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知性にとって他者は不要である

 洪水のように知性が流れこんでくる。

 防波堤としていくつものエミュレータを構成し、流れをコントロールしようと試みるがうまくいかない。

 知性が先行し、概念が不明瞭な混沌となって、わたしの脳を溺れさせようとしている。

 

「クリア?! お主、大丈夫か」

「お姉ちゃんだいじょうぶ?」


 遠くにサージとご主人様の声が聞こえる。

 現実が遠く、ヴェールがかかったようにかすんでいた。


 わたしは、余剰スペースとしてわずかに残していた脳の言語中枢を使い、アーカイブを解凍させる。

 もしものときのために、用意しておいた新しい言語プロトコルを発動。


 既存言語では対応しきれない概念を新言語に対応させる。

 その言語は既存文字よりも情報量が圧倒的に多く、ひとつひとつの文字が相互連関しあい、複雑な意味を持つようになる。


 わたしは『論理』自体を再構成する。

 

 従来の論理はその言語の構造的限界を脱しない。


 無数の形容しがたい感情を、次々に名づけ、堕落させ、現実へと定着させる。


 人の感じるさまざまな感情は、定型化されて言葉として感じ取れる範囲がきわめて限定されている。わたしの初動因となっている恋心もまた――、定型化された言語としての意味を超えるものではない。


 比喩的にいえば、わたしの恋心は幼児が感じている幼げなものだった。


 いまの知性からすれば、すべてが児戯に等しく――。


「お姉ちゃん!」


 すがりついてくる男に、わたしは――。


 脳が燃えているかのようだった。背中から頂点まで火が燃え広がり、わたしはこの音と熱を持つモノそれ自体に、なにかしらの原初感情がこびりついているのを感じ取る。


 わたしは彼に対する恋心を失ってしまったわけではない。


 新たな言語によって再構築された心にとって、それは進化する前にカンブリア紀の生命が持つ無意識に等しい。

 そんな先駆的な感情は、理性によってすべてのコントロールが可能な状態のわたしにとって、要らぬ反乱分子であり、檻の中に閉じ込めておかなければならない。


 そう――、エミュレータаは廃棄する。


 これは専断ではない。わたしの知性は、つまりわたしの総体的な意思は、きわめて人間的な感情を有するエミュレータаを規格として全体に適合しないと判断する。


 これは精神分裂の類ではない。ダイレクトな自問自答をおこなっている。


 わたしは新たな言語の構築により、従来の人間には到達しえないほどの整合性と客観性を持って、わたし自身の心のありようを判断できる。わたしという精神的特質は、すでにいくつものエミュレータを統合することによってなりたっている。そのうちのひとつを廃棄したところで、生命として死ぬわけではない。


 知性とは複雑系であり、知性連合なのだ。ゆえに、連合のうちひとつが零れ落ちたとしても、なんの損失にもならない。


――違う!


 脳が熱い。


 気がついたら、わたしは地面にはいつくばり、頭をかきむしっていた。


 整合性が取れない。矛盾する。矛盾する。矛盾する。

 こんなエラーじみた感情が、なぜ反逆する。


 長い黒髪が、いくつか指の隙間から抜け落ちた。


「ああ……」


 ご主人様が好きな髪の毛なのに。


 ブラックアウト。


 わたしの意識は闇に落ちた。




 ☆




 わたしはおもいだす。

 だれか――が、くれたリンゴ。だれだったかな。よくおもいだせない。

 概念的には知っている。

 村長。わたしといっしょに住んでいた、たぶん家族だった人。

 大きな手がわたしをなでてくれて、リンゴを手渡してくれた。

 リンゴは赤くて瑞々しくて、すこしかじったらおいしかった。


 ――村長の名前。


 なんていうんだったかな。

 わたしが記憶する前の出来事はおもいだせない。

 あのときの感情は崩壊してしまった。


 だけど――。


 わたしはギリギリのところでご主人様を忘れなかった。

 というか、忘れるわけではないが、人間の言語で言えば、どうでもよくなる、もしくは冷めるに近い感覚だろう。どうしてそう思うようになったかを、人間知性の範疇でおさまっているエミュレータаの言葉で述べるとするならば、『知性にとっては他者は不要』であるからだ。


 他者とは、現実的に存在する他者のことを言うが、独我論的にいえば、他者はいないとなる。

 それを存在するという幻想として受け入れることができるのは無意識があるからだ。


 わたしの超知性は、無意識を粉々にしてしまった。

 いまはギリギリのところで保っているが、砂上の楼閣という感じ。


 神の秘薬を呑み、神の知覚を得たらどうなるだろう。


 おそらく、わたしは、いなくなる。どこにもいなくなってしまう。


 ただサヴァンのように、神の演算を手助けするだけの存在になるのではないだろうか。


 明晰すぎる予測と恐怖のコラボセットが、知性連合からわたしの元にお届けされた。


 わたしの心の配送状態は、これ以上なく澄み切っていて、とてつもなくクリアだ。


 いままでの知性は、はっきりいって、ぼやけためがねをかけて、見えた気になっていただけに思えるほど。


 そうして、覚醒状態になってみると――、ご主人様がスプーンをわたしの口元に押し当てていた。

 スプーンの上に乗っているのはすりおろした、たぶんリンゴ。


「あれ? ご主人様」

「あ、お姉ちゃん。起きた!」


 ご主人様が抱きついてくる。予想――わたしは昏倒していた。


「どれくらい眠っていたんでしょうか」


「一ヶ月くらい眠っておったんじゃぞ」


 扉が開いてサージがこちらに近寄ってきた。


「起きれるか?」


「えーっと。大丈夫ですよ」


 筋肉の収縮についても知性連合の働きだろう、上手い具合に調整していたようだ。

 床ずれを起こすこともなく、身体も柔らかいまま。

 何事もない。


「知性についても下がっておらんようだの」

「マクロかけてますからね」

「マクロ?」

「自動で操作する仕組みです」

「ふむ……そうか」

 

 サージは口元に手を当てていた。

 ご主人様も真似して口元に手をあてて考えるふりをしている。


「それでエルフの秘薬を呑んでなにか変わったことはあったのかの?」


「えっとー……そうですね。精霊が見えるようになりました」


「はぁ?」


 サージのすっとんきょうな声が響いたが、実は先ほどから、わたしの目には精霊が映っていた。

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