猫と哲学する
「ねえねえユウイくん」
後ろの席の猫が猫撫で声を出すときは必ず何か企みがある。そのたびに俺は智の限りを尽くしてこの女子の満足のために応えなくてはならない。そういう約束があるわけでもないのだが、言わば意地のようなもんである。
「人と人とは、わかり合えると思う?」
ああ今回はまた哲学的なところに躊躇なく踏み込んできたなと。最近この可愛くて捻くれた女子高生の傾げた小首に色んな意味でドキドキさせられる頻度が増してきたような気もするが、それはただの気のせいだろう。
しかし何でいきなりそんなことを聞いてくるかね。
思うに彼女は哲学的な命題を考察したいわけでなく、俺をからかってどういう反応をするかを見たいだけなのだ。相手の思う壺をいちいち買ってやるのも業腹ではあるけれど、この会話がなんだかムズムズと面白かったりするのでなかなか強硬には突っぱねがたい。
「まあ、言葉を尽くせば、ほとんどの人とはわかり合えるだろう」
一体何を言わんとしているのか。意図が読めないので、当たり障りのないことをとりあえず言ってみる。だがこのとき俺は、言葉を尽くしたところでけっしてわかり合えない人物――安藤亜唯、つまり姉のことが一瞬脳裏に浮かんでしまったのである。だから『ほとんどの』なんて余計な修飾をつい付けて返してしまった。
彼女は俺の動揺を見逃さなかった。すぐさま反駁するように、
「言葉では決して伝わらないことも、あるよね」
「そりゃあるだろうな」
「ふうん」したり顔でぺろりと舌を出す猫。「矛盾だよね」
「まあそうだな」俺は目を細めて同意する。「でも、わかり合おうとする行為自体が大切なんじゃねえの? いやべつに道徳を説きたいわけじゃないけどね、そういう行為を行おうという意識があれば何とかなるというか、浮かぶ瀬もあれというか……」
全く頓珍漢なことを言っている俺。
俺の混乱をみてにこにこと嬉しそうな表情をする猫。
この時点で俺の頭はオーバーヒート気味である。自分でも何を言っているのかハッキリわからないながら、一応は理屈になっているよな、と反芻、確認する。
すると彼女は思わぬツッコミに出てきた。
「行為を行う、っていうのは頭痛が痛いっていうのと一緒だね」
「……あ、そうだな」
やはりこの女、哲学的な命題などどうでも良かった。
そう言えばかつて彼女はこういう会話に興じることに全身全霊をかけているとのたもうたのだ。こんなグダグダな会話のいったい何が楽しいのかは解らないけれど、そういう時期ってあるよねと遙かなる高みから彼女を微笑ましく見守ってやる余裕が俺にあればと思わずにはいられない。いや実際そんな余裕は俺にはなかった。それにそんな余裕ぶった態度をもし同級生の女子に対してふりかざす男子高校生が実際にいたとしたら、気持ち悪いどころの話ではない。海千山千の中年親父ならともかく、俺はこの少女の言葉に翻弄され、おろおろするのが分相応というものだ。なけなしの格好をつけたところで何にもなりはしない……。
いま一瞬だけ四十歳くらい歳をとっていたような気もするが、あえて何もなかったことにして同級生を見ると、彼女は俺の言葉を待つように十五度ほど首を傾げて、
「ねえ今度公園に連れてって」
という。
「こ、公園? どこの?」
「どこでもいいよ」
ということは目当ての公園があるわけではなく、『連れてって』のほうが主たる目的なのだろう。
ああまた俺は妙なムズムズを感じなくてはならない。
たぶんどこかで、この気持ちを精算しなければいけないときがくるのだろうな。
しかし何で『公園』なのか。映画とか水族館とか遊園地とかならまだ理解できるが、あえて公園と言うからには何か特別な公園を思い描いているのかもしれない。それを当ててみろというのが今回の課題なのかしらんとじーっと見つめれば、
「ふふ」
とかまた小首を傾げて、今度は二十度ほど。
「何で公園?」
聞いてみると答えはまたも、
「ふふ」
だった。