32.夢の中で目を覚ます夢
溢れ出る出血にその体が耐えかねたニルスは、意識する間もなくうつ伏せでその場に倒れた。
するとそこへ顔近くまで駆け寄って立ち竦む影が一つ。それはニルスの体を動かして仰向けの状態へともっていくのだった。
そして、焦燥したように声をかける。
「兄ちゃん、兄ちゃん!」
「ぐっ……! あまり揺らさないでくれ」
リナが肩を掴んで揺すると、それだけで激しい痛みが全身を伝う。ニルスが苦悶の声を上げながらその意思を伝えるとリナは慌てて手を胸の前まで引くのだった。
「ご、ごめん。……今、眠らせてあげるから」
彼の妹であるリナは、多少なりとも彼の性質を理解していた。だから傷を癒やすにはまず睡眠が必要と、判断し魔力を動かし始める。
しかしそれは当の本人から制止がかかる。
「いや、その前にあの子を、アリスをどうにかしてやってほしい。頼む、ヴィオ」
ニルスと同じように床で横たわる少女を指差す。彼女は熱に浮かされているわけでも、苦しそうに呻いているわけでもなく、一見寝息を立てて静かに眠っているようだった。
それでもあまりに静かすぎる。彼女の身に何かが起きているのではないかというニルスの不安感が杞憂であればいいが、どうも気にかかった。
「言われなくても大丈夫よ。任せておいて!」
「助かるよ」
ヴィオレッタは宿主の願いを受け、快く引き受けた。それが自身の経験にもつながる、精霊はそういった行動理念を持っているものが多い。
しかし理由がどうであれ、それを聞いてニルスに心残りが消えたのは確かだ。これで安心して眠りにつくことができる、と別に永眠するわけではないのにニルスは苦笑を漏らした。
そしてリナがニルスに両手を向ける。
「じゃあ、いくよ。……『スリープ』」
そして穏やかな眠気に誘われていく。
しかしそれは薄っすらと開けられた瞼から流れ込む映像によって阻まれた。リナの魔力とは別に何かの光が彼女へと集まっていくのが見えたのだ。
「リナ……?」
「え、なにこれ?」
やがてその光はリナを包み込み、戸惑った彼女は両手を少しだけ広げて自身の体を見つめている。
「なんだか、力がわいてくるような……」
そして呟いた。
よく思い出してみれば、その光はニルスとリナの直線上に横たわる悪魔から放たれたものだった。しかし奴がニルス達の助けになるようなことをするとは考えづらい。
「……経験だわ」
その精霊はまるで思い出すように呟いた。実際、それを見て過去にも同じものを見たことがあることに気づいたのだろう。
そして彼女は、聞かれるでもなく疑問そうな顔のニルス達に続けて告げる。
「今の光は人生の中で培ってきた技術や能力が形になったもの。言うなれば経験、いえ生命エネルギーかしら。恐らく、ラーシトが手にしていた経験そのものが、理由は分からないけどその余剰分が弾き出されたんだわ」
ヴィオレッタが述べるが、リナはやはり難しい顔になってしまっている。代わりに、ニルスが傷口を押さえながら聞く。
「手にしていた……って、元は誰かの物だったってことか?」
「ええ。さっき寄生されていたそこの男やアシュレイ、それから……アリスちゃんもかしらね」
恐らくラーシトが憑依を重ねる度に強くなるのはそのためだったのだろう。
となると生命力を奪われたアリスが目を覚まさないのも納得できる。長い間取り憑かれていたはずの彼女は、力を根こそぎ持っていかれ、自身で生命維持ができないほど衰弱している。
窮地に立たされているのだ。
「早くアリスを助けないと……!」
「でもその前に兄ちゃんは休んでよ」
「そうね。アリスちゃんの前にあなたが死んでしまうわ」
上体を起こしていたが、それをリナに押さえつけられて再び冷たい床と密着する。そして睡眠魔法をかけようと手を伸ばす彼女だが、不思議そうに首を傾げた。
「でもなんでスリープが効かなかったんだろ」
「ニルスは魔力の効果を減衰させちゃうからかしらね。きっと何度もかけてあげれば大丈夫よ」
リナほどの魔力量なら本来は一度に眠りにつくものだが、やはりニルスの体質はこういった状況に厄介だ。
「分かった」
リナが頷いてもう一度魔法を行使すると、今度こそ意識は内側へと潜り込んでいく。ニルスはその大海のような奔流に身を委ねた。
――――――――
……おかしい。
そう思ったのは、眠りに就いたはずの意識が覚醒している、そんな感覚を覚えていたためだ。
だがよくよくこの状況を確認してみるとどうやらニルスは目を覚ましているわけではなく、自分自身を客観的に見ているようだった。
何かの話で「幽体離脱」という言葉を彼は聞いたことがあった。ニルスはまさに肉体と精神を切り離してしまっているというのだろうか。
しかしそれにしては自分以外の事に関しては靄がかかったようで何も感じ取ることはできない。
ならば、ともう少し集中してみることにする。
「……そうね。でもこの子はもう自分の力で生きる力を奪われてしまってる」
「そっか、それじゃあ回復魔法をいくらやっても……」
「残念だけど、意味ないわ」
そんな会話が聞こえてきた。少々聞きづらい部分もあるようだが、近くにいる分には問題ないようだ。
そしてアリスの容態は、かなり深刻なようだった。ならば起き上がってすぐにでも助けに入らなければ、そう思うもののこの状態から元に戻る手立てが分からない。
一体どうしたものか。彼はしばらくその方法を探ることにした。
「……その役目、私にさせてくださいませんか?」
その声はアリスだった。いや、今彼女が意識を失っているとすると、それは姉のミリアだろう。
思慮に耽っていたためニルスは途中を聞き逃したが、これは果たしてどういう話の流れなのか不明だった。
まさか苦しんでいるアリスをすぐにでも楽にしてやる役目ではないか、などという残酷な考えが過ぎる。
「あなたが? えっと……無理ではないけど、いえ、むしろ魔力を少量でも帯びてる分好都合なんだけど、何が起こるかわからないのよ? それこそ、自我を失うなんてことも……」
ヴィオレッタは言いかけたところで口を噤む。いや、むしろ彼女がそれを担った方が成功確率が上がると気づいたのだ。
「……いえ、確かに、基本的には信頼を寄せている物なら精神的な観点からもそれだけ都合良くいくわね」
「それなら尚更、私がやります」
その声は強く真っ直ぐなものだった。少女の発する声は大きな決意を感じる、か細いながらも強い声だった。
そして判断に迷うのは、それを実行できるヴィオレッタである。
「うーん……ええい! なるようになるがいいわ!」
こうしてはいられない、ニルスは思った。
早くここから抜け出してしまわなければ。傷も問題なし、後は目覚める方法だが意図的に覚醒するなど人類で試みたのは彼が初めてではないだろうか。
それくらい、困難なように思えた。
そもそも突然起きたこの現象はどういったものなのか。悪魔の憑依のせいで精神を切り離す術を無意識に覚えてしまったなどというのだろうか。
もし、そうだとしたら目覚めるのは簡単だ。自身が憑依された時は悪魔から反対に体を乗っ取るようにして自分の体を動かしていた。ならばそれを実行するのみ。
そして彼は、自身の体を隅から隅まで知覚するように意識を深める。すると難なく彼は現実へと引き戻された。
そんなニルスを迎えたのは嬉しそうなリナの表情だった。曇りの一切ないその顔には全て上手くいったことが物語られていた。遅かったか、一種の落胆が彼を襲う。
「あっ、兄ちゃん! みてみて、新しいアリスちゃんだよ」
「ニルス様、この度は小汚い悪魔から助けていただき、ありがとうございました」
新しいとはどういうことか、ニルスが考える暇もなく律儀にもアリスは頭を下げ、ニルスはその仰々しさに堪りかねて顔を上げるように言った。
しかし、それにしては違和感がある。
「あれ、そういえばミリアはどこに行ったんだ?」
「はい。ここにいます」
「ん?」
しかしニルスの問いに答えたのは目の前にいるアリスだった。あたかも自分がミリアだと言うように。そもそも双子の彼女らはニルスには見分けがつかない。
「……ひょっとして、からかってるのか?」
「ある意味そうかもしれないわね」
側から聞こえてくる精霊の言葉と苦笑に、ますますわけがわからなくなる。
「お姉様、ややこしいことをしてニルス様を戸惑わせてしまったではありませんか」
「それは大変です! ニルス様、申し訳ありません」
「それがややこしいと言っているのです」
一人二役、とでも言うのだろうか、アリスは百面相を繰り広げながら何かを言い合っている。するとヴィオレッタが顔の前まで飛び出してくる。
「私から説明するわね。まず、今の状況なんだけど……ミリアとアリスはあれで一人なのよ」
彼女達はニルスの知らぬ間に一つになっていたのだ。




