第二美術室の妖精 vol.1
片桐泰助は逃げていた。
私立中学の渡り廊下。
梅雨のこの季節は、雨でグラウンドが使用できない日が多い。しかも、今年は記録的な雨天続き。ここのところ毎日のように、廊下は運動部に占拠されている。
その筆頭は野球部どもだ。部活動練習は、他校の三倍にも関わらず、万年一回戦敗退。そんな報われない野球部員が、三十名程廊下にずらり。
弱小チームで有名な野球部には、女子マネージャーは皆無。過酷な練習に耐えられなくなった奴が、男子マネージャーとなり、レモンの蜂蜜漬けを作る羽目になる。自業自得とはいえ、気の毒だ。同情してやってもいい。
腹筋やら、腕立て伏せなどの筋トレのせいで、男達のユニフォームは汗びっしょり。成長期である野郎共の体臭は、凶器と化し、雨が入ってこないように閉められた窓は、死の密閉空間を作り出す。
むさ苦しい男共が、仲良く筋トレをやっていると、どうもホモくさく見えてしまう。そんなに仲良しなら、いっそ雨の中走れ! そして、願わくは二度と帰って来て欲しくない。そんな気持ちになるのは、仕方のないことだ。
ただでさえこう、雨続きで廊下がジメジメしているのに、こうもむさ苦しい坊主集団が集まっていると、さらに陰気な気分になる。
キュ、キュと靴の音が響く。耳にした野球部の面子の視線は、自然と走ってくる人間へと集まる。
「邪魔だ、どけ」
片桐の低くドスの利いた声で、野球部の人垣は小さな悲鳴をあげながら、二つに分裂する。一斉に、坊主姿の奴等が、蜘蛛の子を散らすように、廊下の左右の隅にたじろぐ様は、見ていて気分が悪くなる。
片桐の眼光は、対象に畏怖の念を抱かせる。それは、強健な身体を持つ、野球部とて例外ではない。まるで、野生のチーターを彷彿させるような三白眼。
そんな凶暴な肉食動物を狩ろうとしているのは、狩野沙耶。
表の顔は片桐の担任でありながら、生徒の人気が高い美人数学教諭。裏の顔は、不可視の耳栓を常時使用している……冷酷な狩人。
ハンター曰く、片桐くんは不良! 私が更生させなくちゃ、将来は腐ったみかんに、ヤクザになってしまうわ。さぁ、今日も道徳とは、人間とは何かを説いてあげなくちゃ。遠慮しないでいいのよ、これも先生としての努め。そう、これは運命で決まっていることで、二人の出会いは宿命。どうしたの? そっちは職員室じゃないわよ! ちょっと、待ちなさい! 片桐くん、これ貴方の為なのよ! ちょ、逃げないで!
――そして、標的を前にし、目を輝かす狩人と、哀れで、虚ろ目の獣との、追いかけっこの火蓋は切られた。
片桐を、執拗に追いかけることに生き甲斐を感じ、狂喜乱舞のハンター。奴の辞書に諦めの文字はない。他人の話を聞くという、人間として当たり前の概念を知らない。
俺の自己防衛限定の暴力を、ハンターは嬉々として、眼の敵にしている。
言っておくが、俺は断じて、自分から好き好んで他人を殴ったことは無い。全て正当防衛以上、過剰防衛未満だ。
てめぇ、ムカつくんだよ。調子乗ってんじゃねぇぞ! 中坊がぁ! なにガンつけてんだよ。お前、俺の後輩をずいぶん可愛がってくれたらしいな、だとかお決まりの難癖を、その辺の高校の不良につけられ、つい、殴っちまう。
先週なんて、不良に恐喝されそうだったサラリーマンを助けやったっていう、大義名分だってある。学校から表彰されてもいいぐらいだ。その俺が、どうしてこんな目に合わないといけないんだ。
無抵抗主義や、非暴力なんて大層な考えは、現実には適応されない。そんな理想論をいくら叫んだところで、ああいう輩――不良ども――の勢いを助長するだけで、事態は悪化するだけだ。
視野の広く、深く物事を考えている俺は、自分自身に尊敬の念を抱いている。なんて凄いんだ、俺。
それなのに、学校の連中からは不良のレッテルを貼られている。全く、とんだ勘違いだ。そんな可愛そうな俺には、友人が二人だけしかいない。
そして、俺を稀代の超不良! これは教育し甲斐があるわね。と、狩野沙耶は激しく勘違いしている。奴は教師という名目で、俺を捕食しようとしている。
俺という不良を糧に、奴は、あの肌つるつるの美貌を保っているといっても過言じゃない。俺を説教することで、日頃のストレスを発散しているのは見え見えだ。誰でもいいから助けて欲しい。
だが、こんな時に限って、友人二人の助けは望み薄だろう。工藤は部活動。宮崎は県立図書館に、本を返却しに行っていて、俺は孤立無援。かたや相手は、最新鋭の追尾システムを装備している最強の敵。ターミネーターのような執拗さで、追い詰めてくる。絶望とはこのことだ。
新任の数学教師であるわが担任は、初めて受け持つクラスということで、ただでさえ気合が入っている。さらに運が悪い事に、お嬢様育ちのハンターは俺みたいなタイプの人間は物珍しいらしい。
照準は完全に俺をロックオン! だが、いくら相手が猪突猛進のイノシシであろうと、あくまで相手は人間。話せば分かる。そう信じていた時期が、俺にもあった。
何度この茶髪は地毛です。眼が細く、傍からドスを効かせているように見えるのは、視力が低いからです。眉毛が薄いのは生まれつきです。と、声高々に主張しても、ハンターの耳には届かない。何度言っても、信じてもらえない。どんな ネゴシエーションも、奴には通用しない。
それどころか、どうしてそんな嘘をつくの? はっ、番長に命令されているのね。片桐くんは見た目や雰囲気からして、一匹狼かと思っていたけど、まだ上がいるのね。そして、仲間を辞めるときは、お決まりの集団リンチ。大丈夫よ、 片桐くん。私がついているわ。といった始末だ。
全力で俺は、やつに心療内科・精神科をお勧めしよう。なんならこの学校の保健室横の、カウンセラー室の先生にでも相談すればいい。きっと、親身になって話を聞いてくれるだろう。引き攣った笑みとともに。
奴が、なんのドラマに影響されたのかは知らないが、とんでもなくありがた迷惑だ。
「片桐くーん、どこにいるのー! 私はここよー! 怒ってないから出てきなさーい!」
片桐は思わず噎せ返る。
うげぇ、俺はどこの小学生だ。教室から逃げ出した子を、憐れむような声音で呼ぶのは、やめて欲しい。背格好に似合わないランドセルは、三か月も前に、どこか押入れにでも仕舞ったはずだ。
このままじゃ、恥ずかしくて悶え死にそうだ。足では敵わないと判断したハンターは、臨機応変に精神攻撃にシフトしやがった。さすがは大人。ド汚い手を、その場に応じた最高の一手を、即座に思いつき、平然と実践してきやがる。
いや、それだけじゃねえな。
入学したばかりで、あまり馴染みのない東棟に、片桐は逃げ込む。
職員室がある東棟では、地の利は完全にあっちがある。ただ追いかけているだけと見せかけて、ここに誘導されていたことに気付いたが、もう手遅れだ。
くそっ。このままじゃジリ貧だ。追いつかれる。
廊下を歩いていた上級生らしき女生徒は、片桐の顔に見覚えがあるのか、ちらちらこちらを見てくる。気分を害した片桐の一瞥に、女生徒はすぐに視線を逸らす。そんな八当たりをしても、今の危機的状況を打破できるわけじゃない。それでも我慢できなかった己に、腹が立つ。
うわっ、とハンターの驚いた声が後ろから聞こえてくる。
「なっ、狩野先生あなたは大声で一体何を……?」
「あぁ、きょーとぉーせんせぇー聞いてくださーい。また片桐くんが逃げたんですぅー。どうにかしてくださーい」
「どうにかするのはあなたです! 一人の生徒に固執することは危険です。そんなことでは教師失格ですよ。一流の教師ならば、生徒全員区別する事無く、平等に接しなければいけませんよ」
よし、よく言った教頭。普段はガミガミ口うるさくて面倒臭い独身教師だが、こんな時は頼りになる。
ババァ、誇りに思え。お前は教師の鑑だ。
「そんな聞き飽きた正論よりも、もっと大事なことがあるんです! ええ! 私には、今やらなければならないことがあるんです! それじゃあ、これで失礼します!」
「なっ……何を言っているのですか! 狩野先生待ちなさい! まだ話は終わっていませんよ!」
正論を感情論で混ぜ返すな。正論には正当な理論。つまりは正論で返せ。子どもかあいつは!
同情するよ、教頭先生。あんな教師をこれからも指導しないといけないなんてな……。これ以上、眉間の皺が増えないように祈っとくぜ。
同じような境遇にいる教頭を同情している間にも、確実にとハンターの足音が近づく。
やっべえ。教頭の将来を心配している暇なんてなかった。大人になってまで、あんな怒られ方をしている人間にだけには、絶対に説教されたくない。
片桐は息を切らしながら、廊下で急遽方向転換。どんな部屋かも、ろくに確認もせずに、近くの教室へと逃げ込む。
周囲に反響しないように、扉をそっと閉じ、敵の足音が遠ざかるまで息を潜める。
そして。
完全に足音が聞こえなくなる。
片桐は安堵しながらその部屋を見渡すと、普段見ない情景にたじろいだ。目に入ったのは、ずらりと横並びに飾られている絵画。どれもこれも素人目から見れば、一目で上手だと分かる。俺にはこんな大層な代物、一生描けるとは思えない。
第二美術室。
確か、第一美術室が、普段授業で使用している教室。そして、第二美術室は、美術部の活動場所だった筈だ。美術室で、授業が行われる時は、無心のまま工藤と宮崎の後ろについて行くだけだから、あんまり自分の記憶に自信がないが、確かそうだったはずだ。
宮崎が言っていた気がするが、美術部の活動は基本的に自由。昼休みでも、放課後でも、美術部員が暇を見つけたときに活動。そんないい加減な規則だから、美術部はあまり活動的とはいえず、部員は数えるぐらいしかいない。
全く興味を持っていなかった片桐が、第二美術室に足を運んだのは、いや、逃げ込んだのは初めてだった。
静寂に包まれるその空間。降っていた雨は、既に止んでいた。見渡すと、長机と椅子の近くの窓が半開き。カーテンやサッシ、長机はびしょ濡れになっていた。
カーテンの隙間から、夕日の光線が差し込む。穏やかな色である橙色は、キラキラ光っている
雨の晴れた直後は、雲の間から零れる光が、神々しく見えるのは不思議だ。その暑い日差しは、横並びに飾られている絵画の中の、一つだけに当てられ、あたかもスポットライトのようだった。
光の当っている絵画は、神秘的で、幻想的な雰囲気。
例えそれが、偶発的な事象から起因した現象であっても、片桐は目を奪われた。
冬の侘しい波打ち際。人っ子一人居ないその海は、人間の感情のように、黒や白や群青色が渦巻いている。跳ねた波は、その瞬間を、写真で撮ったのかのようにリアルで躍動的。砂浜の砂は一粒、一粒が、繊細に描かれていて、光の粒子のようだ。
描かれているのは、どこかの海と砂浜。たったそれだけなのにもかかわらず、身震いすらしてしまう。この圧倒的存在感に、畏怖の念を抱く。他の絵画のことなど、路傍の石程度の関心も持てない。
絵画に吸い込まれるように、右手が勝手に動く。その時、絵画のすぐ下の白いネームプレートに気付く。綺麗で丸っこい、恐らくは女の字で書かれたその名前に見覚えはない。だが、この絵の画家の名前はしっかりと脳裏に刻まれた。
「触らないで下さい!」
びくり、と肩が上がる。
人の気配がなかったので、完全に油断していた。追っ手にもう、追いつかれたのか?
片桐は、女の微かに震えた声に振り返ると、更に驚愕が追加される。




