トロイの木馬
「治せる? どういうことだ。オレのチートでも治せないのに」
ご主人様はあのときの村長のように怯えていた。
わたしに嫌われるかもしれないという恐怖。
自分が実はこの宇宙において、何の価値もないのではないかという自問。
そしてなにより――。
誰も愛してくれなくなるのではないかという根源的な問い。
ご主人様の昏い色をした瞳には、そのような問いかけが含まれているようだった。
人の心は、フラクタルを形成する。
フラクタルとは、例えば、海外線、雲、そして人の作り出す町並み。
部分が全体のようであり、全体が部分のようである。
極大化しても微小化しても、必ず特徴的にあらわれる一定の規格。
パターン。
あのときの村長の混濁した瞳も、このときのご主人様の怯えた瞳も。
同じパターンを有しているようだ。
相対的に価値を決めないでいい。
人より、たくさんのことができるからえらいわけじゃない。
わたしが、ご主人様のことを好きなのは、べつにチートを有しているからじゃない。
撫でてくれるから。
わたしのことを、やさしく撫でてくれるから。
ただそれだけだ。
それをわたしは美しいと訴える。
それをエミュレータаは全体に対してかわいいと訴える。
わたしの行動は非論理的で不合理なものであったが、
――人が人を好きになるのはそういうことではないか。
言葉なんて要らない。そこに知性が入り込む余地なんてない。
「トロイの木馬です。ご主人様」
「どういう、ことだ?」
「この子の病魔は正確には、彼自身に接着しています。ウイルスのように異なるものが犯しているわけではありません」
トロイの木馬とウイルスの違い。
トロイの木馬とは、ご主人様の世界にあるギリシャという国の物語だ。
昔、トロイヤという国があった。
トロイヤはギリシャと戦争をしていた。
やがて、戦争はこう着状態になったが、ギリシャ勢は一計を案ずる。
そこで出てきたのがトロイの木馬である。
ギリシャは人が何人も入れるようなトロイの木馬を作った。
そして、一戦して負けたかのように見せかけた。
トロイヤ人は戦勝の証として、トロイの木馬を街のなかに引き入れる。
その中に、ギリシャ人が幾人も入っていることを知らずに――。
その夜、木馬の中から出てきたギリシャ人によって、トロイヤの門は開かれ、
一気にトロイヤは攻め滅ぼされてしまった。
そんな話。
肝となるのは、ウイルスと違い、トロイの木馬は、害意や悪意があると感じさせないということだ。
風邪のウイルスは、免疫細胞の検閲と反撃に合う。
しかし――、"コレ"は検閲にも反撃にもあわない。
「そんなことがあるのか?」
「あります。これは――、呪いです」
「なんだって」
「わたしは呪いをトロイの木馬であると断定します」
「トロイの木馬とはなんだ?」
レオナードが言った。
「詳しい話はまた後ほど」
「それより、トロイの木馬だとしたら、どうやって治すんだ?」
ご主人様の疑問も最もなことだった。
トロイの木馬は、原理的には自分自身を装うものだ。
だから、検知ができない。
でも――、
それは巨視的なパターン分析をかけようとするからだ。
ご主人様のヒール系統の魔法も、根源的にはフラクタル分析をし、そのパターンから外れたところを補正するような治し方をしている。
パターンの補正だ。
しかし、これではパターンを装うトロイの木馬を破壊することはできない。
ご主人様の魔法は――というより、すべての魔法はいわば神という演算装置を用いたパターン分析に過ぎない。
これは、プログラムを書いて、画面に表れる図像を見ているのだ。
トロイの木馬に対してはもっと古典的な対処が必要になる。
それは精密な差異分析。
非線形微分方程式による、連続試行。
とても簡単に言うなら――。
いつものヒールは、人間というパターンを捉えているので、たとえば昨日のわたしと今日のわたしを取り違えて、治したら昨日のわたしに物質的にそっくりそのまま成り代わってましたということはないわけだ。
記憶やそのほかの大事なところが変わらずに要られるのは、傷や病魔が、わたしとは異なる存在だからである。ヒールをおこなうときに演算されるのは、わたしというフラクタル。
パターンからはずれるものが排除される。
魂が記憶する限りにおいて。
では、今回はどうすればよいか。
わたしが必要なものとそうでないものを分子レベルでひとつずつ見ていけばいい。
たとえ、魔法的な作用であっても、最終的にはなんらかの作用が働いて、結果としてこの子は苦しんでいるのだから、"呪い"がトロイの木馬であっても、見つけることはできる。
これはご主人様にはできない。
ご主人様は神へのアクセスがとてつもなく速く、しかも借り受けられる演算能力も高いが、しかし神の持つ方程式を逸脱することはできないからだ。
要は最新の計算式にアップデートされているので、古典的な方法論が使えないのである。
「さあ、はじめますよ」
わたしがおこなうのは、"呪い"の検知。
それのみおこなう。
実際には、レノンという少年の身体構造を丸ごと解析し、分子レベルで分析するということをわずかな時間でやってのけようというのだから、とてつもない計算量と計算速度が必要になる。
それは、パターン解析にかけるヒールの比ではない。
脳内がグツグツと煮立つように熱い。
「おい、大丈夫か?」
重ね合わせた手から熱が伝わったのだろうか。
ご主人様がわたしを心配してくれた。
「大丈夫ですよ。ちょっと計算しているだけですから」
わたしのゲシュタルトはもはや沈黙していた。
いまは、それどころではないほどの計算が必要になっているからかもしれない。
「オレはどうすればいい?」
「わたしが呪いを見つけたら、それを破壊してください」
「どうやって?」
「たぶんなんでもいいと思います。炎でも、氷でも、光でも。そいつ自体はたいしたことがないプログラムです。何の力もない。ひ弱なものなはず。おそらくはナノレベルの小ささです」
「わかった」
熱い。
分かっているのだけれども、わたしの脳の物理的な容量は、もはやわたしという知性を支えきれない。
だけど――。
知性がなければ、わたしはご主人様の役に立てない。
やがて――。
計算が終わる。
呪いは、脳の前頭葉部分に鎮座していた。
やつを図像化するなら、神の座にふてぶてしくも居座るガーゴイルといった風情だ。
「見つけました!」
思考の部分的なリンク。
ご主人様の視覚情報に、呪いの図像を展開させる。
「よし……、こいつを切除する」
ご主人様の魔法は精密だ。
神の力を借りているそれは、一定のベクトルに対してはめっぽうな強さを有していた。
だけど――。
わたしの思考力は、この分析魔法によってとてつもなく落ちていた。
「あ――」
発したのはわたしだったのか、それともご主人様だったのか。
呪いは不敵に笑ったかと思うと、姿をかきけした。
数瞬のフラッシュ。
ご主人様がわたしを突き飛ばす。
紅い光に包まれるご主人様。
呪いが転移した?
突き飛ばされたわたしは床を転がったがすぐに起き上がる。
ご主人様は倒れて動かない。
嘘だ。
嘘だ!
ご主人様が呪いにかかってしまった。
わたしの脳はマグマのように熱いのに、心はご主人様を失ってしまうかもしれない恐怖で凍てついていた。




