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温かいブランケットはお好き?

「うん。良い香りだ」


「ええ、こちらも美味しいです」


 オリジナルブレンドのコーヒーをひと口含んで、原嶋氏はその香りに満足気に目を細める。

 私もココアに口を付けて、その甘い香りを堪能した。

 その間にも、繊細に形作られた薔薇の花がまるで花開くように綻んでいく。


「本当に見事な薔薇の花だね。融けてしまうのがもったいない」


「……でも、消えてしまうからこそ、美しいと私は思います」


 まっすぐに見つめると、原嶋氏の表情から柔らかな笑みが消える。

 融けてしまった薔薇の花のように、それはあまりにも呆気なく。

 そのことを不意に寂しく感じて、わずかに胸が痛んだ。

 2度瞬きをするぐらいの間に、原嶋氏はその顔に苦笑を浮かべて頰杖をつき、チラリと私を見る。

 そして少し困ったような溜息をついた。


「間違いなく、なんで自分なんだろうって思ってるよね、坂上さんって」


 唐突に切り替わった話題に表情を作り損ねて想定以上の無表情で無愛想に頷いた私は、自分でも安定の女子力の低さだと思う。

 それでもそんな私の様子に気分を害した様子もなく原嶋氏は淡々と言葉を重ねる。


「生田さんが言ってたけどさ、本当に俺が思ってた以上に自己評価低いよね。色々と鈍いしさ」


 ええと? なんだこの無駄なイケメン。今度は人のことディスるの!?

 軽く混乱してフリーズした私に、容赦なく攻撃を加えて来るとか。

 何したいの、この人!

 そして何余計なことしてくれてんのさ、女豹っ!!!


 心の中で嵐のようにツッコミを繰り返す私は、表面上は再起動し損ねて中途半端な表情を貼り付けたまま、ウロウロと視線を彷徨わせているように見えることだろう。


「そこがまた良いとか思ってる俺に、自分自身が一番驚いているんだけどね」


 静かに告げられた言葉の内容を、私の脳味噌が理解することを拒む。

 意味が分からない。

 私は、自分にそんな価値があるなんて思えないから。

 1番華やかな20代を丸々捧げた会社に、まるで廃棄物のように捨てられた自分の傷に爪を立てるようにして思う。

 自惚れてはいけない。

 思い上がってはいけない。

 何かを欲しがってはいけない。

 この手に何もなければ、私はそれを失う恐怖に怯えなくても済む。

 だからこれは、間違っても告白などではないのだ。

 手のひらが汗ばんで、頭の先から音もなく血の気が引いていくのが分かる。

 胸が苦しくて、息が出来なくなる。

 ああ。思っていた以上に私はあの子に裏切られたことに、そして会社という組織に切り捨てられたことに傷付いていたんだと、冷静な自分が胸の底で小さく呟く。

 今の私はどれほど心を込めた言葉を重ねられても、決して信じられないだろう。

 どうやって自分を、他者を、未来にあるはずの希望を幸福を、私は信じていたのか思い出せない。

 縁の結び方も、好意の表し方も思い出せない。

 思い出せない、思い出せないのだ。

 思い出そうとすればするほど、指先が冷えて痺れて、震え始める。

 震える指先を強く握りしめて、意識して息を吸う。

 笑えるぐらい、私は自分自身を失ってしまったらしい。

 こんな私を、あなたにだけは見られたくなかった。

 精一杯の強がりで浮かべた笑顔でも、あなたの手を振り払った時の強気な顔でも良い。こんな風に心の一部が壊れてしまった私を、あなたの目にだけは触れさせたくなかった。


「……ごめん。ちょっと出て歩こうか?」


 私の表情を伺っていた原嶋氏が、不意に息を飲んで立ち上がる。

 とうとう気付かれてしまったと、自嘲が浮かぶ。


「折角のココアを残すのはもったいないので、私は全部飲みきってから帰ります。どうぞ、お気遣いなさらないで」


「それって、聞く必要あると思って言ってるの?」


 上手く息が出来ずに乱れる呼吸を悟らせないよう、意識してゆったりと話した私の言葉を遮って、原嶋氏は強引に私の荷物と自分の鞄を持ち、私の腕を取る。


「有難いことに俺は坂上さんの上司じゃなくなったから、セクハラだって訴えられることを気にしなくても良くなったんだよ」


 脇から肩を貸されるようにして、立ち上がらされる。

 ふわりと微かに、洗剤の匂いに混じって男物の化粧品の匂いが薫って私の心を乱す。

 素早く会計を済ませた原嶋氏は、そのまま私を連行するかのように階段の影の周囲から死角になる場所まで連れて行き、私がすっぽり収まる程度の隙間に押し込み、少しの間の後、私の背にそっと手を当てた。


「全部吐き出しちゃいなよ。ここにいるから。もう俺は、上司じゃないんだし」


 真剣な声色で気遣われた後に、冗談めかして付け加えられた柔らかな声が、申し訳程度に添えられただけの手が、明らかな温もりになって冷え切って強張った体に染み込む。

 きっと後もう少し若ければ、私は何も考えずこの温もりにすがれたのだろうと、相変わらず痺れたままの頭の片隅で思う。


 ああ。


「女々しくて、辛い……」


 ポツリと呟いて、こぼれ落ちた涙を隠して笑う。

 ややこしくて捻くれてて面倒臭い自分の性格に、後から後から溢れる涙を止めることも出来ないまま苦笑する。

 こんな時にも、素直に甘えられずに笑いを取りに行ってしまう私に、呆れてくれれば良い。


「坂上さん、そのネタ古いよ」


 呆れを含みながらも柔らかくて温かな声色に、更に涙が溢れる。

 そして意外と笑いの沸点が低いらしいのが、押し当てられたままの手から伝わる震えで分かって、何だか急にそれまで考えていたごちゃごちゃしたことがどうでも良くなった。

 気の利いたことひとつ言えないし、可愛げなんて既に存在しないし、今更素直にまっすぐになんてなれない。

 それでも。

 失敗して傷付いた分変な風に歪んで捻れてしまった厄介な私を受け止めてくれるなら、それで良いんじゃないかと思う。

 “いつか”の日がいつなのかなんて私には分かりようなんてないけど、今ここにある感情も存在も、否定する必要なんてない気がする。

 それで良いじゃないか。

 今更失敗なんて、怖いことじゃない。

 怖気付く必要なんてない。……たぶん。


「あー。やっぱ無理」


「え、ちょっ、ちょっと何? ちょっと待って。や、ぐちゃぐちゃだからダメ、涙だけじゃなくて鼻水も出て」


「良いから、黙る。撥水加工してあるから。無理ならクリーニングぐらい出せる」


「ひょああああ」


「何その声。ホント、口開くと全力で面白いよね」


 驚き過ぎて涙が止まった私をクルリと引っくり返して、ぐちゃぐちゃになった顔を覗き込んで来るコイツは間違いなく悪魔だ。

 この世のどこに、辛うじてアラサーに引っ掛かっていると自称しているお局の泣き顔に対する需要があるんだ。

 あれだろう?

 こういうシチュエーションって可憐で砂糖菓子ででも出来てるんじゃないかっていう、ふわふわスイート系女子だからこその需要じゃないの!?


「ん? もしかしてすっぴんだったの?」


「無職なもんで、誰にも会うつもりもありませんから口紅しか付いてませんけど」


「……えー。あー、どうしよう。予想外なんだけど。予想してたけど、予想外」


 どっちやねん!

 そして、気になるのはそこかい!


 思わず全力でツッコミを入れた私は、どうやら相当不満な顔をしていたらしい。

 一旦止まった原嶋氏の忍び笑いが復活して、地味にムカつく。


「あー。触りたい。触るね、触るから」


 分かります、触るの活用形ですね。

 って、分かるかい!

 理解を示してたまるか!

 知るかこんのセクハラ親父。イケメンは何しても許されるとか、錯覚してんじゃないぞ。


「おー。奇跡のツヤぷに肌」


 ツンツン、ぷにぷに。


「涙ちゃんと弾いてるとか、スゲー」


 おい、おっさん、口調。

 そして顔に触るな、荒れる。


「……帰る」


 不機嫌度が鰻登りになった私は、ムッスリ顔を隠しもせずに無遠慮に触れて来る手を叩き落とす。

 感動を返せと、今の私は全力で叫びたい。


「待って。調子に乗ってごめん、嬉しくてさ」


 片眉を上げて睨む私に、無駄にイケメンなセクハラ親父予備軍が肩をすくめる。

 ……何だろう、このイラッと感。

 だから何で許されるの前提で話進めてるのさ。

 いや、たぶん許すんだろうけど。っていうか、それほど怒ってもいないんだけど。

 何故だろう。勢いが尻すぼみになって、ちっとも怒れない自分がいる。

 これはもう、絆されるというやつなのだろう。困ったものだ。


「ああ、もう最高。薄化粧だなっていつも思ってたけど、思ってた以上に最高。もうテンション上がり過ぎて何言ってるのか良く分かんなくてごめん。俺、ケバいのも特殊メイクかっていうぐらいの詐欺メイクも嫌いなんだよ。化粧落としたら別人とか、どういうホラーだよってさ。うん。普通に美人で安心した」


 誰この人。え、こういう人だっけ。

 思わず目が点になって、さり気ない褒め言葉をスルーしかけてハッとする。

 今、何か聞き慣れない言葉を聞いた気がする。


「何、を」


「俺が1番気に入ってるのは、坂上さんのそういうところだけどね。そう、俺の上辺に騙されないところ。確かに俺だって彼女とか奥さんは美人の方が良いけどさ、見てくれだけに執着されてもね。だって、家族になるってそういうもんじゃないでしょ」


「はぁ。そうですね?」


 え、ちょっと待って。何? これってまさかの告白なの?

 そこ? そこがツボなのこの人。

 まさか!


「じゃあ、良いよね」


 だから、何が。


「俺と付き合ってくれるってことで良いよね。もちろん結婚を視野に入れて」


「はへ?」


 言葉が変な風に引っ掛かり、気の抜けたような変な声が出て、原嶋氏に苦笑される。

 どこまでもムードのない奴でごめんなさい。

 基本的に、締まらない人間なんです。天然系のボケなんです。そして、悪気はないんです。


「とりあえずお試しでも良いからOKして。そうじゃないと」


 変な場所で言葉を切り、原嶋氏は例のご褒美的な真っ黒な笑みを浮かべた。

 あああ、実にニヒルで素敵!

 ……じゃないでしょ、私。しっかりしろ、正気を保つんだ。

 私だって普通に女子だからイケメンは大好物ですが何か?


「このまま離したくなくなりそうで、困る」


 ええと?

 正気?

 なんか、いつの間にか腕を掴まれているんだけど?

 冗談でしょ!


「人間違いは……」


「していないよ。俺はちゃんと誰かの代理じゃなくて、坂上さん、君を本気で口説いてる」


 燻し銀のフレームの向こうの瞳は、逸らしようのない強さで回答を迫る。

 誤魔化せないことが、こんなにも心に熱を呼び込んだことが今まであっただろうか。


「……ブランケットが欲しいです。凍えて眠れない夜がないように、とびきり温かなブランケットが」


 手を伸ばして、そっと触れる。

 心が弱っているから縋りたくなるなら、それでも良いのではないだろうか。

 それじゃダメだったということは、この関係が壊れて泣く時に反省すれば良いんじゃないだろうか。


「原嶋さんは、温かいブランケットはお好きですか?」


 ふわりと、手を回して触れる。

 反射行動のように回された腕に顔を擦り寄せて訊いた私に、原嶋氏は真面目な顔で頷いて言った。


「是非とも、フワぷにな抱き枕つきでお願いします」


「……はい。返品不可で」


 雰囲気が壊れるから、どさくさに紛れて顔を拭いたことは気が付かれるまで黙っておこうと思う。

 すっかり熱くなってしまった頰の熱を誤魔化しながら、そんな不埒なことを考えていたことは内緒だ。

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