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YUI  作者: 相楽 二裕
Season1
1/76

俺の名は

「ゆいちゃん」と姉は俺の名を呼ぶ。

「名前で呼ぶなっつったろ」と俺はすかさずヘッドロックをかける。

「ちちちちちょっと待ったゆい……」

「あン?」

「ぼぼぼ暴力反対」


 たっぷり三十秒ほどその姿勢を保ったあと、そろそろ許してやるかと力をゆるめると、

「けっへへへー」姉は笑い、俺の腹に一発。

「ぐふっ……」俺はその場に崩れ落ちた。


「ごめんて」

「い……痛かった」

「だからごめんて」

 俺は蹲ったまま痛みに堪える。

「……」

「大丈夫?」


 さすがに心配になったのか、姉が覗き込んでくるのをすかさずとっつかまえて体を入れ替え、羽交い締めにする。


「うっへへへー」

「あっこら騙したなっ。放せ、放せったらー」


 そこへ母がやってきて、

「お前らまたいちゃついてんのか。飯だっつったろーが」

 姉と俺の頭を続けてごんごんと殴った。

「はーい……」

 俺はするりと姉を放した。



 俺の名前は安藤優威(ゆい)。俺はこの名の響きが気に入らない。折角親にもらった名前ではあるけれど、女の子みたいな名のせいで周囲からどれだけ揶揄されてきたか、安易に名付けた親は知る由もあるまい。


 せめて家族にはそのコンプレックスを刺戟しないよう願いたい。なのに承知で『ゆいちゃん』とか呼んでくるようなやつには容赦ない鉄槌を下してやるのがよかろう。


 もっとも俺とて本心から姉を痛めつけたいわけではないし、この名を俺につけたのは母なので、あまり真剣に嫌がっているところを見せるのも悪い気がして一応じゃれつつもさりげなく主張する程度にとどめている。


 母はなにゆえ男子の俺にこんな名をつけたのか。それは俺よりも一年前にこの世に生を受けた姉が先に亜唯あいと命名されたことに起因している。三姉妹の女の子が欲しかったという両親はそのエア三姉妹にあい、まい、みい、(漢字は未定)などとフザケた名をつけて妄想をくりかえしていたらしいのだ。


 すると次に生まれてきた俺が男子だったので、計画は呆気なくも潰え去る。いくらなんでも男に『まい』やら『みい』はないだろうと母がひねり出したのが『ゆい』だったというわけである。母の中では字面が男の子っぽければ全然セーフだったようなのだが、記名にあたりそのほとんどがひらがな(・・・・)を用いてなされる小学校時代において、それがどんな状況を引き起こしたのかは言うまでもない。やっと自我の芽生えたお年ごろの男の子がお習字につけテストの記名につけ『あんどうゆい』と自分の名を書かねばならぬ気恥ずかしさ、クラスの反応はいかばかりか、それはもうお察し頂きたい。


 両親の目論見によればおそらく妹の『まい』も『みい』も続々と誕生する手筈だったのかもしれない。しかし計画は父の早逝によって残念ながら実現には至らなかった。


 そんな俺にも転換点ターニングポイントがあった。それは高校に入る少し前のこと。さすがに高校生ともなると知恵もついて、俺はこの問題に対するスーパー回避策を思いついてしまったのだ。それは『う』の発見である。優威という字面は『ユウイ』とも読めるではないか。デビッドボウイみたいでちょっとカッコよくね? と俺は気づいてしまった。試しに自己紹介で自分を「アンドーユーイです!」と発音することにしたら、つねにつきまとっていた女子からの冷やかな『ゆいだってーなにー女の子みたいー』という囁き声がピタリとしなくなった摩訶不思議。それどころか男友達からは「お前の名前ってカッコいいな!」とまで言われまさにユウイに立つ気持ち良さ。いやこれはいきなりのステータスアップだった。ありがとう『う』。


 長かった暗黒時代は高校に入ってようやく落ち着きを見せたところだ。しかしそれまでが長かった。その間に形成された俺のトラウマは相当なものに育まれてしまったのだ。



 俺は夕食の席でカレーライスをせっせと口に運びつつ、目の前の母に視線をやる。

 若い──と感じる。

 友人たちの母親の他の誰よりも、俺の母は若く、そして美しい。


 母が若づくりなのはひとえに彼女の性格に起因するところであろう。俺が九歳のときに長年不治の病と闘病していた父、真摯まさしがとうとう逝ってしまった不幸と重圧を抱えながらも、明るく屈託のない態度でいるためには本人の密かな努力もあるのだろう。俺たちはそんな母の姿を見て、自分たちもそうあらねばと思っている。


「月子さん」


 俺と姉は母をそう呼ぶ。おかあさんとか呼ばれるといきなり老けてしまいそうだからよしてくれという本人の希望によるものだ。呼ばれ方がメンタルに大きく影響を及ぼすことをよく知っている俺だからこそ、それはよく理解できる。それに彼女は実際まだ若いのだ。いずれ再び良縁を見つけて幸福になってくれたらいいのにと思う。そのためにも母には所帯じみて欲しくはないというのが俺と姉の合致した見解だ。


「ん?」

「こんどの土日、俺、友達とキャンプに行くから。泊まりがけで」


 味噌汁をすすりながら言う。

 カレーにまったく合わない、わかめの味噌汁をすすりながら。


「なん……だと……!?」


 白目を剥いてスプーンをちゃりーんと取り落とす母、月子。


 見れば姉、亜唯も同様に全く同じポーズでこの世の終わりを聞いたような驚きを表現している。


「なんで二人が同じ顔をしてるんだ」

「ついに……ついになのか?」

「なにが?」

「つ……月子さん……」

「うんうん、亜唯ちゃん……」

「どどどどうしよう」

 二人は手を取り合っておろおろし始める。

「ふたりとも何をそんなに動揺している……」


「か、彼女とお泊まりなのね!? そうなのね!?」



 何を勘違いしているのだこの母娘は。


「せせ先方の親御さんにも一応話をしておいたほうがいいよな。親として」

「うん。そうしな、そうしな」


 月子さんが心なしかじっとりした目つきになって、

「あの……さ」

 何かを言いだしあぐねている。

「な、何だよ」

「てゆうかさあ。いきなりお泊まりとかはねえ……。どんなもんだろうか?」

 こんどは姉が渋い顔で苦言を呈しはじめる。

「そうそう。その前にさ、いったんウチに連れてきたらどうなのさ? 学生らしいきちんとしたお付き合いをね、すべきだと思うんだ」

「うんうん」


 俺は語気を荒げて遮る。


「友達、というのが男だという考えには至らんのかあんたらは」


「えっ!?」


 まだ手を握り合ったままの母娘はさらに顔面を蒼白にしている。


 いったい何の想像シンキングタイムなんだよその間は。


「お……とこ……」


「だから……そういうあほんだらな考えは今すぐ捨て去れ! 純粋にキャンプを楽しむために友人と行くだけだ馬鹿者」


「あっそう……」


「……なんだ」


 言ったきり、いきなり冷めたふたりは目を伏せて、もくもくと食事を再開した。



 あとで母が部屋にやってきた。


 俺は自室のボロ畳にあぐらをかいたまま、文机ふづくえに向かって明日提出の宿題を片付けているところだった。ちなみに俺の部屋は死んだばあちゃんがかつて自室として使っていた二階の六畳間である。築四十年の家は相当な年季を経たものではあるがまだまだ使えるし、昭和時代の質実剛健な民家は現代の建売住宅には無い、良いところもある。よく陽の入る東に面したこの部屋を俺は気に入っていたし、じいちゃんの遺品である紫檀の文机はいまや俺にとって無くてはならない勉強机になっている。


 母は何やら紙包みを渡してよこした。

「ほれ」

 開けてみると一万円札だった。

 見上げて、

「いらないよお金は」

 そう言って返した。

「だって、交通費とか食材とか、キャンプ場代だとか、使うだろ?」

「一緒に行く奥田ってやつの親父さんがキャンプマニアで、知人の持ち山を只で貸してくれるというんだ。道具もいろいろ貸してくれるっていうし、車も出して送り迎えしてくれるってさ。それに、キャンプ場のまわりで山菜とかとれるらしい。今回はそういう企画だからあえて何も必要ないの」

「へぇ……そうなのか」と疑り深い目を向けられた。

「うん。だから要らない」

「わかった。でも何かあったときのために……」

「要らないよ」

 強硬に断ると母はちょっと残念そうな顔をした。まだ何やら考えているようなので、

「そうだ、米と塩をくれ。それだけあれば最悪サバイバルできる」

 そう言って二日分の米と塩を少しだけもらうことにした。

 本当は会費五千円を貯めていた小遣いからすでに捻出し、支払った後だとは言えなかった。

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