プロローグ
名前も顔も知らない人たちばかりですけれど、『あなた』が生きていてくれて、本当に良かったと思っています。
山間に集まる家々を見下ろして、彼女は軽く首を傾げた。それは、こじんまりとした村だった。
「あの人は、こんな島国のこんな山奥で、何をしようというのかしら」
長い年月を彼を追いかけることに費やし、様々な国を訪れてきた。だが、その中でも、今回の場所は異質な気がする。
「さあ……あの方の考えておられることは、私ごときには量り兼ねます」
ぼんやりとした呟きに、傍に立つ青年が律儀に答える。限りない敬愛を込めた穏やかな眼差しを彼女に注ぎながら。
彼女は腕に抱えた革張りの書物の表紙を無意識に撫でた。それは、彼女の師であり、そして彼女に呪をかけた張本人である男から譲られたものだ。
そこに封じられているのは、七十二の強大な力を持ったものたち。
希代の魔術師になるだろうと将来を嘱望された彼女をもってしても、この書を受け取ったばかりの頃は、数体しか呼び出すことができなかった。だが、永い時を経た今は、全てが彼女の声に応えてくれるようになっている――それだけの年月を、彼を追うことに費やしてきたのだ。
いつもいつも、後一歩のところで追いつけない。
着いた時には本人の姿はなく、彼の尻拭いに奔走する破目になる。
だが、今回は。
その七十二の柱の一、全てを見通す偉大なる王子ヴァッサーゴは、確かにあの男がまだここにいると教えてくれた――その言葉に間違いはない筈だ。
「今度こそ、捕まえられるかしら」
そう呟いた彼女の長い髪が、風に泳ぐ。
彼女の盾になるように立ち位置を変えた青年は、優しげに微笑みながら、彼女を見下ろした。
「捕まえましょう、今度こそ」
答えながら、手を彼女の頬に伸ばす。
「――あなたが全てを失う前に」
彼女は温もりのない彼のその手に、そっと頬を押し付けた。