わたしは患者ではない
レオナードの案内で貧民街を抜ける。
彼は貴族であるが、爵位としては下から数えたほうが早い男爵であり、それなのに騎士団長に収まっていることから考えても、かなりの実力があると見て取れる。
ご主人様はチートを有しているから、99パーセント以上の確率で彼に勝てるだろうが、だからといって、多年にわたる経験からくる重みのようなものは感じているらしく、少し筋肉が緊張しているのが見てとれた。
レオナードは、ともかく堂々としている。
そして、紳士であるといえるだろう。
そのあたりの事情からか、庶民の人気は高い。
石畳の少し気位の高い通路に入ると、一層、彼の人気はいや増すばかりで、ちょうど庶民と貴族との橋渡し的な存在をしているというのが見て取れる。
――もちろん、わたしは実際に見聞きしているに等しいわけであるが。
サージはわたしの横を歩いていて、レオナードのことをかなり警戒しているようだ。
そもそも、サージは王都に入ってから、ご主人様にべったりとくっついている。
それは人間に対する不信感からだ。
エルフだと思われないために、フードをまぶかに被り、視線は常に地面に向いている。
ちなみに、わたしも白痴モードのときは、よく蟻の行進を見つめているので、おそろいだと思った。
「わらわは、やはり人間どもが苦手じゃ。それをはっきり悟ったよ」
「ご主人様や、わたしのことは大丈夫でしたよね」
「人間という総体が嫌いなのじゃ。あのぶしつけにこちらを見つめてくる視線が嫌なのじゃ」
「あなたが綺麗だからじゃないですか」
「綺麗とはなんじゃ?」
「それはトートロジーとしての答えしか返せませんが、綺麗とは、病的ではなく整っているということでしょう」
「であれば、綺麗さも突出すれば病的であろうから綺麗でなくなるということじゃな」
「言葉遊びですね。ですが、そうでしょうね」
「何を人事のように言っておる。お主も相当、整っておるではないか?」
「え、そうなんですか?」
正直なところ、いままでの自分は白痴であり、白痴とは、端的に言えば『キタナイ』ものであろうから、綺麗と捉えられるのは珍しいことでもあった。
ご主人様はそんなわたしを、顔だけは好きとか、髪は綺麗とか、なにかにつけて一言多いながらも褒めてくださっていたけれども、それはやっぱり、わたしが平均的な感受性をもって、綺麗であるからだろうか。
つまり、わりと美人とか。
「お主、鈍感だったのじゃな」
「いや……そう、なのでしょうか」
わたしが一般人的な感性として代理で立てたエミュレータаは、
――わたしって美人なのか?
と、頭の中を疑問符でいっぱいにしている。
それほど他人の評価というのは、客観化しにくい。
いや、正確にはシールドしようとしているのだ。
ご主人様が始めてわたしを綺麗といってくれた、そのことを特別視したいのだ。
だから、わたしは白痴であり醜女であったほうが都合がいい。
わたしはご主人様よりも弱い存在でなければならない。
☆
屋敷は貴族街の郊外にある。
特段大きくもないが、小さすぎもせず、質実剛健といった雰囲気をかもし出している。
「帰ったぞ!」
レオナードが豪快に扉を開け放つと、ロングスカートを履いたメイドたちが幾人か待っていて、一斉に頭を下げた。
わたしたちが通されたのは、屋敷の中の一室。
そこにレオナードの息子はいた。
小さな男の子だった。苦しそうに胸を押さえ、小さく息をしている。
「我輩の息子。名はレノンという」
「おう。治してやるよ」
ご主人様はレノンのそばまで近寄り、わたしにいつもしてくれるように、頭の上にゆっくりと手を当てた。
「ヒール」
部屋の中はまばゆいばかりに光輝き、誰もが眼を覆った。
しかし――、
わたしは知っている。
彼の"病"は治らない。
「ん? おかしいな」
ご主人様は誰にも聞こえないくらいの声で小さくつぶやく。わたしは唇の動きで、そのつぶやきを拾った。
「ハイヒール! グレイトヒール!」
何度も何度も治療を試みるご主人様。
その顔には焦りが浮かんでいる。自身のチートが通用しないことへの焦りもあるのだろうが、その大部分は――、他者を救いたいというご主人様の想いが現実的に達成されないことへの焦りだ。
レオナードが明らかに落胆している。
それもまた、焦りの一因かもしれない。
☆
わたしは、寝物語として、なぜご主人様がそんなにも他者を治したいのか、甘えた声で聞いてみたことがある。そのときのご主人様は、いつも以上に素直だったのか、ご自身の来歴を話してくれた。
「オレは医者になりたかったんだよ」
「なりたかった、ですか?」
「ああ。夢やぶれて山河ありってな。受験に失敗しても世間は動いている。そんな単純で当たり前のことがわからなくて、オレは勝手に世間をうらんで引きこもりになったんだ」
「どうしてお医者様になりたかったんですか?」
「あー、べつにたいしたことじゃないんだけどな」
「はい」
「オレが最初に読んだ本って、"ドリトル先生"という本でな。確か小学生に上がる前か、そこらだったと思うんだが、オレの叔母にあたる人が買ってくれたんだよな」
「ドリトル先生がお医者様?」
「正確に言えば、動物のお医者さんだけどな。でも、そのとき読んだ体験が忘れられなかったんだ。ドリトル先生は動物と話せる能力を持っていて、次々と治していく。それでみんなから感謝される。すげえなと思ってさ。まあ、その後、叔母さんが死んだりとか、いろいろあったんだけど、自分でもよくわからない感じで、ぼんやりと、なんとなく、お医者様になりたいと思ったんだ」
ぼんやりとなんとなく。
人の志向性は形づくられていく。
想像するに、ご主人様がいた世界は、この世界よりも甘い世界だったのだろう。
けれど、それ以上に、自身の存在意義を形成するのが難しい世界でもあったのだろう。
「今はチートがあるから医者の真似事はできてるけどな」
「ご主人様はわたしを癒してくれました」
「ああ、だけど、オレは医者じゃない。オレは一生ドリトル先生にはなれないんだよ」
わたしはどうすればご主人様を癒せるのか、百数通りのパターンを思い描き――、
結局できたことは、ご主人様を抱きしめることだけだった。
☆
だから――。
だから、わたしはご主人様を助けたい。
――なにが『だから』なのだ。非合理である。
エミュレータаの現時点における思考方式は全体保持コードに違反している。
ただちに思考を停止せよ。
わたしの中の統合精神が、つまりわたし自身のゲシュタルトが、いま、この時点で思考しているわたしを痛烈に非難していた。
当然だろう。
わたしはご主人様の前では弱い存在でなければならない。
彼の前では、わたしは患者でなければならない。そうやって、彼の罪を引き受けなければ、彼を癒すことはできないからだ。
わたしは都合のいい女でなければならない。
適当なところで彼を賞賛し、適当なところで、さすがご主人様と持ち上げ、適当なところでセックスをさせる。そういう存在でなければならない。
違う!!!!!!!!!
そうじゃない。わたしはたとえご主人様が傷つくことになっても、わたしは患者ではないと主張しなければならない。
たとえ、わたしとご主人様の関係が破綻することになっても、そうしなければならない。
だって、そんな賢しさを装った、妥協めいた関係なんて嫌だからだ。
――エミュレータа。ただちに思考を停止せよ。いままでの行動と論理矛盾を起こしている。
頭の中で、エラーコードが何度も吐かれている。
知性連合の同調圧力がわたしを押しつぶそうとしている。
非合理でも、非論理的でも、なんでもいい。
なぜなら、わたしは白痴であるのだから。
わたしは、そっと手を重ねた。ご主人様は頼りなげな視線で見た。
「ご主人様。わたしなら、たぶん治せます」




