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敗残の女兵士は毒を纏う。 1

 お局を通り越して生き字引と言われる存在になってしまったと知ったのは、いつだっただろう。

 気がつけば40年近くの年月を会社で過ごしていた計算になる。

 見渡せば、同年代の女性は寿退社して行ったか、家庭の事情で退職していったかで、誰も残っていなかった。

 なぜ私だけ、ここにいるのだろう。

 部下や上司の尻拭いという名の無毛な残業中、疲労にふやけきった脳味噌を絞りながらふと虚しさに襲われる。

 今更のように時々あの時選ばなかった未来のことを思う。

 私が生きてきた時代は、女性は寿退社して家庭に入り、主婦になるのが一般的だった。

 私のようなキャリアウーマンと呼ばれる女たちは、男社会の中で諸々の嫌がらせに耐え、男よりも強く有能であるためにありとあらゆるものを捨てることを求められた。

 そういう意味では、私は最近の子たちが言う勝ち組というものなのだろう。

 曲がりなりにも捨て去ったものに報いられるだけの地位と報酬を、会社からもらっている。

 お金だって使い道も使う暇もないから、そこそこ溜まっている。

 老後は安泰だ。

 今更兄弟の世話になどなるつもりもないから、退職したら身辺を整理して、多少弱ってきた頃に老人ホームに入れば良いだろう。

 それまでは今までがむしゃらに働いた分、多少は遊ぶ暇もあるだろうか。

 そこまで考えて、気付いた。

 打ち込みたいような趣味も、友人もない。

 仕事の繋がりだけが全てなのだと、気付いてしまった。

 もっと若い頃に何かに夢中になっておくのだったと考えても、後の祭りだ。


「生田課長、まだいらしたんですね。お疲れ様です。承認が必要な書類、こちらに置かせていただきますね」


 不意に遠慮がちに声が掛かって、自分以外の人間がいつの間にか傍に立っていたことに気づいた。

 いつもはきちんと巻き上げて纏めてある髪が、少しばかりほつれていて目の前の人物の疲労感を強調する。

 疲れ切り、諦め切った表情をした女が立っている。血の気のない白い顔に開けられた真っ黒な穴のような、生気のない目に、幸福とは言えない年月を重ね、毒に染まり切った女の顔が映り込んでいる。

 その光景に、反射的に息を呑み身を引きかけて、それを誤魔化すように声を荒げる。


「あなたこそ、まだいたの? 早く帰りなさい!」


「でも、決算が纏まらなくて。財務が今日締めだというので」


 疲れ切った女は、ふふふと、虚ろな笑いを漏らして焦点のはっきりしない視線を向けて来る。


「谷田部はどうしたの? 直属でしょ!」


「お帰りになりましたよ。机の上に置いといてって言いながら」


 無理ですよね〜。放置できる書類じゃないですし、承認が〜と、呻くような、呟くような声でうわ言のように言っている姿に、柄にもなく手を差し伸べたくなったのは、感傷的な気分の延長線だったのかもしれない。

 あるいは、ほんの2年前に入社したばかりの彼女が、明るい人懐っこい目を向け、微笑んで挨拶した姿が、胸をよぎったからかもしれない。

 ケバい化粧をした、気難しそうなおばさんにも、物怖じしない様子で微笑んだその笑顔が消えた理由を、私は知っているから。

 新人に毛が生えた程度の女の子に振るような内容じゃない仕事を、目の前のこの子はやらされている。

 谷田部はは、そういう人間だ。

 悪意などなく、人を使い潰す。

 ヘラヘラ笑えば、全てが許されると思っている男だ。新人時代から変わらない。

 あの調子の良さは、一営業としては最高の素質だが、管理職としては最低な部類だ。自分の利益のためならば、立場の強い者におもねり、立場の弱い者にそのツケを払わせることに何の躊躇も良心の呵責も感じない。

 この子の前任者も、それで10年勤めた会社を辞めていった。

 その時私は、私の中で久しく聞いていなかった、何かが切れる音を聞いた。

 ブチっと。

 この日を境に、先が見えた気になって軽く燃え尽きていた私の中に、般若とか夜叉とか、そういう類の戦闘狂的な何かが戻ってきたのは、この子には秘密にしておこうと思う。

 久々に血がたぎる。

 あの子泣き爺のような男を、どうやって料理してやろうか。


「そう。……私がチェックしてあげる。谷田部にも言っておいてあげるわ。書類はどこ?」


「え、でも」


「良いから、持ってくる!」


「は、はいっ」


 言葉に打たれたように、丸まった背を伸ばし、あたふたと書類を取りに行ったその子の背中を見送って、私は身の内深くに沈めたはずの怒りにそっと新たな火種を与える。

 さぁ、雌伏の時は終わった。

 狩りをしようか。


「あ、あの。これです」


 差し出された決算書類をザッと見て、私は唇の端を引き上げた。

 その笑みを見た相手が、ビクッと肩を揺らす。

 そうか。私はそういう笑みを浮かべているのか。

 なんて心踊ることだろう。

 獲物を狩るには、万全の罠が必要だ。

 自らが作った泥濘に足を取られて沈んでしまえば良い。

 私がやることは、ただの泥をコールタールの海に変え、そこに火を放って獲物を骨ひとつ塵ひとつ残さず焼き尽くしてしまうことだけだ。

 なに、命まで取られるわけじゃない。

 社会的に完膚なきまでに殺されるだけだ。

 自分自身が散々やってきたことだ、大したことじゃないだろう? 谷田部よ。

 自分の業に焼き尽くされるが良い。


「大丈夫よ、坂上さん。後は私がキチッとやっておくから」


「は、い。お願いします」


「で、これが終わればあなたは帰れるの?」


「はい、何とか纏まりましたので」


「分かったわ。任せなさい」


 アンタたちの仇は、必ず取ってあげるから。

 どんな汚い手を使ってでも、奴にはきっと最大限に痛い目を見せてやろう。

 どうせ尻尾が決まっている身だ。自分の花道は自分で飾ってやろうじゃないか。


「ありがとうございます! お先に失礼しますっ!」


 勢い良く頭を下げた拍子に坂上さんはよろめき、顔を上げると小さな音を立てて鼻をすすった。

 可哀想に。気持ちが緩んだのだろう、目が赤い。


「足元に気を付けて帰りなさいよ」


「はいっ、お先に失礼します!」


 仕事から解放され、生気を取り戻して一目散に帰り支度を始める坂上さんを見送って、私は電話に手を伸ばす。

 今日も残業に巻き込んだ、まだいるはずの部下を内線で呼ぶ。


「もしもし、原嶋? 手伝ってくんない? そう、別件。谷田部の息の根を止める資料が手に入ったのよ、アンタご執心の新人ちゃん経由でね。え? 巻き込むな? 巻き込んでないわよ。帰れなくなってたから書類預かって帰してあげただけよ。で、どうする? 手伝うの、手伝わないの?」


 電話口でわざとらしくため息をつく部下に、私は笑みを深める。

 コイツはきっと了承するだろう。

 有能である以上に、この男は効率的に物事を運ぶのが得意だし、自分が欲しいと思ったものは全力で取りに行く貪欲さを持っている。

 物腰の柔らかさに騙されがちだが、味方に付ければ最高の切れ味を持つ懐刀になる。

 敵に回せば、飢えた狼よりもタチが悪い男だ。諦めを知らず、相手の弱みを嗅ぎ取り、着実に退路を断ち、最も効率的に相手の息の根を止める。

 1番怖いのは、容赦も躊躇もないことだろう。

 何でも、敵に情けは無用らしい。


「良いわ。裏取り用の資料を集めてちょうだい」


 電話口の向こうで、相手が笑う気配がする。

 これは善行などではない。それでも、長いこと私を飼い続けてくれた組織の膿を出して、ついでに誰かを救えるなら十分意義がある。


「長丁場になるわよ。でも、私の退職までには片をつけるつもり。アンタへの報酬は、私が座っているこの椅子ってことでどうかしら?」


 私の提案に、貪欲な男は低く笑い、追加条件を口にする。


「そう。そっちの狩りには、私がサポートについてあげるってことで良いのかしら?」


 私の問い掛けに、満足そうな返答が返る。

 本当に、可愛げのない部下だ。もしも子供がいたら、こんな感じだっただろうかと思うぐらい、遠慮ない要求を、感想を、意見を述べて来る。

 頭の良い男は好きだ。関わることが楽しい。こちらの求めることを理解出来るだけの気働きが出来る人間は、更に可愛い。

 だから、全力でサポートしてやろう。

 この子たちが、私が見ること叶わなかった景色をその目に映す日が来るのを思い描いて私は、目を細めた。

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