0.はじまり
――魔獣と対峙した時に求められる必須能力。それは自分が敵わないと判断する見極め。そして即撤退する、もしくは救援を求める行動力。
けれど、それさえもできない時は――その隙を作る。
その隙さえも作れないほどの上級魔獣――、伝説級のものに出くわしてしまうなんて。
サリヤは、掲げた左の指が震えないように支える右手で必死で制御する。
汗がにじみ出る、相手の魔獣は高みにいすぎて、細い目のようなものを前方にわずかに向けているだけ。
でも一ミリだけでも動いたら、即、殺される。それだけはわかっていた。
相手にとって自分は潰すか、面倒だから無視するか。そんな蟻と同じだ。
立てた親指と人差し指、中指は四十五度、そこで空間ができている。あとは左腕に巻いた銀環を鳴らせば転移ができるのに、動けない。
――上級魔獣、ザハナート。膜に覆われた巨大な体は半透明、でも臓器はない。大きさは十メートル大。特徴的なのは、その目。
赤、青、白、黄色と三角が連なりその不気味なものが顔の中央にぽかりと浮かんでいる。それがぼうっと浮かび、どこかへ目を伸ばしている
まだサリヤを見ていない、存在は気づかれているだろう。ただ、無視されているだけ。でも視線をこちらに向けて合わせたら、恐怖でサリヤは心を壊すだろう。
このままでは、どうしようもない。
サリヤは息さえも潜めて、存在を隠していた。
転移ができなければ、ほんの僅かでもこの魔獣の隙を縫い、仲間に救援シグナルを送る。
この魔獣を倒せるものは――サリヤの上司である団長を含め、上官のわずかな人たちだけ。
その救援信号が届き、仲間が救援に来てくれる時間はとてつもなく長く感じる。
そしてもう一つの懸念。サリヤの動きを無視して懐から出そうになる存在。
(お願い、こらえて)
それはサリヤと一心同体。その小さな獣は、サリヤの危機とザハナートの魔力に惹かれて、興奮状態だ。
(――珀蘭、静まりなさい!)
強く命じると、少しだけひそめる気配。
内側と外側、両方に意識を向けて、どちらからも引きずられ体も心も引き裂かれそうな感じがする。――もう持たない。
息をそっと吸い、魔力をためる。それがサリヤを見つける前に、この状況を打破する。そう思っていたのに。
けして目を離したつもりはなかったのに。
突然、目の前が暗転する。そして遅れてくる激痛。目の前の化け物が動いた気配は一切なかった。なのに、サリヤは一撃で吹き飛ばされたのだ。
下に見えたのは茶色い地面、視界が反転していた。頭が下にあり周囲に赤い水が散っている。わかったのは、それは自分の血ということ。それから死ぬ、ということ。
あまりにも高く放り投げられて、地面に激突したら、ただでは済まないと思った。
サリヤをその化け物が見たのは一瞬、それだけで恐怖がこみ上げる。
けれど、ゆっくりとその手が動くのがわかった。サリヤを邪魔な蚊を叩くように、もう一度爪が振り上げられていた。
(……終わりだ)
同時に、目の前が白に覆われる。化け物の姿がわずかに隠れる。サリヤと化け物の前を飛び出し、視界を遮ったのは白い獣だった。
(――珀蘭、駄目! 逃げて!!)
胸の中にしまい込んでいたサリヤの分身が、ザハナートとサリヤの間に入り込む。
そして白い毛並みの珀蘭が真っ赤にそまり地面に落ちていく。
なにも遮ることがなくなった化け物の瞳がサリヤを捉えた。
サリヤが最後に思い出したのは、アイスブルーの瞳。任務中は鋭く冷ややかに、時に穏やかな湖のように優しく向けられる瞳があの時そう言った。
『――死ぬなよ』
あの人はそう言った。
『それは、命令、ですか?』
尋ねた時、他の団員の前では見せない柔らかな苦笑と共にあの人は手を伸ばした。
『違う、サリヤ。俺の願いだ――』
そしてサリヤの頭に大きな手を置く。戦闘では誰よりも戦い、そして沢山の部下の命を負う力強い手だ。
『――だがもしも、命令するならば。――帰ってこい、絶対に』
そしてその手が、サリヤの黒髪をそっと撫でた。




