この手は何も掴まない
この小説はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。
「宮下さん結婚するんだって」
「転職先の会社に出入りしてた業者さんと」
「業者さんって言っても、社長の一人息子で次期社長だって。ソコソコの規模の会社らしいから、玉の輿だよねー」
「やるぅ。あの人、狙った獲物は逃がさないタイプだよね。唯一は……」
「そうそう、アレ、なんで宮下さん負けたんだろうね。だってサ、あのスキャンダル、明らかに張本人の宮下さんより濡れ衣着せられた彼女の方が分が悪かったでしょ? なのに、蓋開けてみたら宮下さん辞めるしサ。何あったんだろうね〜」
囀る女子たちの声に思わず足を止めて、後悔した。
聞かなければ良かった。
聞かなければそんな噂など、知りようもなかったのに。
数秒前の時間を、そこに存在した自分を消しゴムで消してしまえたらいいのにと衝動的に思って、自分の考えたことに苦笑する。
そんなメルヘンな思考は、お局らしくない。
お局はお局らしく、柔らかで甘い自分を殺してしまわなければならない。
私はサッと表情を消して、口元に微かな笑みを貼り付ける。
今この場に、私という人間はいらない。
私は、全ての私としての感情を意識の奥に押しやって、笑顔の仮面を被る。
無神経で図太いお局という道化の仮面は、私に似合いの仮面だ。
素行の良くない後輩を、常には疎んじながら頼られたと勘違いした途端、愚かにも正義感を発揮して逆に罠にはめられた馬鹿な女はゴミのようにその他大勢に踏みつけにされる対象でしかない。
必死に打てるだけの手を打ち、人としての尊厳を守りきったと思った私は、その実職場で座る椅子と給料以外に何を守ったのか今でも分からない。
事実を事実として認めさせても、表立ってバッシングされていたのが陰口になっただけで、何一つ変わりはしなかった。
形成不利と見るや、自分に大きな傷がつく前に逃げ出して新天地でしぶとくのし上がったあの後輩の方が、私よりも何倍も賢かったということだ。
あの後輩にセクハラで訴えられた部長は解雇され、風の噂では奥さんとも別れたらしい。もちろん子供も奥さんについて行って、今では念願のシングルだというから、人生は皮肉だ。
あの男は当然の報いだと思うけれど、どこまでどんなことをしたのかは、私も詳細までは教えてもらえなかった。
正しくとも報われないことの方が世の中には多い。
まつげをこれでもかと盛った、流行りの化粧をした細い女の子が泣きながら訴える言葉の方が、真面目さだけが取り柄の地味なお局の淡々とした客観的な説明よりも有効なのだろう。
取り留めのないことを思いながら、私は何気ない様子で行こうとしていたトイレの前を通り過ぎる。
いつの間にか変わったらしい話題と共に、笑い声が遠ざかる。
私に出来る抵抗は、面と向かって不愉快な言葉を吐きかけられないように避けて回ることと、誰にも好意も、興味すら持たずにいることだけだった。
他に何も思いつかなかった。
騙され裏切られた私の心は、多分大きくヒビが入ってしまったか、どこかが壊れてしまったのだろう。
自分でも制御できないほど不安定になった心を、誰にも何も語らないことで私は守った。
誰も手を差し伸べてくれないのだから、私も手を伸ばす必要などないのだ。
そもそも、誰が不信感の塊になり、ありとあらゆるものを無差別に拒み、遠ざけようとする人間に手を差し伸べられるというのだろう。
無理だ。
私も思いつかない。
だから、この手が何も掴めないのは仕方のないことだ。
ここぞという時に冷静に状況を見極めて、差し伸べられた偽りなく味方の手を、しっかりと掴めないのが私という人間だ。
いつだって、失った後のことを考えてしまう。
恋人ならば恋の一時的な熱が去った後を、友人ならば相手の興味が去った後のことを。
いつでも始める前から終わることを考えてしまうから、最悪の終わりを想定して自分を守る方法を考えてしまうから、感謝や喜びより先に戸惑いや躊躇を表現してしまうから。
だからこの手は何も掴めないのだと、今は分かっている。
でも、分かっていてもそこから踏み出せないのだから何の意味もない。
「坂上さん、お疲れ様」
「原嶋係長。……お疲れ様です」
不意に響いた今一番聞きたくない声に強張った背を気取られないように、笑顔を作って出来るだけ柔らかな仕草で振り返る。
もしかしたら、その手を差し出してくれているのかもしれないその人の好意を見ないように目を背けたまま、何事もなかったように事務的に微笑む。
「急ぎますので、お先に失礼します」
表情を見定められる前に、取り繕った仮面が剥がれる前に逃げ出す。
嘘をつくのが上手になったら大人になったことだと、誰かが言っていた。
もしもそうなら、私は一生大人になんかなれないだろう。
もしも私が嘘をつくのが上手な大人だったら、にっこり微笑んで最寄り駅まで係長と一緒に帰ったのだろうか。
そんな自分はとても想像出来ないから、私はひたすらに足を早めて係長と間違っても同じ電車にならないように、帰りを急いだ。