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21.魔族の少年の苦悩①

「はあっ……くそっ!」


 ニルス達が湖畔に足を運ぶ中、全身に傷を負いながら魔物から逃げるのはエミールだった。

 追う魔物は猪、その直線的な動きに何とか致命傷を負わずに距離を取れているが、体力が切れるのも時間の問題だった。



 その状況に至るまでは大した決意もなかった。魔物を討伐し、魔石を手に入れるため森へ訪れていたエミールだったが、思わぬ強敵と遭遇してしまった。

 そもそも魔石を得ようとするのには、成り行きで厄介になってしまったニルス達へせめてもの罪滅ぼしとするためのものだった。


 はじめは、他人から硬貨を盗むつもりだった。それが彼の元来の生き方だと思っていたから。

 だがそれはできなかった。まるで親のように接してくれたあの老婆の教えが、未だに頭に残っているのだ。何度も何度も、人の往来の中に立ち尽くす。それでも体は動かなかった。


 彼は仕方なしに魔物から魔石を直接いただくことにした。しかしそれに彼自身、苦笑する。していることはさして盗みと変わっていないのだ。

 それでも、彼は右手に携えた短剣を武器に、魔物へと近づいていく。


 そんな折に、猪の魔物、レッドボアにでくわしてしまった。突然の事にエミールはレッドボアの突進を躱すことができず、短剣で受けるものの突き飛ばされて木に体を打ち付けてしまう。


「くっ……」


 そしてもう一打、赤がかった茶色の毛を揺らしてレッドボアは走ってくる。それをかろうじて横へ転がるようにして避ける。しかし先の一撃で体力を激しく消耗し、自慢の敏捷性も活かせそうにない。


 この足では逃げ切るには足りない。そう判断した彼は猪の猛攻に合わせながら短剣をその表皮につきたてる。もちろん、回避を行わなければその身が危ない。

 既のところでそれを横ではなくレッドボアの方向へ斜めに飛び出し、傷をつける。そして後退、距離を保てば見切ることも不可能ではなさそうだ。


 そしてまた猪の突進。エミールは避けつつ短剣で再び切り裂くが、どうも傷を負っているようには見えない。

 想像以上に硬い、いや、エミールの筋力程度では表皮を傷つけるには足りなかったのだ。それを理解した彼はもっと損傷を与える方法は無いかと辺りを見渡す。

 しかし木々以外には役立ちそうなものもない。崖や渓谷でもあろうものなら、単純な動きのみを繰り返すこの猪を突き落とすこともわけなかっただろうに。


……いや、違う、そこには確かに木があったのだ。


 気づいたエミールはすぐに近くの木をよじ登る。レッドボアの方もその木に対して体当たりをして振り落とす、あるいはへし折ろうとする。

 だが激しく揺さぶられるものの一度では倒れはしなかった。彼も幹に掴まり、どうにかやり過ごす。


 そして、レッドボアが再び木に衝突する瞬間――その動きが止まる瞬間を狙ってエミールは木から飛び降りる。

 その時、彼がまさに登っていた木はバキッと音を立てた。どうやら限界だったらしい。


 しかしそれも手放したエミールには関係がない。今も加速する風の中、必死に切っ先をイノシシへと向けて落下していた。


「うああああっ!」


 圧に耐えるための咆哮。それと共に刃がレッドボアの背へと突き刺さる。


「プギィィィィッ!」


 猪は苦痛に悶え、その体躯を振り回す。エミールは短剣の柄を掴み続けることができず、投げ飛ばされてしまう。

 飛ばされた先には木。そこへ体が当たると、今度は衝撃と損傷に体が言うことを聞かなくなっていた。


 そして猪は鼻息荒く彼を睨んでいた。どうやら傷を負わされたことに激怒してしまったようだ。先に仕掛けてきたのはあちらだというのに、どこまでも利己的だとエミールは嗤った。


「はっ! ここで終わりかよ……」


 何か特別な思いがあってここに来たわけではなかった、それ故にあっけない幕引きに自嘲が浮かぶ。

 せめて、あの猪を吹き飛ばすだけの魔法が使えたら良かった。何となくそう思った。


 自分を産んだ母はこんな姿を見て、何を思うか。死が迫る中、ふと、そんなことが脳裏を過ぎる。それだけじゃない、甲斐甲斐しく世話してくれたあの老婆にだって、情けない姿を見せられなかった。


 そう思うと不思議と心の奥から怒りにも似た感情が湧き上がってきた。なぜ、こんな知能の低い、突進しか能のない獣にやられなくてはならないのか。

 怒りが、力を呼び覚ます。そんな童話にしか描かれないような不可思議なエネルギーが、徐々にエミールの体へと満ちていく。

 そんな中、わけもわからず手を前へと向け、無我夢中で叫んだ。


「『ストーム(吹き飛べ)!』」


 そして炸裂した風の魔力が猪を巻き込んで遠くへと吹き荒れていく。風の刃がその体に裂傷を生み、どさりと倒れ込んだレッドボアはそれきり動かなくなったしまった。

 一方のエミールにも変化が訪れていた。頭に、角が生えていたのだ。


「はは、やっぱり僕って魔族なんじゃないか……」


 魔族は基本的に魔力の扱いが優れていると言われる。そしてエミールもその血を受け継いでいたのだが、今まで力を上手く扱えずにいた。

 窮地に陥って、本能が力を呼び覚ましたのだろう。

 だがそれでも傷が癒えるわけではなく彼は尚も動くことができぬまま、悪態をついた。


「くっそ……冒険者って楽じゃないな」


 これなら盗みを働いた方がよほど楽に生活ができる。だがそれでは心に傷を負う。老婆が教える言葉に、「人を虐げることで生きる人間は弱い」というものがあった。彼女の言葉は何故か心に響いてくる。

 心に響く声には、どうも逆らえないのだ。

 そしてそんな経験を、随分と前にもした気がする。


 そう、最近まで忘れていた母の影に。


『――テ、ポント。お前たちは、人々の架け橋に……』


 自分の使命を、母の声に聞いた気がした。




「あ、大丈夫?」


 何かに顔を覗かれ、目を覚ました。いや、そもそも気絶していたことすら意識になかった。


「ああ。って、何でリナのベッドに寝てるんだ!」


「あれ、嫌だった? ごめんね、治療が必要そうで、急いでたから」


「い、嫌ってわけじゃなくて……ああ、リナが助けてくれたんなら、礼を言うよ」


 感謝の気持ちがあれば、それは素直に伝えるべきだと、老婆の言葉に引っ張られる。不服ながらも、それに抗うことは叶わなかった。ひょっとすると、彼女は魔女か何かで、魔法によって従わされているのではないだろうか。

 背格好からして、あながち間違いではないかもしれない。


「リナが運んでくれたんだろ?」


 最後の記憶に、彼女の声を聞いた気がしていた。ああ、そういえば心に響く声はリナからもしていた、とも思った。

 そして頭の角はいつの間にやら引っ込んだのか、なくなっていた。


「うん。何となくエミールの力? っていうのかな。それが段々小さくなっていくのを感じたから」


「そっか。重くなかったか?」


「大丈夫だよ! エミールは私とおんなじくらいちっちゃいからあんまり重くないし、私だって鍛えてるからね!」


 リナは軽く腕を見せて力を込めてみせるものの、その細腕で本当にエミールを運び出したというのだろうか。


「……ほんとは武器屋のおじさんに手伝ってもらっちゃった」


 リナは笑って「持ち上げるだけならできたんだけどね」と続ける。

 そんな彼女を見てエミールも自然と笑みを浮かべてしまう。


「……ありがとう」


 そんな言葉も自然と出てきた。いや、引き出されたというべきか。リナの言葉と表情にはまるでそんな力があるようだった。


「あっ、そういえばエミールの近くに魔石が落ちてたんだけど、エミールのだよね!」


「あ、ああ。でもそれはやるよ」


「えっ、ほんと? ありがとう!」


「いや、礼をされるようなことじゃない」


 ましてや与えられた恩を帳消しにできるとも思ってはいない。するとリナが静かに問う。


「ねえ。エミールがあの魔物を倒したんだよね。だったら、私をカンポの村まで連れていってほしいなって……」


 いつものリナらしい、活発な少女はそこにいなかった。「駄目だなぁ。わがままはもう言わないって決めたはずなのに」と、眉尻を下げるリナを見て、こちらの方が本来の彼女なのだと直感で理解できた。

 それにつられて、エミールも真剣な面持ちへと変わる。


「理由は? 場合によっては付き合ってやるよ」


「えっとね、笑われちゃうようなことなんだけど。夢の中でお父さんとお母さんが私を呼ぶんだ。ううん、呼んでるのは私かもしれない」


 何せ夢の中だ。意識が明晰な事の方が異常だろう。エミールは黙ってリナの話に耳を傾ける。


「とにかくね。どこかにまだお母さんたちがいるって、夢を通して伝えているみたいで。だから私は確かめに行きたい。いるとしたらやっぱり村に残ってるんじゃないかなと思って」


 目は冗談を言っているようではなかった。その意思は口調からも伝わっていた。


「それ、兄貴達には伝えたのか?」


「まだ……かな」


 エミールは、先にニルスへ伝えるべきだと言うことができなかった。彼らに話さず、エミールへこの話をしたのにも理由があるのだろう。


「兄ちゃんは無理にでも私の思いを叶えようとしてくれるの。でもこれ以上迷惑をかけたくないし、ユーリ兄ちゃんはそもそも信じてくれないだろうし」


「それで、か」


 結局、消去法なことにエミールは苦笑する。所詮自分の役回りなどこんなものだと、自嘲を加えながら。


「エミールなら、何も言わずについてきてくれるでしょ? ……本当は、親身になられるのも冷たくあしらわれるのもしんどくて。って、やっぱり私ってわがままだな、あはは」


 思わず乾いた笑いが漏れると、エミールは慰めるべく思考を巡らさるもののその術は出てこない。結局、彼女の望むとおりにするのが一番いいのかもしれない。


「仕度、出来てるのか?」


「え……?」


「行くんだろ、リナの村に。僕もついていってやるよ」


 愛想良くはできないが、リナはむしろそれを望んでいるのだ。わがまま言い放題に甘えられる、母との誓いを破らせるような存在でも、一縷もわがままを言わせてくれない存在でもない存在。そんなわがまま(・・・・)な願望だった。


「ありがとうっ!」


「ちょっ、不用意に抱きつくなって!」


 リナの目の端には涙が浮かんでいた。

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