揺さぶり大作戦の末路
会議室には重苦しい空気が充満していた。課員十数名がコの字型に並んだテーブルに着き、白い壁に投影されたスライドのグラフを見つめていた。中央に座っていた島田課長が口を開いた。
「おい、姫野! 何だこりゃ? おまえ、営業成績、また最下位だな。今年で、2年目だよな。ほんと使えねー奴だな。恥を知れ。いつも足ひっぱりやがって。」
「も、申し訳、ありません。競合が多い案件で、できる限りのことはしたのですが・・・」
姫野さんは震える声でそう言うと、頭を下げた。課長の罵倒は続いた。
「馬鹿か、おまえ! 学生じゃねーんだぞ。結果を出せねー奴は、いらねーんだよ。女だからって甘ったれんな!」
姫野さんは下を向いたまま黙ってしまった。前髪の陰になって、顔の表情は良く見えなかった。
「11月の定例会はこれで終わりだ。みんな今月も頑張ってくれた。この出来の悪い女をのぞいて、みんな優秀だ。来月もよろしくな。」
課長は席を立って、ドアの方に向かい、振り向いて言った。
「姫野、お前、プロジェクタ片づけとけ。雑用がお前にはお似合いだよ。」
課長に続いて、他の社員も席を立って会議室から出て行った。誰もが無表情で一言も声を出さなかった。
姫野さんは眉間にしわを寄せて、歯を食いしばったまま座っていた。小さな肩がかすかに震えているように私には見えた。
私は動くべき瞬間を見計らっていた。あとは同僚の小杉が部屋を出て行けば、二人きりだ。小杉め、パソコンを開いて何やってんだ。メールならディスクに戻ってからにしろよ。早く出てけ、出てけ、出てけ。こっちは準備万端なんだ。
しかし、小杉は予想外の行動をとった。長身の体を起こすと姫野さんの方へ歩いて行った。この重苦しい空気の中でも甘いマスクは健全だ。そして彼女の隣に座った。
「災難だったね。きっと島田課長はまた部長から叱責されて機嫌が悪かったんだよ。だれでもいいから八つ当たりしたかったんだ。俺も標的になったことがある。困った人だよ。」
小杉は姫野さんの方に体を向けて、さらに続けた。
「それに、姫野さんの案件がすごく難しいことはみんな知ってる。姫野さんじゃんなかったら、手も足も出なかったよ。姫野さん、上半期は成績トップだったもんね。僕は姫野さんのこと尊敬してるよ。この会社ではいちばん能力が高いと思う。今回はたまたま運が悪かっただけだ。」
小杉は姫野さんの肩を撫で始めた。姫野さんは手で目を覆った。涙をこらえきれなくなったようだ。嗚咽も聞こえ始めた。
「ご、ごめんなさい。私、情けない・・・」
「大丈夫だよ。僕の前でなら、いくらでも甘えていいから。そうやって素直な表情見せてくれると、僕もうれしくなるな。」
私は血の気が引いていた。なんて狡猾な奴。私がやりたかったことを、いやそれ以上に踏み込んでいった。ルックスと話力に自信があるからこんな勇気ある動作をとっさの判断できるのか。もたついている間にチャンスを逃した自分が馬鹿みたいだ。
去年の4月、彼女がこの課に配属されて以来、どうにかして距離を縮めたいと思っていた。仕事上のやり取りはあっても、プライベートな会話をすることはなかった。彼女はとてもテキパキと仕事をするので、近寄りがたかった。コロナ禍以降、課の親睦会が激減してしまったことも痛かった。
その姫野さんが、小杉なんかに心を許すとは。
こうなってはもう挽回は不可能だ。私はやけくそになって言った。
「あのさー、僕がプロジェクター片づけとくからさ。休んでいいよ。僕も姫野さんは全然悪くないと思うよ。課長のことなんて気にしなくていいよ。へ、へ、へ。」
声の出せない姫野さんの代わりに小杉が言った。
「悪いね、芹沢君。僕はもう少し、姫野さんのこと見ておくから、先に戻って仕事しててよ。」
なんという屈辱。私はプロジェクタの電源を落とし、コンセントを抜き、バッグに詰め込んだ。
右手で姫野さんの肩を抱き、左手に持つハンカチで彼女の顔を押さえる小杉の姿が目に入った。私がプロジェクタのバッグを肩にかつぎ、会議室を出ようとしたとき、小杉が小さな声でささやくのを耳にした。
「あのさ、仕事の後、もし都合よかったら、食事とかどうかな。いい店、知ってるんだ。美味しいもの食べて元気出そうよ。」
なんと図々しい奴・・・
*
私はディスクに戻ったが仕事に集中できなかった。定時のチャイムが鳴り、課長以外はみんな帰ってしまった。もちろん小杉も姫野さんもだ。課長が僕に言った。
「どうだ、作戦はうまくいったか?迫真の演技だっただろう。これでも俺、学生時代、数カ月だけど演劇部に所属しててな。」
僕は課長の目を見ることができなかった。課長は何も気付いていないようだった。
「少しは距離が縮まったんだろう? 女には感情的な揺さぶりが効くんだ。姫野みたいな、優秀でプライドが高い女は一度、徹底的に突き落としてから、甘い言葉でなぐさめるのが最高のやり方だ。」
*
その1週間後、課長は人事部に呼び出されたようだ。小杉が姫野さんの件をコンプライアンス・ホットラインに通報したのだ。私がうまくやっていればこんなことにならなかったはずだ。
課員へのヒアリングの際、私は人事部にすべてを打ち明け、パワハラの誤解を説き、課長の懲戒処分を回避させることができた。当の姫野さんもあの日の翌日から、何事もなかったかのように仕事をしていたし、課長の暴言もあの日限りのものだったので、職場の雰囲気も元に戻り、何事もなくその年が過ぎて行った。
結局、課長は次年度から他の部署に異動させられてしまった。コンプライアンスの件が影響したのかどうかはわからない。
その年の9月に姫野さんは退職した。起業するらしい。
彼女の最終出勤日の翌日のことだ。朝、パソコンを開いてメールチェックすると、見慣れないアドレスが目に留まった。僕はそれを恐る恐る開いた。
*
芹沢さんへ
姫野です。
突然、ごめんね。ひとつ伝えておきたいことがあって。
あなたが私のこと好きなの知ってたよ。あなたたちの作戦もね。ばればれなんだよ。わたし、お金貯めて起業するつもりだったから、だれとも付き合えなかったんだ。だから、あなたが傷つかないような方法で遠ざけるために、小杉くんに頼んだの。直接、断っても良かったけど、同じ職場に居づらくなっちゃうでしょう。でもね、小杉くん、島田さんのこと嫌いだったから、これを利用して通報しちゃって、ちょっと大事になっちゃた。島田さんにもごめんって言っといて。
あとね、あんな姑息なことしても女の子は落とせないよ。あなたに必要なのは正面から立ち向かう勇気。
がんばってね(^^)