それはとても、悪趣味ですね。
この小説はフィクションであり、実在の人物および団体には一切関係ありません。
その日の私は、油断していた。
通勤の最寄駅でもあるターミナル駅に、その日に限って通勤時間帯なんかに買い物に出て、買い過ぎた荷物を抱えてフラフラ歩いていたのは、どう考えても失敗以外の何でもなかったと思う。
「坂上さん?」
聞き間違えようのない、耳に心地よい声。
本当はいつでも、ずっと聞いていたいと思っていた。
もう聞くこともないと思っていた声に、思わず振り向いてしまった自分の迂闊さを呪う。
「原嶋……係長」
呟いた声が、低くなる。
最高に不機嫌そうに聞こえる声音は、本当は無理矢理動揺を抑え込んでいるからだと、今まで誰にも伝わったことがない事実に、今は感謝する。
自分自身の対人スキルの低さに安堵させられる日が来るなんて、思ってもみなかった。
思えば、人生とは皮肉なものだ。
良かれと思ってした行動はいつでも裏目に出る。後知恵で、その行動の何か不味かったのか分かったところで、取り返しなどつくはずもなく、かと言って割り切ることも出来ない。
我ながらウジウジした実に湿っぽい性格をしている。正直、他人だったら決して付き合わないタイプだ。嫌過ぎる。
現実逃避をしていたら無駄なイケメンが疲れていてもきらきらしいオーラを放って至近距離にいる。
1m以内に接近するな、無駄なイケメンは爆発しろ。
クリスマスのネオンより眩しいとか、詐欺過ぎる。むしろ頭髪がシャイニングボンバーすればいいのだ、毛根よ死に絶えろ。
「お久し振りです。お変わりないようで、良かったです」
あらぬことを考えていても、培った社会人スキルがツルツルと耳障りがよく、当たり障りのない記憶にすら残らない凡庸な挨拶を自動生成する。
お局には完全自動化挨拶機能が搭載されています。ま、社会人としては常識の範囲内だよね。
ついでに当たり障りのない曖昧な微笑みを付け足して、踵を返すために一歩後退する。
「待って。……少し時間をくれないかな。少しで良いから」
少しだけ早口な口調で私を引き止めるイケメンにあえて視線を合わせて、出来るだけ冷たい笑みを浮かべる。
「ご存知ですか? 私、もう貴方の部下ではないんですよ」
殊更にゆっくり言葉を紡ぎ、相手に考える時間を与える。
人の傷つけ方は、今まで重ねたロクでもない人生の中で嫌という程実地で教え込まれた。
弱った獲物にゆっくりと爪を立てるように、言葉を無数につけた傷に一番障るように突き刺す。人間は獣よりもずっと残酷だ。
致命傷のような傷をつけながら、決してとどめは刺さない。
あのやり口を、私は良く知っている。そして目の前のこの男を、私は同じように傷つけてやりたいと思った。
私の知る限りの言葉でその心をズタズタに切り裂いても、それでもこの人は微笑むのだろうか。
そんなことは有り得ないと、私は知っている。
いつか傷つけて終わるなら、それが今だとしても良いのではないかと、心の奥で声が囁く。
その囁きのままに、私は目の前にいる人の心を傷つけることにした。
「だから、貴方の為に貴重な時間を割く選択肢は、今の私にはありません。何のメリットもないので」
私の大嫌いな女たちが浮かべた嘲笑を模って表情に乗せる。
出来るだけ貴方が私を憎むように、仕向ける。
そうしなければ、きっとその優しさに縋りたくなる弱い自分がいるから。
心に満ちる痛みと苦しみに溺れる私は、貴方も自分自身の中の闇に引きずり込んでしまう。
そんなことをするなら、そんなことをして蔑まれたり憐れまれたりするぐらいなら、手を差し伸べる人間を罵倒する人でなしだと憎まれる方がまだ我慢出来る。
だからお願い。
この強がりが続くうちに立ち去って。
「本当に、生田さんの言った通りの回答をするんだね」
「え?」
思い掛けない名前に、私は取り繕うことも忘れて声を漏らした。
そんな私の様子に、原嶋氏は何某かの確信を得たらしく寂しげな表情を、実に苦々しい苦笑に変えた。
「あの人の読みは正しかった。近々君が辞めるだろうって、あの拉致られた日に言ってたけど、俺は取り合わなかった。それなのに、出張から帰ったらいないんだもんなー。ああ、ヤラレタって心底思ったよ」
仕事の時よりも砕けた口調と告げられた内容に、二の句が告げずに黙り込む私に原嶋氏は視線を合わせる。
笑みを消した顔を、恐らく初めてじっくり眺める。
思っていたよりもイケメンじゃなくて、雰囲気美男か!と、意味不明なツッコミを脳内で繰り広げる私は、完全に展開に付いて行き損ねて意味もなく相手を見つめていた。
「陳腐に聞こえるかもしれないけど、こんな偶然なかなかないと思う。だから今日は諦めて、俺の為に時間を割いて」
この人は、本当に腹が立つほど優秀だ。
今の私は、冷静じゃない。かなり動揺している。
今なら、多少の無茶振りにも黙って流されて、頷いてしまうだろう。それを分かっていて、自分が有利だと分かっていて目の前の男は強気に出ているのだ。
仕事上も、駆け引きの上手なとても心強い頼れる上司だった。
認めよう。私はこの人が好きだった。
異性として好きかは突き詰めて考えたことがないけれど、大丈夫だと言えば必ず大丈夫な状況を作ってくれる、最高に仕事のし易い上司だった。
失敗を叱責するよりもどうやって挽回するか一緒に考えてくれる柔軟さも、仕事量にさり気なく目配りして配分してくれる合理的な部分も。
その人となりが、生き方が好きだった。
ずっと一緒に働いていたかった。
だから異性として好きにならないようにしたのかもしれない。
辛いばかりの職場の中で、この人だけは暖かなブランケットのように、私を悪意やしがらみから包み込むように守ってくれたから。
でもそれがもしも全て下心からだと言うのなら。
「それはとても、悪趣味ですね」
私が思わず呟いた言葉をどう取ったのか、原嶋氏は眼鏡を直して苦笑する。
「俺は本当に信用がないんだな。……違うか。君はもう、誰も信じられないんだよね。あんなことがあったから、当然か」
反射的に強張った体を押さえ込むように二の腕を掴む。
「……ごめん、無神経だった」
「慣れてますから」
「ごめん」
「……30分だけですから」
ようやく折れてメールを入れ始めた私に、原嶋氏は会心の笑みを浮かべた。
「ありがとう」
多分に甘みを含んだ笑顔は破壊力抜群で、通りがかりの女子が数名頰を染めているのを私は見た。
だからうっかり絆されそうになった私は悪くないと思う。