持たざる者 vol.2
「り……さん、かた……りさん、片桐さん!」
いつの間にか茫然自失していた片桐の肩を、海野は不安顔で優しく叩く。
その細やかでさり気ない気遣いに気が付き、片桐は不敵に微苦笑する。
「悪い、ぼーとしていた。ふっ。もしかして、心配させちまったか?」
「……いいから、早く帰ってください。あなたみたいに乱暴な人は一番嫌いなタイプなんです。どこか行ってください!」
全然心配されていなかった。
むしろ迷惑がられていた。
「ふざけんな! 少しは心配しやがれ!!」
人知れず泣いちゃうぞ!!
「できませんよ! ほとんど喋ったことがない人がいきなり無言になって、じぃーとこっちを凝視してくるんですよ。そんなの気持ち悪さと恐怖しか感じられませんよ!!」
くぅ、なんて感受性の乏しい女だ。俺がここまで人の心配をするなんてよっぽどだぞ。だけど、少し心が安らぐ。
いや、勘違いしないでほしいのだが、被虐体質だとかそういう意味じゃない。が、こういう風に罵倒されているとなんだか落ち着く。
工藤と宮崎は友達だが、あいつらの板挟みは正直辛い。こんな風に何の気兼ねなしに、自分の気持ちを素直に言い合える時間は、昔は当たり前だったけど、今となっては、希少価値が高くて、きっと尊いものだ。
けれど、今日はおとなしく退いた方が身のためだ。俺の巨大な器のでかさが理解できないとは、海野も少し、混乱というか……錯乱気味なようだしな。
「じゃあ――」
「海野さん。何をやっているの?」
開いていた第二美術室のドアの前に立っていたのは全く面識のない人物だったが、どうやらいきなりの登場ながらご立腹のようだ。
明らかに敵意の孕んだ視線。
俺のことなど眼中に入っていないのか、海野だけを憎々しげに睥睨している。闖入者は、瞳にかかった前髪を煩わし気に掻き上げる。
「すいません、有沢部長。その、」
「美術室に男を連れ込んで密会なんて、さすが海野さんね。ふん。貴女ほどの画力があれば、練習しなくてもいいものね。男遊びに興じるのも当たり前だわ。……海野さん、貴女には本当に尊敬の念を禁じ得ないわ」
「おい!」
俺は部外者で、美術部の事情に首を突っ込むのは筋が通っていないだろう。無知な俺がここで立ち上がっても、事態を混乱させるだけで、好転するなんて都合のいいことなんて生じるはずがない。
ただ、もしも、この状況になったのが、俺のせいだとしたら、黙って見ているのは我慢できねぇんだ。小利口にまとまった奴が、いつまでも腰を落ち着か焦る『理屈』なんてもんが、紙くず同然のように吹っ飛んじまうぐらいになあ。
おい、ひとつ言っておくが、この糞女が海野以上にむかつくから、条件反射的に反抗しちまった。……ってぇのが本当の理由じゃないぞ。俺は勿論、海野の為に吠えているんだぜ。
ギョロリ、と細いつり目の中の瞳が動く。有沢はそのまま、はぁ? と俺を莫迦にするよう嘲笑しながら、呆けるように口を少し開ける。
「――う、る、さ、い、わ、ね。貴方もどうせ、海野さんに誑かされ、利用されているただの駒の一つでしょ? あなたみたいな案山子は案山子らしく喋らず、思考せず、邪魔せずを精々貫きなさないな」
氷点下の視線に背筋が凍る。
有沢は片桐を、本当に案山子かなにかと視認している眼をしていた。澱んだ眼は、その辺の不良よりもよっぽど荒んでいた。
こいつ、ちょっとヤバい系じゃねぇのかよ。
片桐は早くも後悔の念を抱いていた。
たじろいでいた片桐の前にすっと、海野が庇う様に前出る。ちっ、余計な真似してんじゃねぇよ。
「有沢部長、片桐くんは案山子じゃありません」
海野は凜と、迷いを一切含まない声音で言い切った。
そんな海野に違和感。だから、今すぐ素直に喜ぶことはできなかった。こいつはずっと、俺を嫌ってたんじゃないのか? 何度も何度も俺を美術室から追い出そうとしてたじゃないか。
有沢に心無い言葉を浴びせられ、傷ついて、それでも真っ先に俺を庇うなんて、ぶっちゃけ俺は目を疑ったね。
そうやって、拳が白くなるまで強く握りしめ、奮起しなければ有沢に真っ向から立ち向かえないにも関わらず、いったい、どうして……? 本気でお前がどんな意図で突っ立ってるかわからねえ。
すぅーと、その場にある空気すべてを飲み込むかの如く、勢いよく吸い込んで、海野は、自分の心情とともに一気に解き放った。
「片桐くんは、馬鹿で、不良で、目つきが悪くて、無神経で、自意識過剰で、ナルシストな、ただの人間です!」
どうして海野が必死になって、声高に自分の意見を言おうとしたのか。……その答えは、もっと俺を貶める為だったよ。おいこら。
「ふっざけんな! 少しは見直したってぇーのに、勇気振り絞って出したのは、ただ悪口が言いたかっただけか、ああ?」
「あなたは黙っていてください、案山子!」
「ぶち殺す! 表に出ろ!」
やっぱり、こいつはただのムカつく女だ。工藤とは大違いだ。工藤は粗暴に見えて、誰よりも繊細で、他人の機微に聡くて、可愛くて格好いい、最高の女だからなああ。てめえとは全然違うぜ、バーカッ!!!
海野をどうやってボコそうかと頭の中で計画を練っていると、
「あははははははははは。貴方たち凄くお似合いよ。ほんと、さいっ――こうにね」
見た人間全てが底冷えしてしまいそうな、渇いた嗤い。
腕、そして背中まで鳥肌が立つ程の圧力を感じる。
有沢の顔は笑っていても、眼は全く笑っていない。
それを視認したのか、海野の上気していた頬が、一気に色をなくす。
「海野さん、貴女は当分ここに来なくていいわ。第二美術室は、貴女のようなビッチの盛り場じゃないのよ。ホテルまだまだしも、ここまで男を連れ込んだんだもの、出入り禁止は当然よね」
てめえ、その減らず口永遠に聞けなくしてやろうか。糞女がっ、と掴み掛ろうとするが、海野に腕を捕まれ、
「分かりました。しばらくは自宅で美術活動に専念します。それでは失礼します」
そのまま無理やり連行される。振りほどけるぐらい、涙が出そうなぐらいの腕力のなさ。
それでも有無を言わせない、確固たる意志を持った横顔に、俺は黙して追随するより選択肢が思い浮かばなかった。




