鼻歌はそよ風にのせて
私が通勤に利用している区間は大半の乗客が降りてしまうターミナル駅の先にあったのでいつも余裕をもって乗車出来たし、週に一度か二度くらいの割合で訪れる運がいい日には座れることさえあった。今日はまさにその運がいい日で、開いたドアの向こうに鮮やかな原色で存在を示すシートを見つけた私は一目散にそちらへ向かうとよいしょとばかりに大きなお尻をシートに落とし、ふうと安堵の息を漏らした。我ながらおばさん臭い所作だとは思うが綺麗事はいってられない。乗車時間は長くはないけれど、この朝のひとときに消費するエネルギーはこのあと一日の流れを左右してしまうほど重要なのだ。
首尾よく安住の地を確保した私が『そういえば今朝のニュースの占い良かったっけ』などと内心ニコニコで考えていると電車はモーター音のピッチをあげてゆっくりと動き出した。それをきっかけにスマホを取り出していつものサイトを巡回しようと画面に触れる。情報収集は働く女性の嗜みですもの。
ガタンゴトンと軽快な音をたてて電車は走り窓の外には雑居ビルが建ち並ぶ見慣れた街の景観が流れていき、私はそのリズムに合わせるようにスマホの画面を指先で撫でた。白く光る画面を背景にせわしなく指を動かすとニュース記事の写真が現れては画面のなかを横切り、消え去る。そのとき私の耳にメロディーが入ってきた。鼻歌だ。「ふんふんふん♪」と気持ちよさそうに歌っている。
『えっ⁉マジかよ』
私は当惑した。夜更けの最終電車やその頃合いの車内ならば、一杯ひっかけてご機嫌になったおじさんが真っ赤な顔で吊革にぶら下がりフラフラしながら臭い息で鼻歌を歌っているのはよくある光景だろう。だが、朝のこの時間にはあり得ないことだ。異質な存在に乗客たちの間に緊張が走り、車内は張り詰めた空気に包まれた。オペラホールで息を呑み耳を澄ます観客たちを前にしたテノールのように、張り詰めた空気に呼応して歌声は音量を上げていった。私はスマホの画面を見つめていたが意識はすべて鼻歌の主に向けられていた。視線は画面に浮かぶ文字列を追っていたが内容は何ひとつ頭には入ってはこない。ついさっきまでは最高潮だった気分は一気にどん底まで落とされてしまった。目の前で動かしている指先のネイルの色褪せまでが気になってくる。
車内の緊張が限界に達し誰もが耐え兼ねる思いを抱き始めた、そのとき、男性の声が車内に響いた。
「ちょっと、あなた」
私は、はっとして顔を上げそちらを見てしまい、次の瞬間『しまった』と思ったが衝動と好奇心には勝てず声の主とスマホとを交互にチラ見するなんとも不審な動きを続けていた。声をかけたのはリタイア後の人生を優雅に満喫しているという印象を与える、カジュアルな装いも様になっているおじいさんだった。いかにも自信にあふれ頑固そうな表情をしている。意外だったのは鼻歌を歌っていたのは大学生くらいの男の子で、ファッションの通販サイトのサンプル画像から抜け出してきたような恰好をしていた。いかにも『僕は優秀です』と顔に書いてあるような表情をしていて、リア充を説明する必要になったときにはこの子を連れてくれば他に言葉はいらないだろうと思わせるほどだった。
これで解放されるという思いと、トラブルはごめんだという思いを胸の中でぐるぐるとかき混ぜながら私と乗客たちは成り行きを見守っていた。男の子は悪びれる様子もなく、かといって開き直るといった風でもなく爽やかな表情から爽やかな声で答えた。
「はい、なんでしょう」
ところがおじいさんの次の言葉は予想だにしていなかったものだった。
「あなた今歌っていた歌だけど、それなんて曲?」
「あ、この曲ですか。動脈瘤というバンドの『仏の顔もハムサンド』という曲なんですが、ネットで動脈瘤、ハムサンドで検索すれば見つかると思いますよ」
「動脈瘤……ハムサンドね。ありがとう、あとで調べてみるよ」
「いえいえ。それはそうと、ご迷惑でしたか。つい無意識に歌ってしまってました、ごめんなさい」
「いやいや、迷惑だなんて。君の歌を聴いててね、なんというかメロディーが心に引っかかったというか気になってしまってね。曲名を聞かずにはいられなくなってしまったんだよ、わっはっは」
などとふたりが談笑をしていると、電車は速度を緩め窓の外には駅のホームが現れた。
「あ、僕はここで降りるんです」
「そう。曲名ありがとね、あとで調べてみるよ」
「お役にたてて良かったです。それじゃあ」
「じゃあね」
男の子が降りるとドアが閉まり、電車は再びガタンゴトンと軽快な音をたてて走る。車内にはいつも通りの空気が戻ってきた。おじいさんはいつの間にか姿を消していた。きっと隣の車両に空席を見つけたのだろう。私はふたりの会話を思い出しながら、耳にしたばかりのバンド名と曲名を検索窓に打ち込んでみた。公式サイトやダウンロード販売サイトがずらりと表示された。電車が速度を緩め窓の外に降りる駅の姿が現れたので、立ち上がるとドアの前で身体を揺らしながらスマホの画面を見つめていた。
「ほんと、ドキドキしちゃいましたよぅ」
始業前のミーティング。部署の『ぬし』であるとも子さんと先輩のアケミさんと私、女三人、給湯室でのいつもの雑談タイムだ。私は電車での出来事をふたりに話していたところだ。
「キモイやついるんだね」アケミさんは大あくびをした。
「それきっと鼻歌マーケティングですよ」
しょうた君が給湯室に入ってきた。彼は私のひとつ年上で、給湯室での滞在を許されている唯一の男性社員だ。その理由は彼がとも子さんのお気に入りだからということは周知の事実であったが、誰もそれを口にすることはなかった。
「はなうたまーけてぃんぐ? なにそれ?」
とも子さんは給湯室内のあれやこれやの在庫確認をしながら聞いた。
「鼻歌マーケティング。ちょっと話が長くなるんですが」
しょうた君は持っていた缶コーヒーをプシッと開けるとひと口飲んだ。
「最近、街中で流行の曲を聞かなくなったとは思いませんか?」
「そうかなあ」とアケミさんは私を見た。
「そういえばそうかもね、昔はあっちこっちで流行歌が流れていたような気がする」
と、とも子さん。
「そうなんですよ。著作権管理団体が料金徴収にうるさくなったので曲を流しづらくなったそうなんです」
しょうた君はコーヒーをまたひと口ぐいっと飲んだ。喉ぼとけがくっと上下に動いた。
「口の悪い連中は『そのうち鼻歌にも料金徴収にくるぞ』なんていってたり」
「えーっ、鼻歌まで取り締まってたらキリないじゃん」アケミさんはケラケラと笑った。
「もちろん冗談ですよ。それくらい厳しいという意味で。ところで、街中で曲を流せなくなったらどうやって宣伝すればいいと思います?」
「んー、ドラマとかCMとか? そこからヒットした曲知ってるし」
私はしょうた君の表情に答えを導きだそうとした。
「だよね、実際大きな会社だとタイアップとしてよく使われているよね。でも、ドラマやCMに使ってもらえない小さな会社はどうするか。そこで頭を抱えてしまったんだ」
「なるほどねぇ。で、どうしたの」
私が聞くと、しょうた君の演説は益々熱を帯びてきた。
「ある日の会議で、小さな会社のひとりの社員がこんなことを言い出したんだ。『現時点で鼻歌が料金徴収の対象になっていないのであれば、我々はそれを宣伝に利用してはどうでしょうか』と」
「まじかー」
アケミさんはツボに入ったようで大うけだ。私ととも子さんは「ふむふむ」と聞き入っている。
「もちろん、本当かどうかは分りませんけどね。それに話題にでもなれば儲けものくらいの考えで始めたのかもしれません。あちこちで鼻歌を歌って新曲の宣伝をしているそうですよ」
「今朝、私が見たのもそれだったのかな」
「たぶんね」
「でもさ」とも子さんが納得がいかないといった表情で聞いた。「それってトラブルにならないの?」
「ですよね。今朝のはおじいさんが声をかけたから揉めずに済んだけど」
「あ、そのおじいさんも仲間ですよ」
「えっ⁉」三人で気持ち悪いくらいきれいに揃った声を出した。
「当然トラブルも想定されているようで、そうなる前にタイミングを見計らって仲間が声をかけるそうなんです。他人を装ってね。で、曲名を聞くわけです。そうすると鼻歌担当が曲名を答える。すると周りの人たちの耳にも曲名が入るという仕組み」
「なるほどねぇ。そういえば私もその場でバンド名と曲名を調べて曲を聴いちゃったもん」
私は『やられたー』という顔でおどけた。しょうた君はニコニコして私を見ている。
そのとき、廊下の向こうからご機嫌そうに鼻歌を歌いながら部長がやって来て、給湯室の前を通り過ぎていった。その鼻歌は、私が入社した時からずっと同じ曲で、しかもサビの部分だけを何度もなんども繰り返している。私はクスクスと笑いながらしょうた君に聞いた。
「あれも鼻歌マーケティングかな?」
「ぷっ、どうだろう」しょうた君もクスクスと笑う。
すると、とも子さんがぱんぱんと手を叩いていった。
「さあ、おしゃべりはお仕舞。仕事始めるわよ」
「は、はい」
とも子さんの目の奥から刺さってくる冷たいものにぎくりとしながら私は給湯室を後にした。
「よっしゃあ」アケミさんも後に続く。
廊下を歩いていると後ろから鼻歌が聞こえてきた。とも子さんの声だ。その曲は今朝電車の中で聴いたあの曲だった。
『あれ? とも子さん知ってたのか』
私は『そういえば今朝のニュースの占い良かったっけ』と考えながら鼻歌交じりで自分の席に向かった。
実在の企業、団体とは関係ございません。
主義主張もございませんので悪しからず。
NO MUSIC, NO LIFE.