わたし専用の踏み台
ご主人様は泣きじゃくりながら、あてどもなく視線をふらふらさせて、ちょうど良い具合に一番近くにいたわたしに抱きつくかたちになった。
ご主人様の身長は高く、わたしの背は胸元くらいまでしかいないから、なんといえばいいだろうか……、カカシを抱いたみたいに、わたしの足は空中をプラプラとさまようことになる。
ご主人様の精神はすっかり退行しているようだったが、そのちからはそのまま残存しているから、肺の中の空気が全部吐き出されたみたいに押しつぶされる。
「くるしいです。ご主人様」
「え、あ、ごめんなさい」
その瞳はいつもみたいに寂しげな感じがなく、純真さそのものといった感じだ。
わたしにはIQを図る機能はないが、おそらく20程度は下がっているだろう。
「ご主人様。ご自身のことはわかりますか?」
「僕?」
僕って……。
やっぱり、かわいいと思ってしまうのは、わたしがご主人様のことを好きだからだろうか。
ご主人様はまだ若いから、僕といっても変ではないけれども、それにしたって、いつものくぼんだ眼窩の底に見える憂いを帯びた瞳に相当するものがない。
はっきり言えば、人なつっこい、人に裏切られたことのない素直さが見えた。
社会にスレていない。
人との摩擦を経験していない。誰かが庇護しなければ、すぐにでも死んでしまうだろう。
わたしのなかの得体の知れない部分が、彼を守ってやらなくては、と強烈に思考している。
今のご主人様はわたしを撫でてくれるご主人様ではないけれども、それでもやはり、わたしにはご主人様しかいない。
わたしの知性も、その点を否定まではしないようだ。
わたしには生きる意味が必要だった。
あらゆる現象を一息に知覚し、そのほとんどを解析し終えてしまった今となっては、生きる意味というのも、一種のエラーのようにしか捉えられなくなる。
つまり、高次の欲求――生きる意味を見出すためには、わたし自身のエレメントモデルを参照にするほかない。なんのことはない。はじめの気持ちをわたし自身もないがしろにできないということだ。
だから、ご主人様を、ここで捨てるなんて選択肢はない。
「おなまえはいえますか?」
「僕は……僕は……あたまが痛いよお」
頭を抱えてうずくまるご主人様。
呪いは前頭葉に残っている。あまり刺激しないほうがいいだろう。
「大丈夫です。わたしの名前はクリアといいます」
「お姉ちゃんの名前はクリアっていうの? きれいな名前だね」
「う……はい」
なんだろう。この剛速球のストレートは。
「あり、ありがとうございます」
「お姉ちゃん。顔真っ赤だよ。どうしたの?」
「いえ、なんでもありません」
そう。なんでもないのだ。
先ほどの超計算で、エミュレータが不調をきたしているに違いない。
「さて、それにしても――、どうするかの」
サージがわざと明るい声を出して言った。
たしかにどうするか。
わたしたちが取りえる方策は大きく分けて二つある。
ひとつは、ご主人様に呪いをかけた首魁を探し出し打倒すること。
もうひとつは、ご主人様を治す方法を探しだすこと。
つまり、戦うか逃げるかだ。
しかし、わたしは既に心の中で敗北宣言をしてしまっていた。
今のIQ400程度のわたしでも、呪いをどうにもできない以上、超知性を持つ相手は、わたしよりも才覚において勝るか、それとも単純に知力が高いと推測できる。
このままノコノコと出かけていって、仮に相手と対峙したところで勝てる見込みは少ない。
わたしが恐怖するのは、わたし自身が破壊されることよりも、ご主人様のことだった。
いまのご主人様は、子どものような知力に戻ってしまっただけで、まだ人間の知力の範疇だといえる。確かに、人の成長曲線からいえば、ある種の知的障害ではあるといえるが、わたしをわたしと認識できるだけの知力は有している。
なんのことはない。
わたしは、これ以上、ご主人様の知力を奪われるのが怖かったのだ。
「ひとまずは……わたし自身のタイムリミットを巻き戻します。グレイト・ヒール」
わたしの知性にバフが乗り、現状のIQ400程度を維持することに成功する。
このまま、超計算能力によってご主人様よりも強力なバフをかけれないかとも思うのだが、IQ400程度であっても、現状維持が精一杯のようだ。
宇宙の因果律の破れこそが魔法の根底にある原理であるが、わたし自身が因果律の破れまで計算できるわけではない。
あくまで、魔法とは神の力、神の演算なのだ。
わたしの知性はそこに無理やりアクセスする力が、人より強いだけだ。
ご主人様は、その点、自身の演算能力は平均的な人間の知性のそれであったが、神へのアクセス権限が大きかったのだろう。
だから、ご主人様のグレイトヒールはわたしの知性を大きくできた。
バフというのがかなり恣意的すぎるとは感じる。そもそもステータスという数値化も同様にかなり人間的な表現ではないだろうか。
神は無機質な計算機ではなく、おそらくは人間の特性を理解している人格的な存在だ。
したがって――。
「神様に会う必要がありそうですね」
「なんじゃ。神様に会うとは」
「いや、例の神の秘薬とか呼ばれている薬ですよ。それを見つければ、神様にもっと直接的にアクセスできるんじゃないですか?」
「ふむぅ。神の秘薬か。ペルルメントの森に一度帰ってみるか? わらわたちだけでウダウダ考えておってもしかたあるまい」
「エルフの森には、神の秘薬のヒントがあるんでしょうか?」
「ないのう」
「ないんですか!」
「お姉ちゃん。びっくりするからおおきなこえださないで」
「ああ。ごめんなさい。ご主人様。大丈夫ですからね。よしよし」
ものすごく背を伸ばして、ギリギリなところでご主人様の頭を撫でる。
まいったな。これから先、携帯用のわたし専用の踏み台が必要になりそうだ。
実をいうと、もうそろそろ首魁と戦ってる段階だったはずなんですが……。
皆様から感想いただいて嬉しかったので、ちょっと引き伸ばしてしまったという、なろう小説家の鑑にして、作者としてクズ。
でもありがち。とてもありがち。(ですよね?)
評価していただけると、やはりわりとなんでもしますから的な気分になっちゃいます。




