星歴2012年12月4日、午後10時。
8.
星歴2012年12月4日、午後10時。
マフィアたちは多分、爺さんの家やガレージを家探しして、珈琲店の周辺にも大勢で張り込んでいるだろう。これまでの小競り合いでは、密輸品の取引現場で鉢合わせてマシンガンの銃弾をばら撒かれたりしたものの、彼らの不利益になる様なことはしてこなかったはずだが今回はそうはいかない。マフィアたちは全力でお姫様の奪還をはかりにくる。このコロニーに張り巡らした情報網を使って、そして隠れ家に縛って放置したマフィアたちから情報を手に入れて。それは、マフィアたちを生かして返した以上、想定すべきことだ。自分の立ち回る先々は、既に全て見張られていると思って良い。今は何処に顔を出しても、捕まるのは目に見えている。
艦長からの警告を聞いた時、そこまで考えて追われる身となったレンが採った方法は単純だった。
逃げなかったのだ。
レギオンは、星船が長期間無寄港で航行出来るのと同じ様には、長時間の稼働が可能な様には作られていない。今後もレギオンを使うならば、水素タンクの補充は必須だった。装着された2つの水素タンク容量から算出されるレギオンに残された稼働時間は、残り2時間程度だろう。予備の水素タンクはガレージにストックがあるが、ガレージに戻るのはマフィアの捜査線が伸びきってからだ。
お姫様の救出後も契約外労働を強いられるとは想定外ではあったが、結果的にお姫様が単なるカプセル入りのお荷物でなく、いざとなればレギオンなしでも自分の足で歩ける様になってくれたのはプラスの要素と考えるべきだろう。いずれにせよ、二人が助かる為には、マフィアに知られずに艦長にだけ、こちらの位置を知らせる必要があった。
すっかり取り乱したお姫様を何とか落ち着かせると、胸の前まで引き上げたレギオンの左手首にツナギを着せたお姫様を座らせて、レンは艦長から指示されたコロニー外周から内殻を貫通し中心軸に達するメンテナンスシャフトを遡るのは止めて、反対側、コロニー外殻へと向かった。
目指すのは、真空の宇宙空間に暴露されたコロニーの外殻と、コロニーの外周リングの外側の間に作られた僅かな緩衝区画だった。居住空間より外側に位置するので、遠心力による人工の重力は1Gより若干大きかったが、居住区同等に与圧された空間が隔壁に隔てられて、人工の迷宮のごとく無数に存在している。人口過密なコロニーにあって、港湾地区の再開発地区よりも更に人口密度の低い場所。なぜなら、人ひとりいるはずもない場所だったから。ここは、世界で最も寂しい迷宮だった。以前、動力炉を抱いた衛星がコロニーに飛び込んできた際、瞬時にコロニー内からの空気の流失が止まったのは、破られたこの様な緩衝区画のひとつを緊急放出されたゲル状の充填剤が満たすことが出来たからだった。
区分けされた各空間は強固な隔壁で約10m四方の小部屋に区切られ、おのおの独立した保安装置が稼働していて、情報はコロニー全体で集中管理されている。統合管理システム自体は簡単にハッキング出来る代物ではなかったが、各小部屋単位の管理コンピュータは隔壁の操作パネルに造りつけられた端子経由で、レンは10分程で簡単に制御を乗っ取ることが出来た。一つの扉に10分、これまでに3つの部屋を抜けてきた。レンにとってはレギオンの走行テストを行う為にハッキングした農業区画の管理コンピュータと提供しているメーカーが同じで、ハッキングの手順も同じで良かったことが幸いしていた。通り抜けてきた隔壁の扉は、開閉しても状態の遷移を上位の統合管理システムには通知しない様に、都度細工をしてきている。
レンはメンテナンスシャフトに接した緩衝区画の最初の小部屋から念を入れて3部屋まで奥に進んだところで、レギオンの歩みを止めた。無数に存在する小部屋の中から、ここを特定することは誰であっても不可能なはずだ。ただ、シャフトから近い部屋を、虱潰しに探される可能性はある。後でシャフトに近い部屋には、念の為に警報トラップを仕掛ける必要があるだろう。
レギオンの左手を水平に保ったまま右足を引いて腰を落とすと、大急ぎでヘッドセットを外してお姫様を見に行く。レギオンの左手首に腰を下ろした彼女は、盾の裏側とレギオンの胸部装甲の隙間で、まだレギオンにもたれ掛る様にしてしがみ付いている。
「もう、大丈夫だよ、お姫様。暫くは、誰も追ってはこない」
目を覚ましてしまった以上、レギオンの走行音はうるさかろうと臨時に詰めて貰った耳栓のせいで、レンが何を言っているかは分からないみたいだったが、レンが手を貸すと彼女は恐る々々といった感じで降りてきた。レギオンの走行による振動のせいか、永い眠りから起きたばかりだからか、ふら付く彼女を支えてレギオンの足元に座らせる。
「あ、ありがとう」
この辺りは、居住地区の直下、1層下のブロックで、寒々とした無味乾燥な空間だった。今でも少し肌寒く感じるが、夜が更ければ更に冷え込んでくる。耳栓を外すと、彼女はツナギの肩に掛けた毛布を両手で掻き寄せた。
比較的、冬の期間設定が短いコロニーでは12月の季節設定はまだ晩秋だったが、深夜から朝方に掛けての冷え込みは意外に厳しく、時折、生活区画の外気温が氷点下まで下がる夜も設定されていたりもする。コロニーの気象変化は温湿度と照度だけの再現に止まるので、雨や雪、風の再現は望むべくもないのだが、それでもコロニーに住む人々は、色付く街の街路樹や少しづつ短くなる日照時間、朝晩の冷え込んだ空気に遠い故郷の冬を思い起こしているのかもしれない。もっとも、今や多くの住民がこのコロニーで生まれ育った世代によって占められており、移り変わる季節の中で抱く郷愁は薄れつつあるのだろう。
コロニー育ちのレンにとっても、懐かしむべき暖炉を囲んだ温かい家族団欒の思い出など持ち合わせてはいない。ただ、祖父のガレージの隅で、赤熱した電熱ヒーターが投げ掛けてくれる温かさには、いつもガレージで機械を修理したり組み立てたりしていた祖父の背中を想い起こさせてくれる何かがある様な気がする。レンが外出している今、ガレージは冷え切ったままで、赤熱した電熱ヒーターの投げかける柔らかな温もりは絶えて久しかった。
あるいは、僅か12時間前にも聞いたはずの、珈琲店のコンロに置かれた使い古されたケトルが立てる蒸気の音が、失ってしまった何か遠い日の永遠に続くはずであった穏やかな日常の一部であったかの様な、記憶の中の残響の様に一抹の寂しさを伴って思い出された。
「ちょっと待っててね」
レンはポケットから多目的ドライバを取り出すと、手早く壁のメンテナンスパネルを外して、壁の内側から熱水の循環する金属パイプを露出させた。パイプは断熱されておらず、寧ろ熱を発散させることが目的の設備の一部だった。
銀河標準時間で設定されたコロニーの日の出から日没までの間、季節に合わせて流量を調整された熱水が、コロニー各層の地下に張り巡らされたパイプを走っている。パイプの元をたどると、コロニー全体に電力を供給する熱核融合炉の排熱備蓄システムに行き着く。溜め込んだ熱核融合炉の排熱を排熱備蓄システムで交換して、熱水という形で日中の間だけコロニー内に行きわたらせて、日照による温度変化が生じない生活区画内に日中と夜間、あるいは夏と冬の気温差を作りだしていた。
熱水の供給システムは完全な閉鎖系で、供給された熱水はコロニーの生活区画を循環して徐々に熱量を失ったあとも同量が全て熱交換用の備蓄タンクに戻ってくるが、コロニーの夜間の時間帯であっても実際にはパイプを流れる熱水の流量を絞るだけで僅かながら循環が維持されていた。供給を完全に止めて循環系が凍結されたりでもしたら復旧は容易ではないであろうし、溜め込んでいるだけで夜間であっても熱核融合炉の排熱は発生し続けている。
夜間は発電量そのものを減らせば排熱も減る様にも思うが、実際には一日周期で発電量を増減させるのは難しかった。熱核反応の増減は余程の緊急事態でもなければ数か月単位で緩やかに行われ、これまでもコロニーの人口増や生産設備の増強に合わせて右肩上がりの上昇を継続している。それでも政府からは、熱核反応炉の設計値を超えて電力供給量が頭打ちになるであろう事態よりも、飲料水や食料の供給が限界に達するのが先であるとの見込みが示されていて、コロニーでは長期計画に基づいて食料生産の為の工場や農地の造成が続けられていた。
レンが壁のパネルを外すと、寒々とした部屋のひと隅に、徐々にではあるが、ほのかな温もりが生まれつつあった。少女に暖かなパイプの傍に移動して貰う。
彼女はちょっと恥ずかしそうにレンを見上げた。
「さっきは、取り乱しちゃって、ごめんなさい・・・。え、えっと、わたしは、彩夏。彩夏・レインよ」
お姫様は、彩夏。つい先ほどまで文字通りの箱入り娘だった訳だが、今更ながら一人の女の子だった。そう思うと、肩に掛けた毛布の下で彼の貸したツナギの上下はかなりだぶだぶで、全部ボタンを留めていても開いた胸元に視線が行ってしまいそうになる。
「いや、こちらこそ、ごめん。僕はレオナルド・ブラックエルダー。レンって呼ばれてる。・・・その、もう、寒くない?」
もとから恥ずかしそうにしていた彼女だが、レンの一言で更に真っ赤になってしまった。結果的に、裸で彼に迫ってしまったのを、思い出したのだ。最初は、自分の髪の毛が普段の黒髪からなぜか亜麻色に染まっていて、てっきり仮想世界の続きかと思った。でも、どうやらここは、仮想空間ではないらしい・・・。
「だ、大丈夫。あ、熱いくらいだから。何言ってるんだろ、わたし・・・」
恥ずかしそうにしている少女は、初めてカプセルの中に横たわっているのを見た時に比べると、幾分、現実身のある姿だった。濡れていた亜麻色の髪も、冬の湿度の低い外気に晒されて少し乾いてきた様だ。おそらくは無菌に保たれていただろうカプセルから出されて、髪が濡れていては風邪を引いてしまうかと心配になったのだが、取りあえずは大丈夫そうだ。先ほどは肌が抜ける様に白くて、カプセルの保存液と一緒に溶けて消えてしまうかとさえ思えた。
「100年も眠っていたんだから、マフィアに狙われてさえなければ、本当は直ぐに病院につれていった方が良いに決まってるんだけど。カプセルが破損しちゃって、短時間で蘇生させなければならなかったし」
先ほどは素肌を晒す彼女を見てさえ、その美しさに驚く以上の感情など湧かなかったのだが。今はダブダブで薄汚れたツナギを纏った姿の彼女と、視線を合わせるのさえもが難しいとは、気まず過ぎる。言葉の内容というよりは胸の内の動揺からか、言い訳めいて少し呟く様な小声になってしまったレンの言葉に、彼女の顔立ちにぴったりとあった、小ぶりな唇が戦慄いた。
「100年?100年て、如何いう意味?」
艦長もマフィアも、現時点で彼女が蘇生されることは想定していなかっただろう。もし、考えていたとしたら目覚めた彼女に最初に会った者は、彼女に何を話すつもりだったのだろうか? 本来なら、その役目を担うべきは心理カウンセラーか、医者なのかもしれない。
彼女の亜麻色の髪は、まだ保存液で僅かに濡れていた。
100年の静謐に浸されていた亜麻色の髪、いつか地上の風になびくことを願って眠りについたのだろうか?
彼女は自分の運命を、何処まで知っているのだろう?
「正確なことは僕も知らないのだけど、きみがカプセルの中で眠りについたのは、100年前なんだって。くじら座タウ星系の神聖連邦がきみの故郷でしょう?その国は、100年前になくなってしまっているんだ」
彼女のほっそりとした咽喉が、少し震えた様だった。
「そう、なんだ・・・。わたし、100年も眠っていたんだ」
なんとなく、分かった。
このひと、嘘を言ってる訳じゃない。
男の人は皆、嘘つきだ。誰も本当のことは言わない。みんな、また会いに来るって言った。だから、待っていてほしいと。でも、今日に限って、このひとのいうことは、嘘じゃない。嘘をついてくれた方が良かった・・・。
一緒に住んでいた訳でも、とりわけ仲が良かった訳でもなかったけれど。彼女の友人も、彼女のことを知る人も、この世界からは誰もいなくなってしまっていた。それに、姉さん。姉さんだけは、いつか会えると信じていたのに・・・。自分の存在だけが、ぽつんと忘れ去られてしまった、そんな孤独が彼女を包んでいた。
戻りたい。
自分の生きていた、過ぎ去りし過去に。
過去に閉じこもってしまいたい。
いつでも読み返せる、いつか読んだ本の中の、1ページみたいに。
「・・・子供の頃ね、村の近くの森でかくれんぼをしていて、自分ではとてもうまく隠れたつもりだったのだけれど、遊んでいた子たちは誰も見つけてくれなくて。そのまま待ちくたびれて寝ちゃったの。何時間たったのか、探しにきたお父さんに起こされたわ。隠れていた大きな木の洞の周りはすっかり夜になっていて、村中の大人の人が大勢松明を手に集まっていた」
彼女は遠い目をして、微かに微笑みを浮かべた。
「目が覚めて急にわたし、怖くなったの、叱られると思って。でも、姉さんも、お父さんもお母さんも、一緒に探してくれていた村の人たちも、笑ってくれた。まだ、自分が小さかった頃の、うれしかった思い出」
彼女のちょっとはにかんだ様な横顔は、とても、綺麗だった。
「そうか。家族の人も村の人たちも、うれしかったんじゃないかな。レインさんが無事見つかったからね」
彼女は、ふふっと、微笑んだ。
「そうかもね・・・。彩夏、でいいよ。わたしも、レンって呼ぶね・・・。その頃が、一番楽しかったのかも。あの時見つけてくれたお父さんは、今はもう、迎えに来てはくれないのだものね」
僕は掛ける言葉が思い浮かばなくなってしまった。僕も子供の頃両親を亡くしたが、代わりに祖父が育ててくれた。祖父が亡くなった後も、珈琲店のマスターや、少なくとも自分を知る人たちがずっと、周りにいてくれた。マフィアに追われ、二度とマスターには会えなくなるかもしれなくても、だ。
「楽しい時は、きっと、すぐに過ぎ去ってしまうものなのね。その後すぐ、戦争が始まってお父さんも村の男の人たちも皆、戦争に行ってしまったわ。残されたお母さんが病で亡くなって、姉さんもわたしより先に街に働きに出てしまって、わたしは一人になってしまった。それで、わたしも学校のある大きな街に出て、小さなアパートで独り暮らしを始めたの。学校はわたしの他にも戦争孤児も多くて、授業料もタダにしてくれていたし、最初は何とかなったのだけど。でも、戦争が長引くにつれて周りからいつの間にか人が減っていったわ。学校の男の先生や、卒業間近の生徒まで。それで街はどんどん物価が上がって、いつの間にか家賃も払えなくなってしまったわ」
100年も前の戦争。
彼女はその戦争の犠牲者なのだった。彼女は何も悪くはなくとも、戦争は彼女の人生に影を落とし、確実に捻じ曲げてしまった。
「いつの間にか、姉さんにも連絡が取れなくなってしまって。それで、わたしは娼婦になった。昼は学生、夜は娼婦。仮想世界を通って、遠く前線で戦う男たちに抱かれたの。あの日、いつも通り、仮想世界のホテルの一室で目を覚ましたわたしは、その日の、その日限りの相手を待っていた。いつも通り・・・」
彼女は遠い日の記憶を探る様に美しい眉に少し顰め、長い睫毛の下の目を見張った。
「現れたのは年配の、少し痩せた学者風の人だった。グレーの髪と鼻の下にもやっぱりグレーの髭を蓄えて、銀縁の眼鏡を掛けていた。その人はわたしに言ったわ。キミの人生を買い取りたいって」
100年も前に、アパートに住む身寄りのない女学生で、娼婦だった少女。何か、古い小説の1ページの中の出来事の様な気がした。
「人生を買い取るって?彩夏を自分の愛人にしたいってこと?」
彼女は古風なドレスを纏った白磁の人形がそうするかの様に、少しだけ小首を傾げた。
「うーん、わたしも最初はそうかなと思ったのだけど。わたしの魅力はこんなおじ様にも通ずるのかと。でも、ネットの中の容姿はだいぶ脚色されていたから、如何しようって心配になっちゃった」
彼女はちょっと、恥ずかしそうに、くくっと笑った。笑うと可愛い小鳥の様だと、そんな考えがレンの頭の中をよぎった。
「でも、違った。その人が言うには、本気で、わたしの体を自分の研究に使いたいって、ことだったみたい」
それは、戦時中とはいえ、そんなことが許されるはずがない。
「そんな、人体実験じゃないか!」
彩夏には、レンが彼女の話に怒った様に驚くのが、ちょっと不思議な気がした。ここが仮想世界でないならば、目の前にいるわたしが娼婦だったなどという話は、刺激が強すぎたのかもしれない。軽蔑されてしまっただろうか。
でも、目の前の少年が真実を教えてくれているのならば、わたしも本当のことを話すべきだ。本当は嫌だったのだ、もう、自分の姿を偽るのも、叶えられることのない、でも、そうあってほしいという、希望という名の嘘を信じるのも。たとえ、それで嫌われてしまったとしても。
「そう。でも、わたしはそれで構わないって思ったの。もし、自分が死んじゃっても、良いかなって。だって、もうわたしには帰るところがなかった。ううん、それはもう、慣れたはずだったけれど。でも、わたしのことを愛してるって言ってくれる男の人たちも、お父さんもお母さんも姉さんも、誰も、わたしのところには帰ってきてくれない。だから、わたしも、もう、帰らなくていいのかな、って」
その時、胸に浮かんだ気持ちは、何となく覚えている。悲しみではなく、寂しさだった。家族をなくし、行きずりの男たちさえ、二度と戻ってこない。自分のせいなのかなと、いつも、そんなことを考えていた。
「だから、それで構わない、って答えたら、そのまま意識を失ったわ。仮想世界の話だから、そこで意識を失ったって言うのは変かもしれないけれど。そして、気が付いたらいつの間にか100年も経ってて、目の前にレンがいた」
レンはちょっと気恥ずかしくなって立ち上がると、レギオンの腰に外付けされた耐蝕塗装のアルミ製コンテナから、軍用のガソリンランタンと食料を取り出した。ガソリンランタンは着火が面倒だが、ストーブにもコンロにもなってこんな野宿の場合にはとても重宝だった。彼女に固形糧食の包みと水を手渡すと、自分も彼女の隣に腰を下ろした。水は500ccのペットボトルを何本か持ってきている。大きなボトルに纏めないのは、被弾して一度に失われるのを防ぐ為だった。
「お腹すいたでしょ?夕食にしようか。えっと、ランタンで缶詰を温めるだけなんだけど。」
また、彼女がくくっと笑った。
彼女は、今は笑ってくれている。
彼を見つめる彼女の視線はとても穏やかで、瞳の中でランタンの明かりが揺らめいている。
でも、自分に何が出来るだろうか?
この娘の持つ悲しみを、癒してあげることなど、出来るのだろうか? 叶うならば、否、今はそれが唯一の望みなのだが。
「100年振りの夕食が、缶詰なのね?」
あれこれ話してしまったけれども、どうやら嫌われている訳ではなさそうだった。
男の人は、皆、中身は少年だ。嘘つきな癖に嘘が下手で、優しくて、デリケートで。と、いうか、目の前にいるのは文字通り少年だった。多分、自分とそんなに歳は違わないみたい。いつも、背伸びしてきた自分の方が、ちょっとだけ大人かも。
彩夏は、レンがちょっと慌てていい訳するのを眺めている。
「ご、ごめん。本当はおいしいチキン・サンドが食べられるお店を知っているんだけど・・・」
固めに煮込まれた牛肉の入った缶詰をひとつ、取手を伸ばした携帯用の小なべに開けて、水を足してランタンの上に載せる。彼女を連れて行ったら、マスターはびっくりするだろうか?マスターのチキン・サンドなら、彼女を心から喜ばせることが出来るだろうか?
「ふふ、冗談だって。いいの、気にしないで。それより、ここは神聖連邦じゃないんでしょう?ここは何処なの?それに、わたしたち、追われているんでしょ?如何して追われているの?」
目覚めたばかりの彼女からすれば、分からないことだらけだろう。幸い、彼女の疑問に答える時間は十分過ぎる程ある。その時間を使って、目覚めた彼女が少しでも安心出来る様にしなければならない。ただ、何処まで、話しても良いだろう?
「追われているのは、僕じゃなくて、彩夏だよ。皆、100年も眠り続けた眠り姫に会いたいらしいよ。それと、ここはエリダヌス座イプシロン星系の第3惑星の衛星軌道上にある、コロニーの中」
彩夏は彼の言う星系が、彼女が生まれ育った惑星から、数光年離れていることを思い出した。時間も場所も、前に自分がいたところと随分と離れている。
「イプシロン星系って、随分遠いんだ・・・。わたし地上から、これからイプシロン星系に遠征に向かう艦隊の出航を見送ったことがあった。その日、仮想世界じゃなく、本当に夜空を見て。街中の人々が、皆、自分の旦那さんや恋人や、息子やお父さんの出発を見送っていた。街の鐘が鳴り響く中、夜空を横切って、何百っていう光点が駆け抜けていったわ」
かつて、地球から飛び立った人類は、太陽系外縁を越えて、星の海へと乗り出していった。人類の版図は急速に太陽系近傍の恒星系と、そのハビタブルゾーンで発見された居住可能惑星へと広がっていった。初期の移民船の多くは片道切符であったが、入植期が過ぎると徐々に各恒星系と地球との間の往還航路が確立されていった。
近傍の、とは言っても最短でも数光年を踏破する恒星間宇宙船が、搭載した反物質反応炉により対消滅反応を制御することで莫大なエネルギーを取り出し、容易に光速の壁の限界ぎりぎりまで加速可能となった現在でさえも、星の海を渡って隣の恒星系に到着するには惑星側の時間推移で数年から数十年掛かる。故に、各植民星系の地球からの独立戦争に始まり、星系同士の対立も和解の為の交渉も、そして星々の間の戦争さえも、全てが10年単位で行われてきた。
初期の入植が行われた、バーナード星系とプロクシマ星系を中心に最初の星間国家である銀河帝国が打ち立てられて、地球を挟んで反対側のシリウス星系、プロキオン星系を中心とする星間共和国と激しく対立した。一方で、かつて彩夏が住んでいたのは、くじら座タウ星系を版図とした神聖連邦で、神聖連邦の崩壊から100年を経た現在でも星系内に多くの小国が乱立して覇権を争っている。そして、タウ星系からエリダヌス座以遠方面への玄関口として知られた、エリダヌス座イプシロン星系の第3惑星の衛星軌道上、このポート・ビギニングまでは、星船でもやはり片道数年は掛かるはずだ。
彩夏が見た艦隊の出撃は、まさしく100年前の、このイプシロン星系への大遠征だったのだろう。出立した神聖連邦の遠征艦隊の一部は星系を離脱する前に、神聖連邦から離反した属領連合の呼びかけに応じて、宗主国と艦隊旗艦に対し反旗を翻した。クローン兵を中心とする忠誠心厚い主力部隊と、属領出身者で構成された混成部隊が近距離で砲火を交え、双方が壊滅状態となって遠征艦隊は消滅してしまったのだと言う。
「じゃあ、彩夏は地上に住んでいたんだね。本物の大地の上に造られた街から本物の空を見上げて、星々の間に旅立つ星船を見送ったんだ。すごいな。夜の空って、蒼いんでしょ?もちろん、昼の空は青で」
レンたちが隠れている緩衝区画の一層上、コロニーの居住区の頭上は、太陽灯と呼ばれる一面の発光パネルに覆われている。発光パネルの照度は季節と時間でコントロールされているが、夜の発光パネルは暗いだけで、その向こう側に星々を見ることは出来ない。なぜなら、居住区の更に一層上は、商業地区のリングが積み重なっているだけで、宇宙に面しているのは寧ろレンたちのいる更に足の下の方向だったから。もちろん、今、足元を見てもコロニーの外壁を透かして外の星々を見ることは出来なかった。
「うん、確かに空は青だけど、でも、青って言っても色んなアオがあるんだよ。春の柔らかなそら、夏のぎらついたそら、秋のまるでそらの底が抜けてしまった様なそら、冬の寒気が吹きすさぶそら。空のアオは、幾つもあるわ」
彩夏の説明はまるで、子供の頃読んだ物語の様だった。確か、夏の妖精と冬の妖精が争うのだ。森も大地も、その色を変える。妖精たちの飛び交う空は、妖精たちの青い血で染まり、その滴が地をも蒼く染め上げる。たとえ、妖精の話はお伽話だったにしても、もしコロニーのいつも変わり映えばえのしない空が、明日は今日と同じゃないと分かっていたら、自分だったら気になって仕方ないかもしれない。毎日、空を眺めて過ごす事になったりしたら、仕事が手につかなそうだ。
「そうかぁ・・・。このコロニーにも、四季はあるんだけど、本物じゃないんだ。本物の空が見てみたいなぁ」
如何やらここは、地上の四季とは違う季節の流れる場所らしい。人は隣の星に行くのにも必ず、ここの様なコロニーを通る必要がある。自分の知る衛星軌道上のコロニーは、他の星々に向かう人たちの乗り換え駅だった。彩夏は他の星に行ったことなどなかったけれど、幼い日に一度だけ、弾道飛行で無重力を経験したことがある。シャトルでの往復は、大きな貨客船の入港のない予約の少ない日を使った小学生向け、定番の修学旅行コースだった。その時見たコロニーはホテルや商店もあるけれど、ずっと住んでいるという人は、ごくごく少なかったはずなのだが。レンの様にこのコロニーに住む人の為に、今では僅かながらも四季があるのだという。
「空の青も、たくさんたくさん、あるけれど、海の青にも、たくさんたくさん、あるんだよ」
自分の知らない本物の空に憧れるレンを見て、彩夏は真面目そうに人差し指を立てて教えてあげた。
「でも、わたしは山の村育ちだから本当はわたしも、海は見たことないんだけれど」
彩夏は自慢げに話をしてから、えへっ、と可愛い舌を出して告白した。多分、これくらいの嘘というか自慢は、罪にはならないだろう。時として意味もなく、自慢をしてみたい時もあるものなのだ。何にせよ、100年ぶりの自慢だ、多少は大目に見て貰って良いと思う。
「海は、このコロニーが廻る下の惑星にもあるんだって。もちろん、空を知らない僕は、海も知らないんだけどね」
ランタンの上で、小なべがコトコトと煮えている。レンは金属性のマグカップを2つ取り出すと、小なべの中身を手早く注ぎ分けた。お腹を刺激する、コクのある香りがしている。良かった、もし、話が続かなかったら、その時は黙って食事を済ませようかと思っていた。きっと、随分と味気ない食事になっていただろう。
「そう、じゃあ、レンは下の星に降りたことがないの?」
隣に座る彼女にマグカップを渡す時、僅かに彼女と指が触れあった。か細い指先を見つめながら、薄闇の妖精の様に思えた彼女と、永き眠りから覚めて現実を取り戻しつつある彼女と、どちらが本当なのだろう、そんなことを考えた。多分、どちらも本当なのだろう。
「そうだね、僕は生まれてこの方、一度もこのコロニーから出たことがないんだ。でも、コロニー育ちは皆、そうだよ。外から来る船乗りたちだけが、また、このコロニーの外に旅立って往くんだ。僕らにとっては、このコロニーが故郷ってことだよ。それに、下の星にもたくさん、動物がいるらしいんだけれど、それを食べても僕らは生きていけないんだって。その動物が食べている植物も、やっぱり食べられないらしいよ」
何次かに亘って行われた降下調査の結果、地域によっては温暖な気候と十分な水資源の確保が可能な、それだけとれば理想的な植民惑星だそうだ。
ただ、どんなに気候や環境が人類の居住に適していても、水を除く食料の全てをコロニーから持ち込まなければならないことが判明して、コスト面から恒久的な開拓は放棄されてしまったらしい。他の植民惑星と違って、既に多くの惑星固有の動植物に覆われていたことで、彼ら固有種が生存出来なくなってしまう様な惑星改造は当時の議会によって否決されてしまったのだそうだ。
人類とは共存の出来ない、理想郷。
それが、眼下の蒼い星の全てだった。
まだ見ぬ星に思いを馳せていると・・・。
くぅ、とお腹がなった。
マグカップを受け取ったものの、まだ口を付けずにレンの話を聞いていた彩夏が慌てて、カップを持たない方の手を振った。
「えっ、今のはわたしじゃないよ?」
そんなに否定しなくて、今のは自分だってわかってる。
たとえどんなに可愛い女の子と話すのが楽しくとも、やっぱりお腹は減る。そして、お腹が空いても、直ぐに何処かの店に行けるとは限らない。だから、食べ物位は持ち歩かなければいけない。最近、厄介ごとを好んで引き受ける様になったレンが学んだことだった。実際、マフィアの隠れ家に向かおうと、レギオンに乗り込んでからは何も口に出来ていない。少し緊張が途切れた今、お腹が空いたのを思い出した感じだ。
「ごめん、今のは僕。さぁ、冷めないうちに食べようよ」
レンも自分の分のマグカップを取ると、牛肉の缶詰の中身を煮ただけのスープを一口含んだ。料理と呼べる様なものではないかもしれない。それでも、暖かい食事は冬の必需品だ。多分、今、自分が彩夏に渡せる一番幸せなこと、なのかもしれない。
「ありがと、頂きます」
彼女もマグカップを両手で膝の上に抱えると、鼻をカップに突っ込む様にして、一口こくり、と飲む。見ていると何か小動物っぽい。・・・兎、かな?本物を見たことなど、ないのだけれど。彼女に伝えるべきことでもない気がするので、取りあえず黙っておく。
「うわぁ、温ったかくって、おいしい」
彩夏はスープの温かさがもたらすほっとした表情と、おいしさから来るうれしい気持ちが詰まった、笑顔を見せた。
「ねぇ、彩夏が好きな食べ物って、何か教えてよ」
育ててくれた祖父が亡くなってからは、レンは誰かと一緒に食事をするなんてことは、ほとんどなかった気がする。誰かが傍にいる唯一の機会はレンが調理見習をしている珈琲店の賄い飯を食べる時だが、昼時に店の者が揃って奥に引っ込む訳にはいかず、折角マスターが作ってくれたチキン・サンドも、マスターと面と向かって食べたことはなかった。だから、食事中の会話なんてない。もちろん厨房の隅で食べ終わってから都度、レンもごちそう様ぐらいは言うのだけれども、並んで食べたことはなかったのだ。
「えっ?わたしは・・・、その、一人で暮らしていた時は、パンとスープ、ポトフとかが多かったかな。一鍋で出来ちゃうでしょ?部屋にコンロが一つしかなかったから、そういうのが助かるのよね」
彼女はちょっと恥ずかしそうに答えた。正直、料理はあまり得意な方ではない。料理がというより、生きていくこと自体が我ながら不器用で、不得意だったのかもしれない。実は今のは、ちょっと痛い話題かも。どちらかと言うと、食べる物がない時は食べない、だったかも。
「そうかぁ、僕は珈琲店で働いてるんだけど、そこのマスターが作るチキン・サンドがとってもうまいんだよ。何ていうか、香ばしくてジューシーで、最高なんだ」
続いて、レンが固形糧食の包みを破くと、彼女も見よう見まねで包を開けてみた。100年の時の流れも、人の食生活を大きく変える様なことはなかったのかもしれない。大昔、一日に二食から三食に変わった人類だが、四食五食と増えている訳でもなさそうだし、レンの話を聞く限りでは、錠剤だけで食事が終わる訳でもないらしい。取りあえず、こういう包みは見たことがある。割高そうな割には余りおいしそうには見えないので、自分で買ってみたことも、食べてみたこともなかったけれども。取りあえず、一口づつ頬張ってみる。
「へぇ、それは食べてみたいかも。鶏肉って、自分で使うのはシチューを作る時ぐらいかな」
もそもそとした固形糧食の方は、お世辞にもおいしいはずはない。携行食として手軽に食べられて保存が利くのが利点だ。レンとしては、もそもそと食べている彩夏が可愛いので、味の方は気にしていない。手の掛かっていない食事は、おいしくなくても仕方がない。ただ我ながら、そんな考えはご都合主義な気もしないでもない。爺さんが言っていた、自分の努力の如何に関わらず男はだいたいに於いて、隣で女が笑っていてくれれば満足だと。もっとも、『だから、男はダメなんだ』とも言っていた気がする。まだ幼かったレンは爺さんの話は退屈で、結局どんな結論だったのか、そのあたりは、今となっては真意を聞くすべはない。
「そっか。僕も一人暮らしだから、料理は家でもお店でも勉強中」
今の話だと、料理のスキルはこちらの方が一日の長があるやもしれない。別に自慢するつもりはないけれど、可愛い女の子から尊敬されたいというのは、仕方のないことかもしれない。だったのだが。
「ふーん。じゃあ、レンがわたしにそのチキン・サンドを作って食べさせてよ」
な、何を唐突に。
「やっ、まだ、勉強中の身なんだ」
可愛い女の子に何かをせがまれるのは、男の甲斐性かもしれないが、それも時と場合によりけり、だとは思う。彩夏は如何やらこちらの料理の話題での、ちょっと自慢げな感じを一瞬で見抜いたらしい。その辺りはレンより遥かに人生経験を積んでいるのだろう。末恐ろしい娘だ・・・。
「レンのうそつき」
直ぐ横にうずくまる彩夏が、抱えこんだ膝の上に載せた可愛い顔で睨んでくる。
「そ、それよりさ、夕食を食べたら、少し眠ろう。明日は人のたくさんいるところまで行って、僕に彩夏を探す様に頼んだ人に連絡をとろう」
何やら望ましくない方向に話が飛びそうになって、レンは慌てて話題を変えた。
「レンの意気地なし」
否、そんなことはない様なある様な、ないかもしれないかも・・・。
「ええっと、まずはレギオンの予備の水素燃料タンクを取って、それから明日は彩夏のことを助け出してくれって頼んだ、共和国軍の艦長さんに会わなきゃいけないよね。おっかないけど、美人の女艦長さんなんだ」
何か、言い訳になってない気がするが、彩夏のジト目に睨まれて今一つ思考が纏まらない。
「ふーん。レンはその人のことが好きなの?」
彩夏は、自分でもちょっと不思議だった。
男の人の語る自慢話も癖や好みも彼女からすれば大概、たとえネット越しでも瞬時に話を合わせることができる。要は慣れだ。それなのに、今日は自分のことを怪我をしてまで助けてくれた少年に絡んでしまう。ちょっと拗ねた可愛い女の子を演じる自分は、半ば本気で拗ねてもいる。そもそも、普段というか、100年前の自分のメニューにはない、拗ねるなんて選択は、如何して出てきたのだろう?
「えっ!?如何してそうなるの?嫌いじゃないけど、好きっていうのとは違うよ。でも、その人はマフィアからきっと、彩夏のことを守ってくれる」
これまで、自分を抱いてくれた男の人は皆、年上だった。この少年は、ほぼ同じ年くらいだろう。だから、ちょっと、からかいたい?
「そう・・・。その人にわたしを渡したら、レンはいなくなっちゃうのね・・・」
違う、そんなんじゃない。からかいたいんじゃなくって、ただわたしは、もう、失いたくないんだ・・・。
「うん・・・。多分、その人は彩夏を連れて共和国の、何処か遠い星に連れて行くつもりなんじゃないかな。だから、いなくなっちゃうのは、彩夏の方かも。でも、彩夏のことは、その人に届けるまで、僕が守るから・・・」
100年経っても、わたしは人恋しい。
「ありがとう。さっ、スープが冷めちゃう前に、食べちゃいましょ?塊の方はもそもそだけど、レンのスープはおいしいわ。なんてったって、100年振りの夕食ですもの」
彩夏は隣に座るレンに、僅かに肩を寄せた。