幕間 同室の2人
「今日やったのは、木剣での素振り300回、腕立て伏せ100回、屈伸運動200回……」
「おお……ヤナのやつ、初日からだいぶ張り切ったな……」
就寝前、食堂にクチルとイヴァンだけ残り、パトリックと一緒に今日の復習をしていた。イヴァンは貴族の子供だからか文字が書けるらしく、パトリックに用意してもらった紙に今日やったことを書いている。クチルはその様子を隣で見ていた。
「僕はまだ権現が出せていないから、そこからだった。そのあと、腕立て伏せ100回と、反復横跳び150回……」
(その数……パトリックおじさんもかなりしごいてるのような……?)
「あとは……なんだっけ……」
「あとは盾の構えの練習だな」
「あ、そうだった」
11歳とは思えぬ美しい書体で記録をつけるイヴァンに、クチルはまためらりと羨望の炎が心のなかに沸き立ったのがわかった。恵まれたイヴァンと、何にも恵まれなかった自分。もし継ぎ手に選ばれなかったら、一生人生は交わらなかっただろう2人。
(僕がイヴァンに勝てることって、何かあるのかな。権現は僕のほうが先に出した。だけど、イヴァンの権現のほうが強かったら、負けな気がする)
「クチルも、文字を習うか? 読み書きができれば、世界も広がるぞ」
「……うん、習ってみたい」
「そうか。そりゃいい。将来の仕事にもつながるからな」
「将来の仕事……?」
クチルは首を傾げた。今、こうして継ぎ手の予備生として人生の第一歩を踏み出したばかりなのに、さらにその将来のことなど考えたこともない。
「そうだ。継ぎ手は16歳の誕生日で引退だからな。引退したら、基本的にみんな別の仕事につくんだ」
「へぇ~」
「首都でそのまま騎士になったり、あとは継ぎ手が戦った後の逆徒を始末して記録する処理班もある。そういう官吏になったり、珍しいやつだとそのまま総裁の食事を作る料理人になったやつもいたな」
「官吏……?」
「ああ。国の行政を担う仕事だな。継ぎ手たちの戦いの記録を毎回残してくれる記録官もそうだし、近隣諸国の動向を探る諜報官なんかもいる」
「継ぎ手になると、これまでの地位や立場関係なく、総裁直下の騎士団所属になるからね。引退後も、その貢献を認めてある程度の地位を残してくれるんだ」
パトリックの説明に、貴族らしい説明をつけてくれるイヴァン。
「官吏になるときには特に、文字を書く能力は役に立つぞ」
「官吏かぁ……そんなこと、僕にできるのかな……?」
文字すら読み書きできない自分には、縁遠い仕事のようにも思える。
「……レフカの創国記が、読めるならなんでもいいや」
今はまだ将来まで考える余裕などない。とにかく1日でも早く継ぎ手として成長したいと願うだけだった。
その後、2人は就寝のため自室へと向かった。といっても、2人は同室なので向かう先は同じである。
「ねぇクチル」
「うん?」
「さっき、レフカの創国記の話をしてたでしょ。好き……なの?」
「うん、好き」
「本当!? 僕も好きなの! 1番好きな本だよ! 気が合いそう!」
イヴァンは年齢相応の笑顔を見せた。嬉しそうに体も弾んでいる。これだけしごかれても浮かれた気分になれるのは、やはり戦具の力なのだろう。怪我も疲労感も癒やしてくれる効能があるという。
「どこが好き? 僕はね、レフカが命の坩堝を開いた時かな」
「それすごく最初でしょ?」
「そう。レフカの手で、この世界にたくさんの命が降り立ったんだ。すごく印象的な場面だと思わない?」
「僕はレフカが神たちと力比べをするところが好き。やっぱりレフカって強いんだ、って」
「あそこもいいよね! 本で読んだ時、夜まで眠れなかったなぁ。ずっと頭の中でその情景が浮かんで……」
イヴァンは目を閉じて、今も同じようにその情景を反芻しているようだった。
「僕たち、想像しているのは同じ景色かな?」
クチルの祖母は、クチルに聞かせるときに何度も「ここは私の記憶と違うわ」と言った。古くから伝わる神話のたぐいは、口伝で伝わってきた期間が長いため、明確な情景描写はほとんどないという。あるのは誰がどうした、ということだけ。あとは本の著者による装飾のようなものだと祖母は語っていた。
だからおそらく、イヴァンが思い描いている世界と、クチルの中の世界は異なるのだろう。しかしそれをここで言うのは違う気がする。
「ねぇ、イヴァン」
「なに?」
「僕に文字を教えてくれない? イヴァンが読んでた本、僕も読んでみたくなった」
クチルがそう言うと、イヴァンは驚きに目を見開き、すぐに満面の笑みになった。
「もちろん! 僕もパトリックおじさんと同じで、手加減はしないからね!」
「やっぱり、手加減してなかったんだ……」
「ヤナ張り切ったな、って言ってたけど、おじさんも相当だったんだから!」
2人して笑い合う。クチルは自分がイヴァンに対して今日妬みや醜い気持ちを抱いたことを後悔した。
(これから、仲良くできたらいいな)
そう思いながら部屋のドアを開けると、そこには一台のテーブルと一台のベッド。
「……」
「……」
(もしかして、ベッドも1つ……!?)
「あはは、これならすぐに仲良くなれそうだね」
部屋が1つしか用意できていなかったということは、同様に寝具も1つしかないということだ。困り笑顔を浮かべるイヴァンと、戸惑うクチル。
「大丈夫。僕はよく兄さんと一緒に寝てたから、窮屈なのには慣れてるし」
「そういう問題なの……?」
幸いイヴァンもクチルも小柄であったことから、体がベッドからはみ出ることはなかったという。