55.脱走の勇者
「兄さん、随分張り切ってるみたいだね」
「うん。……最近は構ってくれないから寂しい」
エドガー達の修業のため去ってしまったニルス。彼の姿のない居間ではユーリがアシュレイの向かいの椅子に座っていた。
退屈そうに机に肘をつくアシュレイだが、「付き添いでもしたらどう?」とのユーリの提案を断っていた。彼の邪魔はしたくなかったのだ。
ユーリは彼女の返答を受けながら、そのニルスに対しては率直な物言いにほんの少しの興味が湧いた。
「ねえ、姉さんは魔素授受する気はないの?」
魔素授受、体内の魔素の少量を互いに差し替えることであり、そこに含まれる記憶を交換することで深く精神的に繋がりを持つ行為であった。
その方法は魔法を用いるなど多岐にわたり、兄弟間もしくは親子で行われることもしばしばあった。
しかし中でも夫婦間においては体を密着させ、直接魔素を流すやり方が一般的だった。
それにより記憶の交換をただの行為として完結させず、互いを深く愛する宣誓の儀として夫婦間の全ての理解が成立するのだった。
さらに、血の繋がりが薄く、絆の深まった男女であれば女神の祝福を受け、子を宿すのだという。
「実は、ちょっとだけした」
アリスに取り憑いていたラーシトを対処していた際に、半ば強引であったが口づけを交わしていたのだ。
その際にアシュレイはニルスの記憶の一片を読み取った。見たのはニルスが闘技場にて尽く嬲られている姿だった。
彼から何でも無いような口振りで語られたことはあったが、まさか身が引き裂かれるように傷つけられ、血反吐を撒き散らす惨状だとは思わなかった。
これにはもっと早く救い出していれば、との後悔も尽きなかった。
「でも、ニルスの事を知るのが怖くなって……今の私には傷つくニルスを見て耐えられる自信がない」
「そっか……」
由々しき事態ではあるが根の深い話であるためユーリに解決できる問題ではないだろう。彼もそう考え、これ以上関与することを打ち切った。
『多くの女性の記憶を見てきたユーリさんには考えられないことですもんね』
『まあね、色んな人がいるもんだよ』
ユーリの勇者としての本能か、多くの子孫を残すことは一つの使命らしかった。勇者の素質があった者の、その血を引いている者ならば同じように魔王を倒す剣になり得る。
これは後の世も勇者を絶えさせない役目もあったのだ。
そうイーリスと話しているうちに話題の人物が訪れる。
「おはようございます!」
「ミリア、先に行ってしまわないでください。あ、おはようございます、ユーリさんに、アシュレイ様」
現れたのは小さな体躯で跳ねるようにユーリへ寄ってきた双子の少女だ。アリスとミリアはユーリの顔を見るなり、花が咲くような笑顔を見せる。
「ふあ、朝からユーリさんに会えて嬉しいです。えっと、今日はニルス様はいらっしゃらないのですか?」
「うん、兄さんは出かけてるよ。何か用だった?」
「いえ、今日はユーリさんに会いに来ただけなので」
「未来の旦那様にご挨拶しようと思いまして……ご迷惑でしたか?」
「そんなことないよ」
ユーリが微笑み返す。自分から会いに来ておいて朝から会えて嬉しいなどと、頭の中まで幸せそうだと彼は思った。
そんな勇者をアシュレイは僅かに睨む。
「旦那様?」
「うん、そういうことになってるね」
「似たようなこと、カーラにも言ってなかった? それと呪いの人達」
そう、ユーリは魔石教幹部壊滅の祝宴にて片っ端から女性を口説いていたのだ。アリス、ミリア、カーラはもちろん、マリナやエルフのフェリシーにさえ手を出していた。
あろうことか全員が承諾してしまったのだ。
「皆了承の上なので問題ありません」
「私達はユーリさんのお近くにいられれば側妻でも構わないのです」
さらに、ユーリの多妻主義にも女性らは理解を示した。そこへ疑問を持ったアシュレイが呟く。
「……二人はニルスに気があると思ってた」
「そんな、とんでもありません! ニルス様は確かに素敵な方ですが私達を助け出してくださった恩人、このアリスにとっては神様にも劣らない存在です」
「神様に恋愛感情を持とうなどと、罰当たりも甚だしいところです。それから、アシュレイ様、リナ様、ヴィオレッタ様にも感謝が尽きません」
付け足されたように名が挙がったアシュレイだが、ある人物が同席していないことに気づく。
「カーラは?」
「えっと、カーラさんは何もしておられなかったので……」
「むしろニルス様方の邪魔をされていたと聞いたので、好意は全くありません」
途端に嫌悪感が露わになる。随分とカーラに対しては辛辣な様子だった。
ユーリも、一人となったアリスとミリアと以前に交わり、記憶を覗き見ているが、確かにアリス救出に功を奏したのはニルス並びにリナのようだった。
よく考えてみればアシュレイは直接役立っていないことに気づくが、そんなことよりも衝撃だったのはミリア達のそれよりずっと昔の記憶だ。
それは彼女達がさらに幼い頃のもので、普段見かけない父親の姿があった。非常に見覚えのある背格好ではあるが、その時はまだ確信に至ってはいなかった。
その男性はミリア達の母に申し訳なさそうに口を開く。
「すまない、俺には妻子がいるんだ」
「……知っていました。その上で私は、あなたをどうにか手に入れることができないかと考えていた卑しい女です。私に言い返す権利などありはしません」
「……俺に反省の念がもう少しあれば二度と繰り返したりはしないのに、すまなかった」
「ええ。さようなら、愛しき人。アリスとミリアはこの手で立派にしてみせますから」
そのまま、男は振り返らず出ていった。
ユーリは、なんと運命とは残酷なものかと思った。都合は力ある者にこそ良くなるもので、世界は理不尽極まりないのだと。
そして件の人物が誰なのか、それは以前にスティードとミリア達を対面させ、母の名を告げた際に確信へと変わった。
一度驚いた表情を露呈させるものの、初対面を装うスティードは記憶の人物より少し老いているとはいえ、その人に間違いなさそうだった。
血は争えないということか、ユーリは父親の豪遊ぶりにある種の感心を抱いた。ただ、問題があるとすれば妻がいるというのに関係を持ってしまったことか。
あるいは、その女性さえも抱え込んでしまうほどの包容力を持ち得なかったことか。
どちらにせよスティードの子と言うことは、ミリア達はユーリにとって母親違いの妹ということになる。
これでは血の繋がりで、子は成せない。ユーリはともかく、それを心待ちにしている彼女達には手痛い事実である。
そもそも、ユーリの見た彼女らの記憶にスティードがいるということはミリア達も彼を父親として認識しているのだろうか。
その点に関しては記憶の認識が完全に行われるとは限らないのである。視覚や聴覚の記録はあるものの、それが潜在化してしまった。
故にスティードのことは覚えていない、これに尽きる。どうやら魔族はその潜在化が比較的緩やかだそうだが。
その時、ユーリは外が騒がしいことに気づいた。




