が尋ねてくる。彼女が近付いてくる前に、佳苗は大きく首を振った。

「なんでもないよ。たいしたことはないんだ。家で寝てれば、治るから」

「そう?」

 案ずる眼差しは、やはり伸子だ。

 それなのに、この違和感は何なのだろう。

「もう、帰って寝てるよ」

「そうね、それがいいわね」

 ニッコリと、優しい笑顔。

 そんな彼女に頷きだけを返し、横をすり抜けようとする。

 すれ違って、少し距離ができた頃。

「あ、そうそう」

 呼び止められて、振り返る。

「最近、あまり遊びに来ないのね。高校生になったからかしら?」

「……え?」

「また、いらっしゃいよ。おばさん寂しいな」

 何の屈託もない眼差しで、伸子が言う。けれども、この自分が、かつて陽子の笑いが満ちていたあの家に、どの面下げて入れるというのか。

 何も返せない佳苗に、伸子が微笑む――この上なく、幸せそうに。

「あの子も待ってるから、またいらっしゃいな」

「!?」

 伸子の浮かべている、笑み。それは、どこに通じるとも判らない孔がポカリと開いているようで。

 佳苗は、言葉もなく立ち竦む。

 彼女のその様を見届けるのを待っていたかのようにジッと数瞬視線を留めると、伸子はフワリと身を翻して去っていく。

 記憶に残っているものよりも随分細くなってしまったその背中を見送りながら、佳苗は堪えようもなく胸の中にこみ上げてくる違和感に、不隠な胸騒ぎを覚えていた。

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