30.お前は虫と接吻ができるか
「ニルス!」
アシュレイが叫んだ。しかし駆け寄ることはしない。既に彼がニルスであるという保証はどこにもないのだ。
直前にあの大盾の男、もとい悪魔が、力が抜けたように倒れる姿を見ていた。あの感じは少女から男へ――表現が正しいのかは分からないが――乗り移った時と同じであった。
そしてやはり、悪魔――ラーシトの憑依魔法の対象となったのはニルスだった。
「ふっふっ……くははは! 体が軽いぞ! 力も、この体の奥底から湧き上がってくる感覚は素晴らしい!」
ニルスの体を軽く動かしながら自身に宿る力に興奮気味のラーシトは、準備運動と称して辺りを駆けるのだった。
「ひっ!」
地べたに座り込んでいたカーラが短く悲鳴をあげる。悪魔が何の予備動作もなく目の前まで迫ってきたためだ。かと思うと今度は一瞬にして姿を消し、アシュレイとリナの前に移動する。
「あなた、ニルスを……」
「ニルス兄ちゃん……」
ニルスと関わりの深い二人は不安と怒りを込めた表情でラーシトを見つめる。対する彼は勝利を確信してか、アルマンの元へと戻りその顔を踏みつけながらその場にいる面々を一瞥する。
「紹介が遅れたなぁ! オレの名はラーシト。他者に巣食いその者の力を奪い尽くしていずれはこの世の頂点、魔王を目指すエリート悪魔だ! 尤も、こんなことを聞いたところでオレの力の真髄を知ったオマエ達にはここで死んでもらうことになるがな!」
しかし、そこへ身を軽くして現れた影が一つ。それは今まで気を失っていた長身の男、マリユスであった。彼は事の事態を詳しく知らない、そんな中で取った行動はカーラを逃がすことだった。
「カーラ、立てるか?」
「マリユス……?」
しかしそれをラーシトが見逃す訳もなく。
「……この小蝿が」
そう呟きながら男へと近づいて、拳を振り抜きその腹を穿つ……はずだった。
「は? 何故動かない?」
彼の腕には前に押し進めようと力を込められているが、それに反するようにラーシトの腕が振りかざされたまま動きを止めている。
ニルスの肉体が、正確には、肉体に刻まれた呪いが作用した結果だった。
「くそッ! 一体何故だ!」
「……」
マリユスはこれを好機と捉えて反撃へとすぐに移った。迷うことなく拳をラーシトの顔面へ。それも人間の急所とされる鼻へ向けたのだった。
「うおらっ!」
「何ッ!」
マリユスの渾身の一撃がラーシトの表情を歪める。実のところマリユスの力と彼の身体の硬さでは簡単には覆らないほどの差があり、悪魔が拳を食らったところで身動ぎなどほとんどなかった。それでも――
「ぐああッ! 痛え、痛えぇッ! 何なんだよこれは!」
ラーシトは味わった。これまでに経験したことのない痛みをその身に浴びた。鋭くも鈍い、相反するはずの苦痛が、重い激痛が、彼を悶絶とさせたのだった。
ニルスは少なくともそういった環境で生きてきた。その常人には耐え難い枷が体現した結果であった。
「ニルス、ちょっと痛いけど許して……」
アシュレイが悪魔の悶え苦しむ様子を見て呟いた。そして彼女は片手を前にしてラーシトを見下ろした。
「今すぐニルスを返して。じゃないと……『アイス』」
行ったのは氷塊の具現化。己が魔力を用いて作り出した氷を彼女はただ彼の顔へとぶつける。ところがそれが当たる瞬間、魔力の氷が半分ほど気化していくのが見えた。
ニルスは魔力が通り難い体質をしている、敵として見るならばやはり恐ろしいものだと、極めて冷静にアシュレイは考えるのだった。
しかし今の状況にとってはむしろ好都合と言えた。アシュレイにはニルスを出来るだけ傷つけたくないという思いと、それに加え悪魔へ拷問に値する攻撃の手を加える必要があったのだ。
傷を最小限に、尚且つ痛みだけ与えられるのであれば、これ程望まれたことはない。アシュレイはそう思うのだが、もし痛みを与えることがニルスを傷つけることに該当するならば……これはどうしたことか。
「ニルスを返さないと、あなたを痛めつけることを止めない」
「があああッ! くッ、そぉッ! このアマ!」
アシュレイの加える断続的な苦痛にラーシトが目を血走らせて彼女を睨んだ。
「そんなに返してほしけりゃそうしてやるよ! ……お前と引き替えになぁ!」
動きを封じたりせず、苦痛を与えることに専心していたことが災いし、悪魔の腕がアシュレイを捕らえることとなった。
「アシュレイ姉ちゃんから離れろっ! 『ファイア』!」
「熱い熱い……ま、随分と楽しませてもらったぜ。 ……は? なんだよてめぇ!」
リナによる炎の魔法でラーシトはのたうち回りこそしなかったが、その熱さと痛みに眉をひそめた。だがそれも焼け石に水。既に彼を止めるものはいない。
……いや、一人だけ存在した。
「俺の体で好き勝手やってくれたみたいだな」
ニルスの体から、彼らしい口調で声が発せられる。その場にいる者達は口々に彼の名を呼ぶのだった。
「オマエぇッ!」
「兄ちゃん!」
「ニルス……」
「お、遅いのよっ! もう少し早く出てこれなかったの⁉」
彼の、満を持しての登場に、一人を除いて皆が歓喜した。
――――――――
一言で言えばそれは、ぬるま湯だった。
「はっ! オマエの体に寄生してやったぜぇ! 正確には憑依と寄生だがなぁ」
そんな言葉が聴こえてくる。どうでもいいと思える声とともに感じるのは、全身が痺れるような感覚。しかしそれも大して効力を為しておらず、まさにぬるま湯に浸かっているといった様な感想をニルスは抱くのだった。
この魔力的な技に、ニルスの耐性が機能したためだろうか。
ともかくとして、ニルスはそんな軟弱な折の中から苦労することなく悪魔から肉体の主導権を奪い返すことが出来たのだった。
「くそッ! 何で出てこれた!」
ラーシトがニルスの声で叫んでくる。その悪魔の様子を見ても、まだ完全には取り返せてはいないということに違いなかった。
「さあな。精神力でお前より勝っていた、とかかな?」
「ふざけるなッ」
いい加減自分の体を使われることが鬱陶しくなってきた。というわけでニルスに考えがある。
「そういえば……さっきの拷問、途中だったよな? 続きをやろうじゃないか」
それはアシュレイがしていたようにもう一度悪魔を痛めつけてやることだ。
『…………え?』
すると、急激に気温が下がるような感覚に陥った。それもそのはず、その場にいる女性陣が皆、ニルスに冷たい視線を向けているではないか。
ニルスは察する。彼女達はアシュレイに、ニルスの意思が宿ったその身を打たせるというように捉えたのだと。
「あ……いやいやいや、そういうことじゃなくて。俺自身が俺を殴ってだな……」
「……それはそれでまずい気がするよ、兄ちゃん」
「他人にやらせようと自分でやろうと同じ」
「汚らわしいわっ!」
この言われようである。確かに、百歩でも千歩でも譲って危なく目に映るのかもしれない。しかし奴を苦しめる絶好の機会なのだと、ニルスは譲らない。
そういうわけなので、彼は実行してしまった。
痛みに慣れていない悪魔にとっては地獄だろう。そして不思議なことだが、殴ってもニルスへの痛みがいまいち伝わらずにいた。恐らくはラーシトの術による精神的な麻痺が関係していると思われた。
これは鎮痛の方法としては良いかもしれないと、彼は思った。多少動きが鈍くなることに目をつぶれば、だが。
「うっ……ふぅっ……くそ……」
「観念したか?」
さて、そろそろ神官は起きただろうかと、ニルスがその方を見やると、間に立っていた切なげな表情のリナと目があった。
「兄ちゃん、もうやめてあげて。何ていうか、兄ちゃんが惨めだよ……」
「えっ!」
リナの言葉にニルスは心底動揺した。一体彼女らにはニルスがどう見えているのだろうか。自分自身を殴り、悶絶しながらも殴るのをやめない。そしてまた悶絶。
それはつまり、見るに堪えない一人芝居を見せられているのと同様だった。いや、それ以上だ。
これより先は彼の人間としての尊厳に関わる。
「……少しはオマエの体に傷がついたかぁ? 『パラサイト』ォ!」
そしてあろうことか健在な様子でラーシトが口を歪めると、アシュレイに魔力を放った。
ニルスの内にまとわりついていた違和感が、消えた。
「はっはっは! 全く、学ばない奴らだよオマエらは。オレが他人の体に乗り移れるって知ってんだろ。……そうだ。そんな頭の悪いオマエらに今一度教えてやるよ。オレは他人に寄生する度、強くなるんだぜ」
アシュレイが顔を上げると、そのようなことを言い放ち、「今、どんくらい強くなってんだろうなぁ?」と顔を歪めて笑う。
当然、中身はあの悪魔だ。
「アシュレイ……!」
油断していたばかりに、彼女まで苦しめてしまったと、ニルスはラーシトをアシュレイに近づけたことを後悔した。
しかしそんな中、リナだけはアシュレイをじっと見つめていた。
「兄ちゃん、キスするんだよ」
その顔は全く冗談を吐いている様子はなく、真剣そのものだったのだ。




