カサンドラ
この世界の道徳律を考えてみる。
まず、人間は自分がかわいい。
自分と他人を比べてみて、自分の命を大事なものであると考える。
これはいのちある存在として、当たり前の態度だ。
したがって――
オペラント条件づけにより、人間の生物学的道徳律はかくのごとくなろう。
――目には目を。歯には歯を。
すなわち、人間の道徳律は平均的レベルとしては復讐律である。
勘違いしがちなのは、べつに悪いことだけお返ししろというわけではない。与えられた親切や恩や愛に対して、同じだけ報いることも含まれる。
わたしの恋愛感情というのは、結局のところ、ご主人様から与えられたものを返そうとしているにすぎないのだろうか。
オペラント条件づけ。
生物的環境適応。人間の自己愛は『わたしのことを好きといってくれるから好き』という走性を持つことになるだろう。
星が瞬いている。
わたしたちは月から帰還している。ひときわ巨大な木の上に建てられた物見やぐらに意味もなく登り、冷たい空気に浸されながら、わたしは考えている。
つまり、我々――クリア・インテルという知性連合体は星を見ながら自問自答していた。
なぜ――わたしはご主人様のことが好きなのか。
白痴のわたしがご主人様の魔法で回復したということが理由であるとすれば、それはオペラント条件づけの結果に過ぎないのではないか。
七万を越えたIQが、わたしを詳密にモニターする。
星のようにいくつもの知性が"わたし"を唱えるのを感じる。その虚構の声に耳を傾けると、わたしという存在がエミュレータとしてとりまとめられているのを感じる。特権的なシニフィアンが、わたしをわたしとして規定する。
――あ。
刹那の知覚。
ご主人様がわたしの隣にいて、わたしは頭をなでられた。
「どうした?」
あ。あ。あう。
思考が乱れる。
主人と奴隷の間の連鎖の線形化。
無数といってもいい非線形の感情が、ご主人様の手を通じて線形化されるのを感じる。換言すれば、わたしの知性は既存のプロトコルを遥かに超えた言語体系をもっており、人間の扱う論理レベルを超えているのだが、
それが、純化された。
――ちょっと、恥ずかしい。
という一言に。
「あの、ご主人様。髪」
「ああ、悪い。いやだったか」
「いえ……。ご主人様が触りたいならどうぞ」
しばらくの間、ご主人様の好きなようにもてあそばれる。
腰の長さくらいまであるわたしの髪。
ご主人様は飽きそうにない。髪には神経は通ってないはずなのに、頭皮を通じて、背中のあたりがむずがゆくなった。
「おまえって、いまのIQどのくらいなんだ?」
ふと思いついたように、ご主人様は聞いてきた。
「えっと……、七万くらいだと思います」
「の、わりには普通に見えるんだが」
「大部分は他の計算をしています」
「つまり、神託をうかがう巫女さんって感じか。マジで聖女だな」
「単に超すごいコンピュータにアクセスしているような感じですよ」
「それでだ」
ご主人様はわたしの肩のあたりに手を置いた。
「べつに、魔王をぶったおしに行かなくてもいいからな」
「どういうことです?」
「よく考えたら、魔王とオレらってべつにそんなに関係はないだろ。何をやられたってわけでもないし……。王都のやつらがちょっと熱っぽくなってるだけじゃないか」
「アドミンさんがわたしたちに依頼したのは復讐のためではないと思うのですが」
「神様は神様の事情ってのがあるのはわかるけどよ。そんなの関係ないだろ」
「魔王――プリンセス・ソフィアが何をしたいのかはよくわかりませんけど、わたしには人間を使った実験か何かをしようとしているように思います。実験対象は"人間"です。わたしたちも含まれます」
「でも、オレたちは……、オレはおまえに助けられただろ!」
ご主人様は少し迷いがあるように目を逸らしながら言う。
「呪われたって! 魔王がなにかしようとしたって、オレ達だけは大丈夫なはずだろ!」
人間は――恐れる。
恐れるのにも勇気が必要だ。
もし、仮に自分の身になんら危険が及ばず、身についたチートで、何物でもいかようにもなると考えている人間がいるのだとしたら、その人は恐れないだろう。
ご主人様は運命論的にチートを付与されていたが、尊大でもなく、傲慢でもなく、他者を省みて、深慮があるがゆえに恐れていた。
わたしはほとんどタイムラグなく、ご主人様が何をいいたいか理解できてしまった。それは、結局のところ――、首魁と対立することになりそうなのは、わたしであって、わたしを失うのが怖いと言っているのだ。
これは、傲慢な考えだろうか。
ご主人様に、わたしは愛されていると考えていいのだろうか。
その考えは、わたしの知性連合の中に共有され、昏い宇宙に星の光が灯るような、暖かさをもたらしたが、しかし同時に考えたのは、道徳律としては真鍮の鈍い光をまとっているということだった。
自分達さえよければそれでよいという考えは、進化論的には淘汰されてきた。
自分を失うことを過度に恐れるものは、その恐怖によって滅びてきた。
歴史が、帰納的に証明している。
「ご主人様。トロイの木馬です」
わたしは静かに言葉をつむぐ。
「ん。ああ……呪いはトロイの木馬だったな。それがどうかしたか?」
「トロイの木馬のお話には前日譚があるというお話を知ってますか?」
「え、そうなのか? ていうか、なんで地球の話を知ってるの?」
「アドミンさんは地球人ですよ」
「え?」
「わたしは、アドミンさんとつながっているんです」
「ラインってやつか」
「そうです。そのラインを通じて、わたしはアドミニストレイター、アカシャさんの記録体にアクセスできるわけです」
「アカシャの記録体……ちょっと待てよ。それって、一般的に言うところのアカシックレコードってやつか?」
「そうです。わたしは前宇宙における全人類の記録を閲覧できるアクセス権限を得ています」
「えっと……頭痛くなってきた。おまえって要は常時インターネットに接続しているようなもんなのか?」
「そうです。そもそもステータスの中のIQというのは、インテリジェンスの数値ではなく、輸入割当のことを指し、星間コンピュータから割り当てられたリソース領域をどれくらい使えるかという数値を指すんですよ。この数値が大きくなればなるほど、アドミンさんが蓄えて転写した前宇宙のデータログを参照できるようになります」
「IQが100程度でもか?」
「IQが100程度でも多少は参照しています。デジャブや、虫の知らせ、あるいは予言といったものは、データログに対するアクセスの結果です」
「おまえって思った以上に人間やめてるんだな……」
「――話を戻しますが、トロイの木馬には前日譚があるという話、ご主人様はご存知でしょうか?」
「いや知らん」
「トロイアの王女カサンドラのことは?」
「誰それ?」
百億くらいのガッカリ感を現す言語がわたしの中に飛び交ったが、その倍くらいの反論が打ち落としている。脳内で星間戦争がおこなわれているような感じだ。反論のほうが優勢なのは、さっき撫でてくれたことが大きい。
王女カサンドラはトロイアの王女。
ギリシャではかなり強力な力を持つ神様――アポロンに一目ぼれされ、予言の力をプレゼント片手にオレとつきあえよと言われる。
彼女も予言の力を魅力に思ったのかOKするのだが、与えられた予言の力は、アポロンが自分に冷めて去っていく未来も見通させてしまった。
当然、アポロンは貢いだあげくに振られるという結果に大激怒するわけだが、一度貢いだものを返せというのもかっこ悪いので、予言の力を取り上げることはしなかった。
その代わりに『誰も彼女の言葉を信じないように』という呪いをかけてしまった。
先のトロイの木馬についてもカサンドラは予言の力で、どうなるかわかっていたのだが、呪いのせいで、誰も彼女の言葉を信じない。
最後には、トロイアは負け、彼女は虜囚となり、死ぬ。
そういう話だ。
「ふぅん……で、どういうこと?」
「トロイアが滅んだのは誰も彼女の予言を信じなかったからです」
沈黙。タイムラグ。
ご主人様の知性が、答えにたどり着いたのがわかる。
それでもなお言葉を発しないのは、ご主人様が優しいからだ。
視線の交差。
わたしは村長の視線をなぜか思い出す。
「わかったよ。クリア。おまえを信じるよ」
二十秒後に選択はなされた。




