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最後の祈り  作者: Yuki-N
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聖也①

 海からの強い風が、細川聖也のシャツをはためかせている。午後の陽は緩やかに高度を下げ、少しずつ黄色味を増している。

 海沿いの断崖上、遊歩道は吊り橋で小島へと繋がり、渡ってから二十メートルも登ると木立が開けて小さな展望台に出る。ベンチ一つない寂れた場所だが、周囲をぐるりと海に囲まれている。

 ここで、ずっと海を見てきた。

 七歳の聖也は、五歳の真由と手を繋ぎ。十歳の聖也は、八歳の真由にシャツの裾をつかまれて。十三歳の聖也は、十一歳の真由と並んで。

 いつも真由と一緒だったが、いま、聖也は独りでそこに立つ。真由はいない――。

 聖也は小さな子供の頃から、長い休みごとに、伯父が別荘を持つ伊豆の外れのこの土地へ来た。特に展望台は、聖也の「聖地」とも言うべきお気に入りの場所だった。

 城島真由は、近くに絵描きの祖父と二人で住んでいた。絵描きといっても、老人・城島健介はプロではなく、現役時代は大物財界人であったと後で知った。聖也が幼い頃は、取っ付きにくいただの年寄りだと思っていた。

 その老人が死んだのは聖也が十五の時で、真由は十三だった。老人の屋敷は閉鎖され、真由は聖也の前から消えた。

 真由との唐突な別れは、聖也に大きな後悔をもたらした。あれから十五年が経ち、四季が繰り返し移ろっても、聖也は時間ができるたび、ここへ帰ってくる。

 真由はいなくても、真由との思い出と、この風、この光、この香りが、聖也を待っている。だが――。


 聖也は短い夢を見ていた。展望台の夢。いま、目を開けた聖也を包むのは、午後の陽光でも、太平洋を渡る風でも、崖下から舞い上げられてくる潮の香りでもない。宇宙の闇、遠くの星々からのささやかな光。

 まだ計器は正常に機能している。室温と酸素を保つエネルギーも、七日は持つ計算だ。聖也が乗っているのは緊急用脱出ブースではなく、短距離移動が可能な小型船だった。

 母船は既にない。小型船で聖也とクレイグ・ボルトンが衛星測定のための作業に出ている間に、母船からSOS信号を受電した。二人は急遽作業を中断して母船に戻ろうとしたが、間もなく母船は内部、おそらくはエンジンブロックからの爆発により大破した。二人は、モニター越しで、軌道を外れて火星へと落ちていく母船を見送った。聖也たちの乗る小型船からは十分な距離があり、母船の爆発に巻き込まれることがなかったのは幸運といえた。

 ただし、母船の爆発から一時間もしないうちに、小型船の通信機器が機能しなくなっていることが分かった。それは即、完全な孤立を意味した。聖也たちは通信機器の修理から始めて出来る限りのことを試したが、実を結ぶことはなかった。小型船の推進力、エネルギー、いずれもごくささやかなものであり、航続距離は短く、地球はもちろんもっとも近くにいる探査船にも到達しない。たとえ通信機能が回復したとしても、別の探査船は遠く、救助には最低数か月を要するだろう。そのずっと前に船は生存環境を維持できなくなる。もはや、やれることは何もなかった。祈ること、夢を見ること以外には。

 そうと知れると、クレイグは梶を地球に向けた。漂流の果てに、運が良ければ二人の死体は遥か未来のいつかに地球へと辿り着き、回収されることだろう。

 母船が堕ちてからまる二日が経ち、時間の感覚も曖昧になってきている。

「夢を見ていた」

 聖也が呟くと、

「どんな夢だ?」

 とクレイグが聞いてきた。

「昔の夢だよ。子どもの頃、夏休み、冬休み、春休みと、いつも過ごした場所だ」

「聖也が死んだら還っていく場所だな」

「相変わらず、詩人っぽいことを言う」

 クレイグは、探査ミッション中でも隙間時間が出来ると、タブレット端末で詩を綴った。海洋連邦が誇る天才エンジニアは、ほかのクルーに冷やかされると、「本当は詩人になりたかったのさ」と言った。クレイグは、天才であるだけでなく、もじゃもじゃ頭でマッチョで、酷い音痴で鼻歌をがなりたて、そして、故郷イングランドでエバーグリーンと呼ばれる緑の丘をこよなく愛する男だった。

 聖也もイングランドのケンブリッジ大学で研究生活を送っていたことがあり、かの地のエバーグリーンの美しさはよく知っているが、クレイグの詩はとても写実的で、留学時代の光景――初夏の緑の美しさのみならず、朝霧が煙る川面、ハクチョウたち、教会の尖塔、自転車で走り抜ける学生たちの姿までを鮮やかに思い出させてくれた。写実性の裏には、驚くほどナイーブな抒情性も眠っているのではないかと感じられたが、それもまた、外向きはごりごりの科学者であるクレイグの、別の一面であるのだろう。

「聖也が夢に思い出すその場所は、どんなところだ?」

「海だよ。海に囲まれた展望台だ。いつも強い風が吹いている」

 クレイグは目を閉じた。想像しているのだろう。

「聖也は、そこに一人でいるのか?」

「――いや」

 聖也はちょっと逡巡してから、

「女の子がいた」

「聖也は独身だったよな。彼女は君の恋人だったのか?」

「もう十年以上前に真由は僕の前からいなくなった。それきり会っていない。僕はまだ中学三年生で、真由は中学一年生だった」

「引っ越し先は聞かなかったのか?」

「急なことだった。真由は祖父と二人で海沿いの別荘地に住んでいて、その祖父が急死して、それで親戚に引き取られたと後で近所の住人から聞いた」

 聖也は嘘をついた。

「手掛かりは?」

「――どうだろう。何か、あったかもしれない。僕が大人であったなら、真由の行方を辿るだけの知恵も行動力もあったかもしれない。でも、あの頃の僕は、世間知らずの理科オタクの中学生で、だからどうしようもなかった」

 ――そう、どうしようもなかった。そこだけは、真実だ。

 真実? 本当に真実だろうか? やりようは、無かったのだろうか?

 それはあの夜以来、繰り返し問い続けてきた疑問であり、それに対しては、「どうしようもなかったのだ」と自分を納得させるしか、ありえないのだった。何度、ほじくりかえしたところで、それこそ、もうどうしようもないのだから。

 十五年の歳月に埋められ、そして僕がここで宇宙に消えていくことで、もはや、あの場所で二人で過ごし、語りあったという事実さえ、無かったことになってしまうのだろう。僕も真由もいなくなり、記憶も失われ、それでもあの場所には海からの風が吹き続ける――。

「聖也?」

 クレイグは、聖也の心の揺れを見逃さず、怪訝そうに覗き込んでくる。明るいブルーグリーンの瞳。海の色。夏、真上から陽光が降り注ぐ浅瀬の。真由と遊んだ、美しい海。吸い込まれそうになる。時の淵に。


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