運命の恋にも適性が必要
楽しんでいただけたら幸いです。
会話やダンスを楽しみさんざめく人々。日が暮れても真昼のように明るい会場を見渡す。
年に数回ある王宮の夜会で、クレアはため息を飲み込んだ。
「ああ、クレア。愛しい人よ」
「ベンジャミンさま」
「疲れてはいないか?」
「はい。お気遣いありがとうございます」
ピッタリと寄り添う男を見上げ、彼女は微笑む。引き攣りそうになる口元を必死で抑えた。
蜂蜜色の髪に冬の空のような澄んだ青い瞳。甘く整った顔立ちの、貴公子然とした青年は彼女の婚約者だ。
グリフィス公爵令息ベンジャミン。明るい茶髪に緑がかった茶色の瞳の伯爵令嬢、クレアにはもったいない素晴らしい男性だ。
彼女が多大なる努力の末に浮かべた笑顔にベンジャミンは満足そうに微笑む。
とは言え、油断はできない。視線ひとつ動かすにも気をつけないと、他人に迷惑がかかる。
いついかなる時も彼女が見ることを許されているのは婚約者のみだ。
他の男はおろか、女であっても視線を注ぐだけでベンジャミンが何をするかわからない。
(なんて窮屈なの……)
これなら家にいた方がましだと心の中で嘆く。
夜会に参加するようになって約一ヶ月。未だに彼女は気の置けない友人どころか世間話ができる知り合いすら作れていない。
「あの男、クレアを見ているな」
冷たい声に空気がピリリと張り詰める。ベンジャミンの目が鋭く歓談する紳士淑女を睨んだ。
人がたくさんいすぎて誰が自分を見ていたかなんてわからなかったが、クレアは慌てず騒がず冷静に、適切な対応をする。
「わたくし以外の方のことをよく見てらっしゃいますのね」
そう言って、つん、と顔を逸らすと、彼は彼女の機嫌をとるように甘い顔をした。
「ああ、ごめん。君以外の人間など塵芥ほどの価値もないよ。気に留めることすら失礼だったね。でも仕方ない。君が愛らしすぎて世の中のありとあらゆる男たちが私の敵なんだ。勿論女性にだって油断できない。君の微笑みはすべてのものを魅了するほど美しい。愛しいクレア、今度は決して間違えない。ああ、早く結婚したい。今度こそふたりで幸せな家庭を築くんだ……」
滔々と、途切れることなく流れるベンジャミンの言葉に戦慄する。クレアを見つめる瞳は得体の知れない感情がぐるぐると渦巻いていた。こうなったらしばらく止まらない。
でもこれで他人に害意を抱くことはなくなるのだ。彼女はひたすら我慢した。
婚約者になったその日から、ベンジャミンは病的なほど彼女を溺愛している。
溺愛が過ぎて彼女に対する束縛が酷いし、些細なことに嫉妬して他人に危害を加える。
彼女が一人前の淑女と認められ、本格的に社交を始めてからは、日に日に過激になっている気がする。
彼の溺愛には理由がある。どうやらベンジャミンは前世の記憶を持ち、そのときに添い遂げられなかった恋人がクレアであるようだ。
しかし、クレアにはまったく前世の記憶はないし、多分その恋人は彼女ではない。
クレアは貴族の中では中堅どころのベネット伯爵家に生まれた。ごく普通のベネット家にはひとつだけ、奇妙な家訓がある。
『我が家に生まれる金髪と緑の瞳を持つ子供の縁談は、慎重に進めること』
というものである。
この言葉を残したのは彼女の曽祖父で、その原因は彼が犯したふたつの過ちにある。
まずひとつめの過ちは彼の妻、即ちクレアの曽祖母を冷遇したことだ。
曽祖父は少年時代にお忍びで出かけた際に出会った金髪緑眼の少女に初恋をした。
たった一度きりの出会い。長らく彼女の素性はわからなかったが、年頃になって見事に再会した。曽祖父は彼女との結婚を望んだが、相手は平民である。身分の壁は厚かった。
家族に反対され、泣く泣く彼女を愛人にし、政略結婚で曽祖母を妻にした。
愛人は美しい金髪と緑眼を持ち、一方の曽祖母は地味な茶髪と緑がかった茶色の瞳をしていたそうだ。
曽祖父と曽祖母の間には男女の双子が生まれたものの、曽祖父は役目は終わったとばかりに愛人宅に入り浸る。
放置された曽祖母は産後の肥立ちが悪く、早逝してしまった。
曽祖父が自分の思い違いに気づいたのは彼女の死後である。
初めて見る自分の子供。男児は彼にそっくりで、女児は何故か初恋の少女に瓜二つだった。
娘は誰に似たのか。当然母親だと曽祖父は考えた。
曽祖母はかつて金髪緑眼をしていて、成長とともに色が濃くなり茶色に変化する少し珍しい特徴を持っていた。
彼女こそが曽祖父の初恋の少女であり、愛人は曽祖父の美貌と爵位に目が眩み、適当に話を合わせて彼に取り入っただけだったのだ。
それを知った曽祖父は大いに後悔し、せめてもの償いに遺された子供たちをそれは大切に育てた。
しかし、再び彼は過ちを犯してしまう。
双子が年頃を迎えると、彼は他の貴族たちと同じように婚約者を用意した。
ほんの少し他所の家と違ったのは家の利益よりも子供たちが気に入った相手を選んだことだ。曽祖父は自分の分まで子供たちに幸せになって欲しかった。
しかし、その願いは裏切られることになる。
曽祖母と同じ特徴を持つ娘、アイラが毒殺されたのだ。
犯人は彼女の婚約者である。男爵家の三男である彼には初恋の想い合う女性がいた。同じ男爵令嬢の彼女と添い遂げるためには身分が高く、逆らえないアイラが邪魔だったのだ。
だが、彼もまた曽祖父と同じく初恋の相手を取り違えていたことが後に判明する。
彼は国で禁止されている毒物の密輸と、伯爵令嬢を殺害した罪で死刑になったそうだが、刑場に現れた時にはすでに発狂していたらしい。
そんな、ふたつの過ちを犯してしまった曽祖父は憎い娘の仇の死を見届けることなく亡くなった。
今際の際に例の家訓を言い遺して。
クレアはまさに曽祖母譲りの変化する金髪緑眼に生まれついた。
まだアイラの片割れである祖父が健在であったので、彼女の将来は家族全員に大層心配され、婚約をどうするか議論は紛糾した。
その結果、子供の頃からずっと交流を続ければあんなことにはならないだろうとクレアと同じ年頃の子供をたびたび招待し、そこから選ぶことに決定したのだ。
身分は気にせず、クレアと相性の良い相手を、と。
結婚まで顔を合わせることすらない夫婦もいる中、とても贅沢なお見合いだった。
しかし、そこに突然グリフィス公爵家からの縁談が持ち込まれる。
当時、クレアは八歳、ベンジャミンは十歳。
家に招いていたのはベネット家と付き合いのある近しい爵位の者たちばかりだったので、関わりは一切なく、名前すら知らない。
なのに、彼は出会ったその日から異常なほどの愛情を彼女に抱いていたのだ。
グリフィス公爵夫妻は一度も会ったことのない令嬢に執着する息子に困惑していた。
クレアの家族も戸惑っていたが、同時に安心していた。
これだけ溺愛していたら過去のふたりのようにはなるまいと。
ちゃんとクレアの髪と瞳が成長で変化することを説明しても表情を変えないベンジャミンをますます気に入った様子で、あっさりとふたりの婚約は成立した。
当時のクレアは自分のことなのに、頭の上で決まっていく話に不満だった。
ベンジャミンに婚約を申し込まれる前にある令息との婚約が決まりかけていたのだ。
しかし、グリフィス公爵家がクレアの家には逆らえない権力を持っているのは理解していたので、渋々受け入れた。
ベンジャミンは眩しいほどの美形であるし、ありとあらゆる言葉を使ってクレアを褒め称えてくれる。理想的な婚約者だ。
しかし、どんな褒め言葉もクレアが惹かれた令息の言った「リスみたいにかわいいね」より心に響かなかった。
それに、いつしかベンジャミンはクレアを見ているようで、見ていないと気づいたのだ。
その頃にはベンジャミンの異常な態度に慣れつつあったので、早口で褒められつつまばたきもせずに見つめられても冷静に観察できた。
ベンジャミンが詳しく事情を打ち明けてくれたことは一度もない。
ただ、早口の中に時々混じる情報を拾い上げていくと、彼は前世の記憶があり、その時添い遂げられなかった恋人の名がアイラであることぐらいはわかった。
悲劇の死を遂げた大叔母と同じ名である。
世間的に前世は「あるかもしれない」程度の曖昧な話だ。
クレアもあまり信じてはいなかったが、身内が関わっているかもしれないと思うと、俄然興味が湧いてくる。
耳を上滑りする薄っぺらい褒め言葉を聞くのは苦痛だったが、一言一句聞き逃さないように集中するようになった。
その結果わかったことは、ベンジャミンはアイラの婚約者の生まれ変わりで、彼女を殺してしまったことを大変後悔している。
今世では必ず結婚したいとアイラと同じ特徴を持つクレアと婚約したということだった。
彼女がベンジャミンから受けた印象は間違ってはいなかった。彼が求めているのはあくまでアイラなのだ。
何故かベンジャミンはクレアがアイラの生まれ変わりだと確信しているが、ふたりの共通点はベネット家の娘ということと、髪と瞳の色が同じなことくらいである。それ以外の体型や顔立ちはまるで似ていない。
それにクレア自身はベンジャミンに一切運命的なものを感じていなかった。
アイラがベンジャミンをどう思っていたかは知らないが、好きでも嫌いでも何かしら感じるものがあると思うのだ。
なのに、彼のように前世の記憶が蘇ることもなく、胸が苦しくなったり、ときめくこともない。
クレアの中のベストオブ胸キュンの地位は「リスみたいにかわいいね」のままだ。
でも、ちょっとおかしなところがあるだけで、ベンジャミンは変わらず非の打ち所がなく、誠実である。
大人が近づくにつれ、クレアは彼を愛する努力をしようと誓った。
彼女はいつまで経っても己がアイラという自覚が湧いてこない。しかし、別の女性がアイラと名乗り出ることもなかったのだ。
本当のアイラが現れず、ベンジャミンがクレアを望み続けるなら結婚する他ない。
クレアはベンジャミンのような愛し方はとても無理だが、親しみを持って接することはできた。
多分、ベンジャミンの運命ではないが、別に運命でなくても幸せにはなれる。
そう思っていたのだ。
(やっと解放された……)
グリフィス公爵に連れられ、ベンジャミンが傍を離れてクレアはホッと一息ついていた。
彼がどれほど彼女を溺愛していようともやらねばならないことがある。ベンジャミンは公爵家の跡取りなのだ。
それは将来公爵夫人になるクレアも同じである。
しかし、彼女にはもういかんともしがたかった。
ぽっかりとクレアと周りの人々との間に開いた空間に視線を落とす。ぐるりと会場を見渡すが、誰とも目が合わない。
社交界に出るようになってたった一ヶ月。早くもクレアは「お触り禁止」物件と化していた。
それもこれも彼女に近づく者すべてを威嚇するベンジャミンのせいである。
このままでは貴族夫人としての役割を果たせないが、もはや諦めていた。
こうなってしまったのはベンジャミンのせいだ。それならグリフィス公爵家がなんとかすべきである。もうそうやって開き直っていた。
クレアはいつものように時間を潰すためにバルコニーに出た。壁の花で居続けると近寄っては来ないのに視線だけは浴びて苦痛なのだ。
春を少し過ぎた今の季節は程よい涼しさで、熱気に満ちた会場にいたせいかとても気持ちが良い。空は晴れて、三日月と星がはっきりと見えた。
「あの……。少しよろしいかしら」
「は、はいっ?」
まさか声をかけられるとは思っていなかったクレアは動揺のあまり声が裏返ってしまう。
振り返り、話しかけてきた人物を見て驚愕する。第一王女のオーロラである。
慌てて礼をとると、彼女は「気楽にして」と言った。
「わたくしの話し相手になってくださる?」
「は、はい。勿論です」
長い銀髪に深い葡萄色の瞳の美貌の王女は、淑やかにそう頼む。クレアに否やはない。
彼女は数少ないベンジャミンより位の高い人物だ。もし彼の不興を買っても小揺るぎもしない立場にある。
もしかしたら、ベンジャミンのせいで完全に浮いているクレアに気を遣ってくれたのかもしれない。
噂に違わぬ心優しい王女のようだ。
我が国にはひとりの王子と、ふたりの王女がいる。オーロラは姉弟の一番上で、確かクレアと同じ歳のはずだ。
しかし、そうとは思えない程落ち着いた雰囲気と会話ですっかりクレアの緊張を解きほぐしてみせた。
流石王女である。一人前の貴族夫人のような貫禄だ。
「あなたは、グリフィス公爵令息と婚約しているのよね?」
「はい。子供の頃からの婚約者です」
「そう。……その、とても仲がいいのね」
「ええ。何故かとても気に入っていただけています」
「す、素敵ね……」
自分からベンジャミンを話題にしたのに、オーロラは突然今までの振る舞いが嘘のように視線をうろうろ彷徨わせ、挙動不審になる。落ち込んでいる様子に気分を害してしまったかとクレアは焦った。
もしかして、オーロラはベンジャミンに好意を寄せているのだろうか。
クレアは別にまったくベンジャミンに執着していないので、婚約解消も吝かではない。
身分的にもクレアよりオーロラの方が釣り合いが取れるし、あの束縛から解放されるならむしろ喜んで解消に応じる。
そう伝えようとしたところで、ふと、王女の顔が気になった。どこかで見覚えがあるのだ。
つり目がちで、一見するときつく見えてしまう顔立ち。「こんな顔だが、おっとりした優しい子だったんだよ」という祖父の声が耳に蘇る。
「王女殿下、アイラという名前に聞き覚えはございませんか?」
クレアは思わず問いかけていた。
驚愕と共に顔を上げた彼女の顔はやはり大叔母の面影がある。
実に荒唐無稽な話であるが、クレアは確信していた。
オーロラはアイラの生まれ変わりだ。
「ど、どうしてわかったの……」
激しく狼狽するオーロラを見て、また「隠し事が苦手でね。顔に出るし自分から白状してしまうんだ」という祖父の声が聞こえた気がした。
夜会で込み入った話などできないので、ふたりは文通をする約束をして別れた。
別室に移動して話すという手もあったが、それだとクレアがいないことに気づいたベンジャミンの反応が怖い。
相手が王女であっても遠慮などしない。ベンジャミンはそういう男だ。
まずクレアからどうしてオーロラの正体に気づいたか、それとベンジャミンのことについて書いて送った。
かなり分厚くなってしまった手紙を送ったあとで、もしかしたら検閲をされたりするのではと青くなる。かなり詳しいことを書いてしまったのだ。
そわそわしながら待っていた返事は翌々日には届いた。彼女の送ったものと同じくらい分厚い手紙だ。
そこにはアイラがオーロラになるまでが綴られていた。
前世の死は突然すぎて何が起こったのかほとんど覚えていないこと。記憶は最近思い出して、自分が死んだ後ついて調べたのもここ数ヶ月のことだということ。
そして、殺されたとしても、今もベンジャミンを愛しているということ。
ふたりは幼少期に避暑地で知り合ったそうだ。
ひと夏の思い出。それはありきたりかもしれないがアイラの心に深く刻み込まれた。
今も鮮やかにその記憶を思い出せるし、むしろ忘れられないらしい。
もし本当にベンジャミンもアイラを想ってくれているなら今度こそ添い遂げたい。
しかし、ずっと婚約していたクレアに申し訳ない。
赤裸々に心情を語った手紙にクレアは感銘を受けた。
こんな運命がこの世に存在するのだ。
ひとつの過ちによって壊れた恋人たちが生まれ変わってやり直そうとしている。
まるで恋愛小説のようなシチュエーションに興奮したクレアはオーロラに全力で協力することを決めた。
オーロラがこの文通は彼女の侍従以外には秘密だと教えてくれたので、自分の正直な気持ちを手紙に書き、送った。
前々からアイラではないのに彼女として扱われることに罪悪感があったのだ。オーロラには心置きなくベンジャミンと添い遂げてほしい。
恐縮するオーロラを励まし、ベンジャミンと接触するように勧めた。
彼もあんなにアイラに執着しているのだ。本物と出会えばすぐ気づくに違いない。
クレアの予想通り、オーロラから「ベンジャミンに話しかけてみる」という手紙が届いたあとから、毎日あったベンジャミンの訪問が途絶えた。
オーロラからの手紙も届かなくなり、グリフィス公爵家へ呼び出しもなくなった。
時々ある夜会へのエスコートの時だけ顔を合わせるが、彼の態度は今までの溺愛ぶりはなんだったのかと思うくらいそっけない。
会場に着いたらダンスもせずに離れていくのだから露骨だ。
クレアはそれに落ち込むことはなく、むしろ順調らしいとご機嫌でバルコニーや庭で時間を潰している。
家族や周囲の者は百八十度変わったふたりの関係に動揺しているようだが、特にクレアに何か言ってくることはない。
ベンジャミンの激変についていけていないのだろう。このまま人々がクレアに事情を尋ねてくる前にオーロラとうまくいってほしいものだ。
その日も、クレアは会場を離れて夜の庭を散策していた。
バルコニーや庭は人目が少なくトラブルが起きやすい場所だが、薄暗さに慣れて若干夜目がきくようになったクレアにはなんら問題ない。
気配にも敏感になって、人がくれば相手よりも先に気づくし、隠れる場所も一瞬で見つけられるようになっていた。
基本的に知り合いがいないため、先客がいても声はかけないのだが、その日は違った。
「ごきげんよう」
クレアが挨拶をすると彼女と同じく庭を散策していた青年が振り返る。
見間違いではなかったことに安堵してクレアは微笑んだ。
突然話しかけられ、目を丸くした青年は見覚えのある懐かしい顔をしていた。
「もしかして、クレアか? クレア・ベネット?
あ、すまん。俺のこと覚えてるか? 子供の頃よく遊んだんだが……」
「覚えてるわ。久しぶりね、ロドニー」
そう答えると彼は破顔した。
鳶色の癖のある髪に優しい薄茶色の瞳。無邪気な笑顔に幼い日の面影を感じて嬉しくなる。
彼はロドニー・スコット。かつてクレアの婚約者候補として遊んだ仲だ。そして「リスみたいにかわいいね」と褒めてくれたのも彼である。
クレアより三つ年上のロドニーは他の候補者に比べると落ち着きがあり、年下の少女の相手も嫌がらずよく遊んでくれた。
穏やかで優しく話しかけてくれるロドニーが、クレアは大好きだったのだ。
あの頃、裕福な子爵家の嫡子でクレアが一番懐いていたロドニーと婚約が決まりかけていた。
ベンジャミンが割って入ったせいでその話は流れてしまった。
ロドニーとはあれ以来顔を合わせることはなかったのだが、一目でクレアだとわかってくれたらしい。
「よくわかったわね。昔の知り合いはみんなわたしのことに気づかないのに」
「嘘だろう、昔のままじゃないか。あいかわらず、リスみたいにかわいい」
「うふふ……。そう言ってくれるのはロドニーだけよ」
久しぶりのその言葉に頬が熱くなり、胸が暖かくなる。
侍女たちに話すと「それは褒め言葉ですか?」と変な顔をされるが、クレアが嬉しければ褒め言葉なのだ。
「ロドニーはひとり? お連れの方は?」
「妹をエスコートして来たけど、中で素敵な殿方を物色してるんじゃないか?」
「え? 婚約者は?」
「いないよ」
その言葉にクレアの胸が高鳴る。
このままうまくオーロラとベンジャミンがくっついてくれれば、ロドニーと婚約することができるかもしれない。
一度はロドニーと結婚するつもりになっていたから、クレアは彼にずっと未練があった。
どくどくと激しく暴れる心臓を宥めるように深呼吸した。
落ち着かなくてはいけない。まだふたりがどうなるかはわからないし、ベンジャミンとの婚約を解消したクレアは傷物、とまではいかないが、悪い印象がついてしまう。
ロドニーはクレアに気づいてくれたが、婚約を受け入れてくれるかはわからないのだ。
「具合悪そうだが、お前の婚約者を呼んでこようか」
「だ、大丈夫! 平気よ。ベンジャミン様はお忙しいようだからわたしのことで煩わせたくないわ」
取り繕うように笑顔を浮かべるとロドニーは一瞬眉を顰めたが、それ以上この話題を追及することはしなかった。
「……それにしても、本当に髪も目も色が変わるんだなぁ」
「全然違うでしょ? 自分でもちょっと不思議なの」
「仔猫みたいでかわいいな」
「かわ、いえ……。猫も色が変わるの?」
「ああ。生まれたての時はみんな青い目をしてるんだ。大きくなるとそれぞれの色に変化する」
「そうなのね。初めて知ったわ」
その後はずっとロドニーと話していた。
体は大きくなったが、昔のままの気取りない態度は肩肘はらずに付き合えて心が和む。
やっぱり、クレアはロドニーが好きだ。
(大叔母さま、早くベンジャミンさまとくっついてくれないかなぁ)
今は婚約者がいないようだが、ロドニーのように優しい男は人気がありそうだ。
貴族の結婚は義務だと言うなら、その相手は好ましく思っているロドニーがいい。
早く婚約を結ぶ相手として名乗りを上げられる立場に戻りたいと、切実に思った。
「クレア・ベネット。君との婚約を破棄する」
クレアの待ち望んだ言葉がベンジャミンの口から出たのは大叔母と出会ってから二ヶ月後の、またしても王宮の夜会でのことだった。
彼女は呆然とした。
こんな公の場でそんな宣言をしたせいではない。
(と、隣のその女は誰よ!?)
混乱するあまり彼女はまるで嫉妬深い女のようなことを思ってしまった。
クレアの目の前には冷たい眼差しのベンジャミンとそこにしなだれかかる若い女。
輝く金髪に鮮やかな緑の瞳の可憐な美少女は、明らかにオーロラとは別人だった。
一体どこから湧いて出たのかと思わず凝視してしまう。見知らぬ彼女は怯えるようにベンジャミンに擦り寄った。
「カロラインを睨むな」
「申し訳ございません。睨んだつもりはないのです。お会いしたことのない方なので、ついじっと見てしてしまいました」
「う、嘘吐かないでください! わ、わたしあなたにたくさん嫌がらせをされました!」
「は?」
まったく記憶にないことを糾弾されて思わず低い声が出る。
ベンジャミンが忌々しそうにクレアを睨み、カロラインを庇う。
「よくも僕の運命を痛めつけてくれたものだ。アイラのふりをしていたことも許しがたい。覚悟をしておくことだな」
(お前の運命、そいつじゃねぇよ)
あまりにも見当違いの言葉に心の中で汚い言葉使いをしてしまった。
ベンジャミンの運命はオーロラである。
それからクレアはアイラを自称したことは一度もない。自分の思い込みを人のせいにしないでほしい。
それにしても以前は前世のことを人前で話さないくらいの分別はあったのにどうしたことだろう。クレアとふたりきりの時のように言葉の端々に滲んでいる。
気になることはたくさんあるが、クレアは婚約がなくなるなら大歓迎だ。これ以上関わり合いになりたくないし、さっさと話を終わらせることにした。
「婚約の件、了解いたしました。両親に伝えておきます。それから嫌がらせについてはわたくしにはまったく心当たりがないことです。どなたか別の方と勘違いをされているのでしょう。
では失礼します」
「待て! お前は前世で僕を誘惑し、アイラと引き裂いたあの悪女の生まれ変わりだな! お前のせいでアイラは死に、僕は地獄の苦しみを味わわされたのだ。ただでは済まさんぞ!!」
一歩遅かった。完全に前世についてぶちまけたベンジャミンが原因で彼らを囲む人の輪の円周が一回り広がる。
好奇の視線も趣を変え、疑念や、未知の生物を見るような恐れが混じる。ひそひそと囁き交わす騒めきがその場を包んでいく。
絶対同類とは思われたくない。
「なんのことでしょう。前世なんて言われてもわたくしにはさっぱりわかりません」
「しらばっくれるつもりか?」
「しらばっくれるも何もそんな記憶はございません。ベンジャミンさまと違って」
最後の部分を強調し、こいつとは違うと聴衆に向かって全力で主張する。ジリジリと後退り、戸惑うような所作をすることも忘れない。
ベンジャミンにしなだれかかったままのカロラインは思わぬ方向に話が進んで目を白黒させている。
アイラを詐称したなら知っているはずなのにと内心首を傾げた。
「何を騒いでいるのです」
さらに言いつのろうとしたベンジャミンを涼やかな声が遮る。
(お、大叔母さま!)
本物のアイラの登場である。
しかし、運命の恋人を前にした彼女の表情は冷ややかで、ベンジャミンもその眼差しに怯むだけだ。恋人同士の甘やかな雰囲気は微塵もない。
「グリフィス公爵令息。あなたは何をしているのですか。公の場でそのような話をするとは、正気とは思えません」
「いや、その」
「言い訳は無用。今回のこと以外にも話は色々聞いています。あなたは公爵家の後継としての自覚が足りないようですね。グリフィス公爵によくよく言っておきましょう」
王女らしい威厳溢れる態度で彼女は言い渡す。
流石のベンジャミンも正気に戻ったのか礼を取って恭順を示す。オロオロしていたカロラインもそれに倣った。
ベンジャミンがオーロラの正体に気づく様子はまったくない。
「クレア、わたくしの話し相手になってくださる?」
三人を代わる代わる見ていたクレアにオーロラが優美に微笑み、初めて会った時と同じことを頼む。
またしても恋人に気づかれなかったというのに、その顔に不思議と翳りはなく、むしろ爽やかだ。
クレアは混乱したまま一礼してそれに従った。
いつかのようにふたりでバルコニーに出る。
今日は見事な満月で、星は出ているが月の明るさに負けてよく見えない。
その代わりに地上がよく見えた。王宮の庭は青葉が盛りで濃い緑と夜露の匂いがした。
「大叔母さま、あれでよかったのですか?」
ついそう呼んでしまって口を押さえる。手紙では許されても誰か聞いているかわからない場で言っていいことではない。
オーロラはクレアを責めることなく、おっとりと微笑み「これからはオーロラと呼んで」と言った。
「わたくしね、あなたに応援されて頑張ってあの方に話しかけたの。
でもさっぱり駄目。わたくしに気づいてくださらなかった。昔のことを匂わせてみたのだけれど、そもそもわたくしの話をまったく聞いていないのね。髪と瞳の色が違うせいかしら」
クレアは頭を抱えた。ベンジャミンはあれほどアイラに執着しているのに何故気づかないのか。
ベネット家に生まれただけのクレアをアイラと思い込んだり、まったく関係のなさそうなカロラインをアイラと勘違いしたり、見当違いも甚だしい。
そもそも初恋の相手を取り違えて殺害している男なので、見る目がまったくないのだろう。
「その、お、オーロラさま……」
「大丈夫よ。むしろ踏ん切りがついたわ。あの方のことは愛していたけれど、縁がなかったのね。
わたくしはもう、アイラではなくオーロラ。今は王女だもの。この国のために生きるわ」
そう言い切ったオーロラの顔は清々しさに満ち溢れ、今までで一番美しかった。
本当に吹っ切れたようだ。
想定とは違う結末を迎えたが、クレアは婚約がなくなって満足しているし、オーロラがこの結果で納得しているなら言うことはない。
「わたくしの背中を押してくれてありがとう、クレア。もう悔いはないわ」
「いえ、大したことはしていません」
「そうそう、文通を途中でやめてごめんなさい。あまりにもベンジャミンに相手をされないから不甲斐なくて報告できなかったの。
また再開したいし、お友達になってほしいわ」
前半を聞いて本当にベンジャミンは何をやっているんだろうと呆れ、後半で飛び上がる程喜んだ。
「わたしでよければ喜んで!
あの、早速お願いがあるんですが」
「なぁに? なんでも言って」
「祖父に会ってくださいますか?」
クレアがそう頼むとオーロラは黙り込む。僅かに眉を下げた。
「……お兄様、わたくしのことがわかるかしら?」
「わかりますよ! 孫のわたしが気づいたんですから絶対大丈夫です」
「そうね。……わたくしもお兄様に会いたい」
ほろりと花びらが落ちるような微笑みを見て、クレアは胸を撫で下ろす。いつか必ず提案しようとずっとタイミングを窺っていたのだ。
母親と妹を早くに亡くしたことは祖父に深い傷を残し、そのせいか誰よりもクレアのことを心配していた。
もはや血の繋がりはないが、非業の死を迎えた妹の生まれ変わりが元気に生きていると知れば少しは救いになるだろう。
ふとクレアは視線を室内へ向ける。
眩しいほど明るい会場の中心で、ベンジャミンとカロラインが踊っていた。王女にあれだけ叱責されたのになんとも思っていないようだ。
ベンジャミンはクレアが隣にいた時と同じく幸せそうに微笑んでいる。
彼の運命の恋は始まる前に終わってしまった。しかし、ベンジャミンは現状に満足しているらしい。
何故かカロラインの顔は引き攣って見えるが、気のせいだろう。
(結局、運命ってなんなのかしらね?)
ベンジャミンは至上のものとしていたが、普通の恋愛と別に何も変わりない。
もっとロマンティックなものだと思っていたため、クレアは残念だった。
でも、ベンジャミンの恋が成就してくれたおかげでクレアは明日から自由である。
「……よかった。ショックは受けていなさそうね」
「はい! これから何をしようかと考えるだけでわくわくします」
「まぁ」
はしゃぐクレアにオーロラはクスクス笑った。
社交のシーズンは終わり、季節は秋を迎えた。
風が冷たくなるごとに色づく紅葉が美しい公園で、クレアはゆっくり散歩をしている。
ひとりではなく、婚約者と一緒だ。
「そろそろ渡り鳥が旅立つな。ほら、みんなで飛ぶ練習をしている」
「すごくたくさんいるわ。どうしてこんなにまとまって旅立つのかしら?」
「その方が安全だからだ。群れでいると敵に襲われても狙いが定めにくい。それに遠い国まで翼ひとつで行くんだ。ひとりより、みんなの方がいいのさ」
「鳥たちも励まし合っているの?」
「どうだろうな。鳥の言葉はわからない。ただ、ああやってまとまって飛ぶと気流ができて後方の鳥は楽に飛べるらしい」
「まぁ。そんなことを知ってるなんて鳥とロドニーは物知りね」
彼女をエスコートする男を褒めると、彼は無邪気な笑顔を浮かべる。
子供の頃と変わらない、クレアの心を暖める笑顔だ。
あれからすぐにロドニーからの申し入れがあって、ふたりはすんなり婚約した。
ベンジャミンとの婚約破棄でクレアが先祖ふたりと同じ運命を辿るのではと心配していた家族は諸手を挙げて喜んだ。
クレアも自分から告白する前にロドニーに求婚されて嬉しかった。
ロドニーの家族であるスコット家の人々は優しく、あのベンジャミンの振る舞いを知っていたため「変な人に当たって大変だったね」と、慰めてくれた。
周りの人に恵まれ、ロドニーとの仲もいたって順調で、クレアは幸せ者である。
一方のベンジャミンもあっさりカロラインと婚約した。
カロラインはクレアと同じ伯爵令嬢だ。但し、妾の産んだ娘である。しかし、それはあまり問題にされず、ふたりの婚約後グリフィス公爵家は親戚の青年を養子にとった。
正式に発表されてはいないが、ベンジャミンは後継者を外れたということだ。
グリフィス公爵は親バカではあるが、無能ではない。王女に苦言を呈されたこともあるが、公の場で騒ぎを起こした息子に公爵の資質はないと判断した。
今後のふたりは少しずつ社交界から姿を消していく。結婚と共に公爵家の持つ爵位のひとつを受け継ぎ、領地に送られる予定らしい。
一応ベンジャミンは領主になるが、お飾りだ。公爵家の抱える優秀な人材に支えられ、末永く豊かで何もしなくていい生活が約束されている。
グリフィス公爵は、親バカなのだ。
自分の死後も息子を守る準備くらい、いくらでもする。
そのための財力も権力も彼は備えている。クレアに対してもふんだんに慰謝料を払ってくれた。
家同士の取り決めもあるから受け取ったが、クレアは慰謝料に関しては少し罪悪感を覚えている。
婚約破棄されても慰謝料を貰うほど彼女の評判は傷がつかなかった。
ベンジャミンとカロラインの印象が強すぎたのだ。
あの時のベンジャミンの言動の異常さに加え、彼は以前から社交界で浮いていた。
それに加えて、カロラインも以前から問題のある令嬢だった。彼女は婚約者がいようとも関係なく高位貴族に言い寄り周囲に顰蹙を買っていたのだ。
だから、ベンジャミンがカロラインを捕獲してくれたことは婚約者のいる令嬢たちからしたら大歓迎だそうだ。
対してクレアは問題児ふたりの恋愛に巻き込まれた可哀想な令嬢と同情されるだけで、特に悪評が立つことはなかった。
むしろ、あの時オーロラに庇われたので王女と懇意だと思われたらしく急に話しかけてくる人が増えて俄かに忙しくなってしまった。
絶望的だったクレアの社交はようやくスタート地点に立てたようだ。
そのオーロラとは約束通り仲良くしている。最近やっと都合がついて彼女をベネット家の領地に招いた。
隠居している祖父に会わせるためだ。
加齢で少し目が悪くなっている祖父だが、クレアが何も言わなくても己の片割れに気づいた。
滂沱の涙を流すふたりにクレアももらい泣きしてしまい、使用人たちは大いに困惑していた。
もうふたりは血を分けた双子ではないが、それで絆が消えてなくなることはない。再び死がふたりを別つまで、私的な交流を続けることは許されるはずだ。
長い別離を埋めるように、オーロラは祖父とかつての故郷を満喫した。勿論、クレアも一緒である。
そのおかげでクレアとオーロラの友情は深まり、文通だけでなく王宮に招かれることも増えた。
恐れ多いことに国王一家とも親しくさせてもらっている。
オーロラと親しくするうちに、彼女の周囲には彼女に思いを寄せる男性がたくさんいることをクレアは知った。
オーロラは今までは前世の恋を引きずって周りを見る余裕がなかったが、これからは違う。
次は幸せな恋をしてほしいと願っている。
「あ、リスがいるなぁ」
ロドニーの言葉に意識がオーロラから現実へ戻る。
彼の言う通り、木々の間をひょこひょこ歩くリスがいた。時々止まってドングリを拾っているようだ。
ほっぺたがパンパンに膨らんでおり、クレアは首を傾げる。
「どうしてリスはすぐごはんを食べないの?」
「今は秋だから冬にむけて食料を備蓄しているんだ。冬眠している間に食べられるように」
「リスも冬眠するの?」
驚いて目を見開く。熊が冬眠するのは知っていたが、リスが冬眠するとは初耳だ。
「するよ。秋に集めた木の実を色んな場所に埋めて、冬になったら巣に籠る。じっとしててもお腹は空くからな。時々外に出て埋めた食料を掘り出して食べるんだ。ひと冬越えなきゃだから、たくさん埋めておかないと」
「埋めた場所を全部覚えてるなんて、リスって賢いのね」
「いや……。いくつか忘れてしまうからそこから次の春に芽が出て、新しい木が生えてくる。そうすると森が広がって、餌が増えたリスはより生きやすくなる」
「まぁ……。世の中ってうまく噛み合ってるわ」
クレアからすると、今回の件もうまく噛み合っていると思う。
どうしてもベンジャミンを愛せなかったクレアは婚約破棄してロドニーという愛する人を得て、前世の悲恋を引きずっていたオーロラはそれを吹っ切ることができた。
高位貴族との結婚を望んでいたカロラインは公爵令息と婚約できたし、ベンジャミンは本物ではなくても運命の恋を手に入れた。
噂でしか知らないが、ベンジャミンはあいかわらず幸せそうにしているらしい。
カロラインの方はどんどん表情が暗くなっていっているようだが、彼女が望んだ婚約だし、将来結婚してからも安楽な生活が約束されているのだ。多分幸せだろう。
「ふふっ」
「どうしたの? ロドニー」
「いや、やっぱりクレアはリスみたいにかわいいと思って」
「そ、そう?」
何度言われても、その言葉を聞くとクレアは胸がぽかぽかするし、顔が熱くなる。
でももう今は「リスみたいにかわいい」がベストオブ胸キュンではない。
クレアのときめく言葉は毎日ロドニーによって更新されていく。
多分、これから先もずっと。
病んでも駄目な人はいるよね、と思いまして。
髪や目の色が変わるのは猫ちゃんみたいでかわいいと思います。