水のかばね
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
我々も、あと100年もしたら誰もいなくなっちゃうんだねえ。
いや、諸行無常というか、なんかこう哲学したくなる心境になるときってないかい? ふとした拍子にさ。
いっぱいあるものが、いよいよ底をついてしまうとき、否が応でも限界を考えさせられる。我々の命に関しても同じだが、順当にけりがつくとも限らないんだよねえ。なにせ底が見えないうちにぶちまけられて、終わっちゃうことだってままあるわけだ。
いつ生きてもいい覚悟もいるが、いつ死んでもいい覚悟もいる。そのときそのときで、やり残したことはないか、私たちはいつも振り返っていかないと悔いが残るかもな。
いかに世界に求められても、嫌だ嫌だと抗いたくなるのもまた、命のありかた。
ひょっとすると、私たちのまわりにも駄々っ子というのはいるのかもしれないねえ。
少し前に聞いた話なんだが、耳に入れてみないかい?
友達が話してくれたことになる。
友達は以前に「水のかばね」を見つけたことがあると話してくれた。
かばねといったら屍のことで、水がいよいよなくなる時に残す死体のことだという。
知っての通り、水はしょっちゅう姿を変えていく。蒸発、蒸散で気体となり、やがては空の上で雲を作り、雨や雪を地上へ降らせるだろう。一部はダイレクトに川へ落ち込むだろうが、地面などに落ち込んで地下水となり、タイムラグを産みながらやがては海へ飲み込まれていくはずだ。
そうした循環を持つ水でも、人口的な取水をされ続けるとやっかいらしく、一説によると数億年後には地球上から水がなくなるのでは、とのこと。我々が生きて目にすることはないが、これもまた物事の終わりを感じさせるな。
そのひとつの水の終わり。
友達が見たのは小学生のときだったという。
雨上がりの午後、学校からの帰り道に横たわるショートカットのあぜ道を通る際に、それを見かけた。
午前中、しとどに降った雨によってたっぷりと水を含まされた土たち。あるところは泥と化し、あるところは水を受け入れかねて表面に水たまりを設けることになる。
晴れの日にはめったに見られない光景かつ遊び道具。相応の準備ができた子供たちにとっては人気の的であるものの、その熱狂にも限りがある。
各々の持つ時間もそうだし、水たまりの量もそうだ。途中で底をついたなら価値を失い、たちまち子供たちは離れていくことになろう。友達が出会ったのも、そうした数ある中の、役目を終えたひとつのくぼみに過ぎなかったはずなのだが。
おおよそ、道幅いっぱいの楕円形に広がる水たまりあと。ラグビーボールよりひとまわり大きいかと思われたそのくぼ地の真ん中に、泥の色と同化しかけた茶色の体で横たわるものがある。
最初、友達はぶっとい切り干し大根のように思えた、と話していたよ。縮れた細身が一本、絞った雑巾のようにノビている。
しかし雑巾とも切り干し大根とも違うのは、そいつがときどき、体を小さく跳ねさせること。さらにそのたび、体全体から水がしみ出していくということだった。
釣り上げた魚に似た動作ではあっても、必死に暴れまわるという印象ではない。とぎれとぎれで、思い出したかのようによちよちと跳ぶ。しかしそれが着地するたび、数メートル離れた友達の耳にも届くほど、水がしみ出てにじむ音がするんだ。
――こいつ、水のかばねのなりかけだ。
友達は親から聞いたことを思い出していた。
水はずっと液体のまま地上に出てはいられず、やがて空に、土にとけていく。それが自然のことわり。
でも、何事にも例外はあるもので、もはや地上にいるべきでないのに、みっともなくすがりついて、空にも地面の中にも行きたくないと駄々をこねる存在もある。そいつが見せるとされる姿が、いま目の前で切り干し大根もどきがしてみせている仕草にうり二つなわけなのだ。
わがままは長くは続かない。やがてそいつは力を使い果たし、おのずと本物のかばねとなるだろう。それは自然の成り行きなのだから、こちらも見かけることあれば、いたずらに手をくわえずにそっと流してやるのが情である、と。
友達もそう思い出しながら、水たまりあとをさっと飛び越して、例のかばねのなりかけをスルーしていったのだけど。
すぐ背後から、聞きなれた鳥の声がする。カラスのものだ。
振り返ったときには、すでに黒い羽を閉じ合わせながら、カラスが地面へ降り立っているところだった。
例の水たまりあとの真ん中。あの水のかばねのなりかけのすぐ手前の土の上。
友達が止める間もなく、カラスはちょうどぴょいと跳ねた、水のかばねをくちばしにくわえこんでしまったんだ。
とたん、友達の目の前を覆いつくすほどの大量の水が、どっと押し寄せてきた。
過去に一度、川へおぼれかけたときに似ている。ぶつかってきた大量の水は、たちまち友達の体を飲み込むや、足もつかないほどに浮き上がらせて、どんどんと後方へ押し流していったんだ。
むやみに立ちに近い姿勢で顔を出そうと暴れると、かえって勢いのついた波が顔面を覆い、呼吸の邪魔しにかかってくる。
ならば、と友達は思いきりのけぞり、背泳ぎする体勢で水に背中を預けた。
もう、とことんまで流されてやれ、と思ったらしい。本来ならばあおむけのままで進むべきでない道の上、目印のない空の下をぐんぐんと友達は滑っていき……数十メートルは先にあるあぜ道の果てで、ようやく地面に着く感触があったらしい。
先ほどまでは、ほぼ半ばほどの水位だった田んぼたちが、ふちギリギリまで水をたたえているとなれば、相当な量の水が押し寄せたと見えた。
あぜ道は冠水にもほどがあり、背中が着くとはいえ、いざ立ってみると足首あたりまで余裕で沈むほどの水位があった。
目をこらすも、先ほどのカラスも水のかばねもあそこにはいないように思えた。
このもたらされた大量の水は、話に聞いていた範疇だ。かばねの身がほぐされるとき、駄々をこねていたものが鉄砲水もかくやの勢いで飛び出し、四方へ広がっていく。ただ水がもとの循環へ戻るだけのこと。
けれども、かばねにちょっかいを出したものは、循環に付き添うものとなり、いずこかへさらわれて行方が分からなくなってしまうそうな。