知力バフありますがいかがですか?
ご主人様が突然、平原のど真ん中で呆けたように立ち止まって、それからぽつりとつぶやいた。
「あ、オレ、レベルアップしたわ」
「レベルアップですか?」
わたしはすぐに反応する。
ご主人様の言葉は知力が高い状態のわたしでも理解ができないものだった。
サージも頭をひねっているから、たぶん、知らない概念なのだろう。
「レベルアップというのはだな……、成長のことだよ。中身ぜんぜん成長してねーけどな」
「ふへー?」
「おまえ、知力回復しているのに、そんなアホ面かますなよ」
「すみません」
「で、主様よ」サージがここぞとばかりに口を開く。「そのレベルアップとやらで何ができるようになるんじゃ」
「ちょっとまて、いまから確認するから。ステータスオープン!」
ご主人様が謎の単語をつぶやくと……。
なにも起こらなかった。
ひゅるりと風が吹いて、ご主人様の失見当識を疑う。
若年性はまずい。
これから先の人生は長いのに、誰が養うというのだろう。
障害持ちどうしで人生生き抜くとか、どんなハードモードだ。
「ああ……、おまえらには見えないのか」
ご主人様はひとりで納得していた。
「ううむ。なにかしら魔力回路が働いているのは見えるのじゃが」
「見えません」
「これは創造神から与えられたチートだからな」
「え、チートって神様由来のものなのですか?」
驚きの新事実。
だが、驚くべきことでもないのかもしれない。
わたしの物理的にぶっこわれた頭を回復させるのは、わたしが知っている限りでは、神の秘薬と呼ばれているエリクシールしかできない。
で、そんな伝説上の秘薬がそこらに転がってるわけもなく、わたしのような奴隷に使う人がいるわけもなく、事実上、ご主人様しか、わたしを回復することはできないのだ。
「エルフの秘薬でも修復不可能な瑕を治すとは、やはり神の力であったか」
サージもそんな感じで、納得というか賞賛というか、そんな感想を抱いているようだ。
ご主人様はしばらく虚空を見つめていた。
なにやらそこに不可視の石版かなにかがあるようだ。
「ふむふむ。なるほどな……、クリア。どうやらおまえの頭をもっと良くすることができるらしいぞ」
「もっと頭をよくですか?」
「そうだ。オレのグレイト・ヒールにバフがのるようになった」
「バフ……?」
バフバフ?
「バフというのは、そうだな。なんらかの能力を底上げする力のことだ」
「一般的には補助魔法という分類になるな」
サージはやはりエルフらしく、魔法に詳しいらしい。
「知力があがるということですか」
「そうなるな」
「え、でも今が平均値なんですよね?」
「いまのおまえのIQは127くらいはあるぞ。平均より少し上だな」
「それが、どれくらいの数値になるんです?」
「使ってみないとわからないな」
「え、いや、怖いんですけど」
「じゃあ、バカのままでいるか? オレはあまり器用じゃないからバフについて調整するとか無理だぞ」
「そんな、なにが起こるんでしょうか。知力がいきなり倍になっちゃたら」
「いまでも、既にそれに近い状態なんだから気にするな」
「そんなぁ」
なんて不安なのだろう。
これなら、初体験の不安のほうがまだ期待感あってよかった。
いまはただただ不安しかない。
なにしろ、わたしは白痴と正常な精神を交互に繰り返しているが、それはわたしという存在がいかに脆いかを思い知ることになったからだ。
この不快さは、おそらく誰にも伝達できない。
だが、あえて、言葉にしよう。
少し昔の話になる。
わたしが奴隷になる前は、齢が70歳に近い村長がわたしの面倒を見てくれていた。
わたしは孤児で、誰もわたしのことを見てくれる人はいなかったからだ。
わたしは村長といっしょにふたりきりで暮らしていて、村長は村はずれにある果物屋さんにいっしょに行っては、真っ赤で瑞々しいリンゴを買ってくれた。
わたしは意味もわからずにリンゴを受け取り、それから幼子心地に「ありがとう」と述べる。
村長はしわだらけの、しかし暖かな手の平で、わたしの頭を撫でてくれた。
村長はわたしが白痴であっても、実の子どものように愛してくれたのだ。
だから、わたしにとって、それはただのリンゴではなかった。リンゴには愛が詰まっていた。
わたしはそのお店に行くことが、とても好きで、それはリンゴによって仮託された愛を受け取れる場所だったからかもしれない。
いつごろからだったろうか。
ほんのわずかな違和感が生じた。
それはいまの知力であれば、言葉にするのはたやすいが、かつての自分は言葉にできなかった。
村長はいつも、ひとつ大きなお金で、リンゴを買うようになったのだ。
1銀貨は100銅貨に相当し、リンゴは10銅貨程度で買える。それなのに、いつも銀貨を持ち出しては、じゃらじゃらと大量の小銭とともに家路につく。
今になって思えば、村長はわたしと同じようになっていったのだろう。
お金の計算ができないほど、知力が落ちていったのだろう。
次に、わたしは毎日の食事に困るようになった。村長は食事を食べたかどうかすぐに忘れた。わたしのことは忘れてはいないようだったが、理性に泥水を混ぜこんだような曖昧な視線が、わたしを貫いた。わたしはおなかがすいて何か食べ物かないかお家の中を探した。
それで、食べ物が入っている大きな木箱の中に、いくつもの汚物にまみれた衣服を見つけた。
気づいたら、村長はわたしの後ろに立っていた。
そして、わたしは村長と視線を合わした。
その視線を――、わたしは一生忘れないだろう。
わたしはいたたまれなくなって、村長の家を抜け出した。
誰に助けを呼んでいいか、わからず。
山中を無駄にかけまわり、そしてふとした拍子に転んだ。
地面につっぷしたわたしの視線に偶然コオロギが入り、わたしはとっさにそいつを掴んだ。
食べようと思った。
おなかがすいていたからじゃない。
それもあったけれど――、それも確かにあったかもしれないけれど。
ああ……、今の知力でも十全に表現できるとは思えない。
だから、伝達不可能だ。
わかるだろうか。
ご主人様はわかってくださるだろうか。
知性という光を投げかけてくれたご主人様なら、もしかしたらわたしの気持ちを代弁できるだろうか。
わたしは一息に悟ったのだ。
人は――、その行き着く果てに、生き尽く果てに、虫になる。
虫のように――なってしまうんだ。
愛も優しさもすべて、わたしの手のひらでもがいている、なぜそのような事態になったかも理解できないコオロギのようになってしまうんだ。
それが、怖かった。
わたしはいつも光を投げかけられる。けれど、その光は時間の経過とともに失われてしまう。
地平線の果てに太陽がゆっくり沈んでいくのを眺めるような、そんな物悲しさが胸の中にいっぱいになった。
「おい。なに泣いてんだよ」
ご主人様に撫でられて、わたしは、村長のことを思い出す。
「なんでもありません。少し怖かったんです」