針の筵 vol.3
工藤は宮崎の言葉にうんうんと頷く。
「その通り。どうせ、こいつはラーメンしか食べねぇだろ。それに付き合って、毎日三食ラーメンなんて苦行、私には到底耐えらないわよ。無理無理。……私は絶対に自分を曲げない。私のアイデンティティは、ひたすら自分を貫き徹すってことなんだから」
きっと、それは二人とも信頼しているからこそ出た言葉だ。
俺にはそんな高尚なこと言えないし、今の俺には二人の距離が近そうで遠い。
いつも自信満々な二人とは違って、いつだって間違いを犯してばっかな俺は、自分を信じるなんてできない。
ましてや二人を心の底から信頼することなんてできない。
二人の関係は理想的なのかも知れないが、三人一緒となると話は別だ。
いつも三人仲良く、助け合って。いつでも笑顔で、死ぬまで一生一緒。
そんな戯言は小学生までが限界だ。
こんな張りぼての、欺瞞に満ちた関係なんて終わらせた方がいいって、心の底じゃあこいつらだって考えている筈だ。
俺も本当はそうあるべきだと思っている。
だが、そんなことできない。
それはきっと、二人とも同じだ。
誰だって自傷する事態に陥ったら、臆病者になる。
間違って作り上げてしまった虚構の絆を、断ち切る張本人にはなりたくないんだ。
そんな卑怯なことを考えている二人を、片桐は内心苛立たしく思っている。
「どうしたんだよ、片桐。顔色悪いぞ」
工藤の思案顔は、宮崎には向けられていない。今、俺だけを見ているって証拠だ。……なんて、醜い感情が湧き上がる。
期待するな。高望みするな。好きになるな。
こいつと友達である現状。それが今の俺には分相応なことだと、必死に自分に暗示をかける。
今のままで十分幸せじゃないか。
「……なんでもねぇよ。んなことより、海野香織って奴知ってるか? 美術部で――」
「知ってる」
突然真顔になったのは宮崎。いつも喜怒哀楽の『喜』の表情しか見せない宮崎にしては、珍しく能面。
なぜか空気がぴんと張りつめる。
片桐は動揺していた。
いつだって笑顔を絶やさない工藤が、片桐の真横で表情を硬くしたのも気づかないくらい、激しく狼狽していた。
「正直、いい話は聞かないね。というよりも僕は悪い話しか聞かないね、海野香織については。彼女は自分の才能をいつも他人にひけらかしていて、性格が最悪らしいよ。それに、容姿を最大限に利用して男からお金を騙し取るって噂まであるんだ。勿論、海野香織の黒い噂はそれだけじゃない。……だから、海野香織とは関わらない方が無難だよ、片桐くん」
そうなのか、あいつはそんな悪い奴だったのか。よし! これからは極力あの美術室には近づかないようにしよう! ……なんて納得できるわけがない。
こんなことを考えてる時点で俺は騙されているのかも知れないが、あいつはちゃんと芯のある女だった。
そんな風に思えた。
あんなに怒ったのだって、きっと自分の大切な物に触られたくなかったせいだ。
だけど、宮崎の意見に首を縦にふらない理由は、それだけじゃない。
今、宮崎は誰から聞いたかも分からないような噂で、海野香織という人間の人格を判断している。そんなものは間違っている。風評が真実ばかりではないことを、俺は身をもって知っているんだからな。
それに、もしも俺がそれを肯定してしまったなら、俺は、俺を取り囲んで罵詈雑言を吐く、あいつらと一緒になっちまう。
「そうでもねぇんじゃねのか?」
思わず出た言葉。
それは、正直好印象とは程遠い、くそむかつく女の庇護だった。俺がどんなに気を使っても、それを一ミリも感謝しない女。あいつの考えに異を唱えれば、即座に第二美術室に追い立てる女。
……なんだ……思い返せばいい所まるでなしだな。
はっ。それなのにどうして、俺はむきになってあいつの為に言い返さないといけねぇんだよ。
それに、よくよく冷静になって考えてみれば、たとえどれだけ宮崎の意見に賛同できなかったとしても、ああ、そうだな。……ていう感じで、適当に同調しているふりをすればよかったんじゃないのか。
宮崎と、そして工藤と友達でい続けるって決めた。
だったら今のは完全に失言だ。
さっさと自分の意見を撤回しろ。そしてわりぃ、って笑いながら頭を下げれば、また普通の、いつも通りの空気に戻る。
――けれど、俺の口からは何も出なかった。
無言で宮崎と片桐が向かい合っていたが、見るに見かねた工藤がパン、と両手を合わせる。驚いた二人は工藤に注目する。
「へー、片桐が女のこと話すなんて珍しいって思ったけど、もしかして、その海野って女に惚れたのかい?」
真剣な眼差しで工藤に見られる。
こいつが喋っているときのポジショニングの位置は、いつも半径二十センチ以内だから困る。接近した工藤の瞳に、俺の赤面した顔が写る。
乗り出してきた工藤の膝に、ぶつかりそうだった食いかけの弁当を横にどかす。そして、腕を目の高さまで上げて、赤らまった顔を隠す。
馬鹿か俺は。これだけ接近できるってことは、工藤が俺を異性として全く意識していない、何より証拠だっていうのに反応してんじゃねーよ。
「んなわけねーだろ。ちょっと喋ったから、どんな奴なのか聞いただけだよ」
しっ、しっ、と蠅を払うように手首を動かす。
なんだよー、と工藤は頬を膨らませながら、元のポジションに戻っていく姿を見てほっとする。
どうやら真っ赤にしてしまった顔面は、工藤に気が付かれなかったらしい。
「……ふーん。つまんねーの。まっ、何か恋の相談があったら片桐の大親友である、この工藤夏樹様が直々に相談に乗ってあげるよ!! 女心だったら私がばっちり教えてあげられるしね」
ドサクサに紛れて自販機で購入した黒ゴマ豆乳バナナジュース。その紙パックにぶっ刺したストローを咥えながらにっ、と口角をちょいと上げる様は男らしく、女らしい艶やかな唇を意識してどきり、としてしまう。
そんな工藤を、お邪魔虫のような扱い方で、宮崎が腕で押しのける。
「恋愛相談ならぼくにするといいよ。戸籍上でしか女と認められていない工藤なんかより、よっぽど僕の方が女心に精通している。それに、男である僕の方が片桐の気持ちを汲み取りながらアドバイスできるから、僕の方が適任であることは、わざわざ確認するまでもないと思うんだけどな」
「な・ん・だ・とぉー! 私だって好きな奴の前では女ぶろうと努力してるんだぞぉ!」
「無駄な努力ほど空しいものはないと思うよ。なんたって相手は天性の――」
片桐大助は工藤夏樹が好きだ。
こんな風に場の雰囲気が悪くなったらおどけて、あっという間にみんなを笑わせる。だからこそクラスの人気者で、だからこそ、俺はみんなとは違う意味でこいつを好きになった。
工藤と、宮崎はデコボコな関係だけど、相互の足りない所を補いながら楽しく付き合っていて、どこか俺が見えない根っこの部分で通じ合っている。
二人はとてもお似合いのカップルで、それと同時に俺の友達だ。
だから、この関係を崩したくない。恋愛相談をしろだって? お前ら二人だけには死んでもできっこない。
好きになった女と、その女が好きな男に板挟みにされた、俺の辛さを理解できる人間なんて……きっとこの世のどこにもいない。




