一
佳苗と陽子は、いつも一緒にいた。
二人が初めて出会ったのは、五歳の時。
陽子の両親の海外出張が決まり、彼女を連れて行っても仕事が忙しくて面倒を見られないから、と、母方の祖母である鈴のもとへ預けられることになったのだ。佳苗の母親も淡白な人だが、その母親の鈴もやはり淡白な人で。佳苗を預かることを嫌がってはいないようだったが、喜んでいるようにも見えなかった。
祖母からは、「よく来たね」の一言もなく。
両親と暮らすことも、素っ気無い祖母と暮らすことも、たいした違いはなかった。
佳苗が生まれてまだ五年だが、その間、誕生日を祝われたことも、クリスマスを家族で過ごしたこともなかった。いつもいつも、彼らは『仕事』だったから。
佳苗の世話は、それまではいたってビジネスライクな家政婦兼ベビーシッターがしてくれており、その役割を祖母が引き継いだだけのこと。
とにもかくにも、佳苗はこの山奥の小さな村で過ごすことになったのだ。
小さな村では子どもの数は少なく、寺が保育所代わりだった。
そこにいたのは、佳苗の他に七人。下は三歳、上は六歳だ。
佳苗は、彼らに馴染めなかった――馴染もうと思わなかった。他の子どもたちが歓声をあげながら楽しめることも、彼女は半ば義務で参加しているようなものだった。
可愛げないこと、この上なかったことだろう。
五歳にしては大人びて、『子ども』からは浮いていた佳苗にためらわずに声をかけてきたのは、陽子だけだった。他の子どもたちが空気のように扱う佳苗に、陽子だけがその存在を認め、屈託なく笑いかけ、手を引っ張った。
単に、同い年だった。
単に、女の子同士だった。
単に、家が近所だった。
幼い陽子が佳苗に興味を示したのは、きっと、そんな他愛もない理由。
それでも、陽子を通じて、佳苗は人の温もりを知り、人と関わることを知り、人と喜び合うことを知っていった。祖母や母と同じように淡白で、世界が明日滅びると言われても「へえ、そう」で終わらせてしまいそうな佳苗だったけれども、陽子だけは特別だった。
*
「やだぁ、ずいぶん降ってる!」
バスの窓から外を眺めていた陽子が声をあげる。確かに、外は土砂降りだった。
「傘差しても無駄だね、これは」
陽子がそう言いながら、手にしている可愛い花柄のピンクの傘に目を落とした。一方、隣に座っている佳苗の傘は、実用一点張りの紳士用傘だ。紺色で大きく、丈夫で、陽子のものよりは役に立ってくれそうだった。
「台風来てるからね。直撃かな」
「朝の天気予報は、ずれそうだったのになぁ」
「予報は予報だし。仕方ないじゃん」
「もう、佳苗はいっつもドライなんだから」
陽子はそう言って、ムウッと口を尖らせた。
佳苗も陽子も、現在中学二年生だ。
同い年なのに、外見はずいぶん違う。
佳苗はすらりと背が高く、顔立ちも年齢よりも大人びていて、私服でいたら、知らない人には高校生に間違われることもある。髪はストレートで、腰まで伸ばしていた――伸ばそうと思っているわけではなく、単に切りに行くのが面倒なだけなのだが。対する陽子は、小柄で、一言で表現するならば、『小動物』だ。ふわふわのクセ毛は肩の高さでマメに切り揃えているが、こういう天気の日は『爆発』するからイヤだと、いつも言っている。童顔で、顔見知りの人からも、「来年中学生だっけ?」と言われることがしばしばあった。
二人は中学生なのではあるが、村には中学校がない。なので、毎日バスで三十分かけて隣の町の中学校に通っている。今日は台風で警報が出たから、いつもより少し早い時間に帰路についていた。
彼女たちの家に一番近い停留所まで、もうすぐだ。もっとも、『近い』とは言っても、そこから歩いて三十分はかかるのだが。
「陽子のお母さん、迎えに来てたりして。心配性だもんね」
「やだなぁ、中学生にもなってそんなことしないよ」
陽子はそう言って笑い飛ばしたが、佳苗は内心、どうだろうかと思う。
佳苗のところは、下手をすれば彼女が三日黙って留守にしても気にも留めないか――最悪、気付きさえしないかもしれない。ある意味気楽だ。実際、何回か黙って陽子の家に一泊したことがあったが、鈴は何も言わなかった。
陽子の家に泊まると、佳苗はいつも居心地がいいのか悪いのか、よく判らなくなる。彼女の知る『家族』とは全く違うから。
食事の間中会話を交わして、終わった後も、さっさと自分の部屋に引っ込むことなくリビングで過ごす。
それがうっとうしいのか、うらやましいのか。
佳苗には判らない。
やがてバスは停留所に近付き、陽子が腕を伸ばして停車ボタンを押す。
「よし、覚悟を決めるぞ!」
陽子がグッと両の拳を握り締めて気合を入れる。その姿に、佳苗は苦笑した。
「大袈裟だなぁ。ただの台風じゃん」
「何言ってるの。これは『嵐』だよ、もう。何が起きるか判んないよ?」
「はいはい。ほら、さっさと行こう」
そう軽く流して、佳苗はブチブチとこぼしている陽子の背中を押してステップを降りる。
バスの外は暴風雨だった。まさに横殴りの雨と風だ。
「うわぁ、もう、濡れて帰る!」
早々に諦めた陽子が傘を閉じると、学校のトレイでくすねたゴミ袋に包んだ鞄を胸にしっかりと抱き締めた。佳苗もそれに倣うと、バスから降りる。
「気を付けて帰りなよ!」
去り際に、バスの運転手がそう声を掛けてくれた。
「うう……ホント、スゴイね。……喋ると雨が口に入る……」
だったら喋らなければいいのに、と佳苗は思ったが、雨水を飲みたくなかったので、黙っていた。無言の佳苗にも拘らず、陽子の口は止まらない。
彼女の言葉を殆ど右から左に聞き流していた佳苗は、陽子のその台詞を聞き逃しそうになる。
「ねえ、何か聞こえなかった?」
その言葉と共に、陽子の足音が止まる。振り返ると、彼女はキョロキョロと辺りを見回していた。ここは山を削った細い道で、何本か細い木が生えているだけの山肌と、それほど高くはないがちょっとした崖とに挟まれている。こんな天気の日には、できたら、さっさと通り過ぎてしまいたい。
「どうしたの?」
「ほら……何か、音が……」
佳苗も一緒になって立ち止まり耳を澄ませたが、何も聞こえない。
「気の所為だって。ほら、早く行こう」
そう促して、佳苗はまた歩き出す。
と。
「あ!!」
切羽詰った陽子の声。
佳苗が振り向く間も無く、強い力で突き飛ばされた――というよりも、体当たりされた。歩いていた勢いのまま五、六歩進み、更につんのめるようにして転がってしまう。
「ちょっ、何するのよ!?」
全身泥だらけになった佳苗は、抗議の声をあげる。
肩越しに後ろに向けた顔に、ピッと、泥が跳ね飛んだ。
視界に入ったのは、音を立てて流れていく土砂。
そこから伸ばされている、細い腕。
それは、あっという間に崖の下へと消え去っていった。
「え……?」
思わず声が零れる。佳苗は、状況を飲み込めなかった。
目の前にあるのは、道を塞ぐ土砂と、ポツンと転がる、泥にまみれた可愛らしい傘。
「陽子……?」
名前を呼んでも、応える声はない。いつでも笑っているようなその声は、聞こえてこなかった。
すぐに、助けを呼びに走るべきだったのかもしれない。
けれども、佳苗は動けなかった。
泥から突き出た白い腕だけが脳裏に残り。
だいぶ暗くなった頃、帰りの遅い娘を心配した陽子の母親伸子が探しに来るまで、佳苗はその場にへたり込んでいた。陽子はどこかと訊いてくる伸子に、彼女は何一つ答えることができなかったのだ。ガクガクと揺さぶられても、されるがままで。
――その台風で村にもたらされた死者は十一人。行方不明者は、一人だった。