星歴2012年12月4日、午後9時。
6.
星歴2012年12月4日、午後9時。
わたしは通っている専門学校から程近くの小ぢんまりとしたアパートに、小さな部屋を借りて住んでいる。一人暮らしの部屋はごく質素で、あまり女の子の部屋らしい、パステルカラーや柔らかな色調の華やいだ色彩感はないが、かといって雑多に散らかっている訳でもない。一言で言って、やたら物が少なかった。
薄くて軽いけれどもこげ茶色の高保温繊維で織られた毛布を載せた幅の狭いシングルベッドは部屋に作り付けの稼働型で、ベッドの硬いマットごと壁に固定されたレールに沿って部屋の天井まで引き上げることができる。ベッドが降りていると、部屋の唯一の窓際に作り付けられた木の机からイスを引き出すことも出来ないのだが、ベッドの昇降にはやたら大きなモーター音を立てることになるので、一週間の大半はベッドを降ろしっぱなしだった。掃除の時以外は万年床になってしまっていて、ちょっと人には言えない環境だ。普段の勉強は降ろしたベッドの上で寝そべってやるか、同じくベッドで胡坐を組んでイスの背越しに机に向かう。どちらにせよ、あまり人に見せられる姿ではないかもしれない。
カーテンは外側の白いレースのカフェカーテンと、内側のクリーム色のカーテンと二重で、自分ではカフェカーテンのレースの縁どりだけが、部屋の主の女の子らしさを醸し出している様な気もしている。そう、あと一つ、ベッドの枕元の茶色い熊の縫いぐるみがあった。この子はエリスと言う名前で、この子のことを忘れては可哀想だ。眠れない時は、ギュっと抱きしめて眠る。なのだが、たまにベッドを引き上げる時、忘れられたこの子が不憫にも天井とベッドの間で潰れてしまう時がある。もちろん、柔らかいので物理的には何の問題もないのだが、後で気づいて内心は申し訳ないと思ったりもする。
入口のドアを入ってすぐに、流しとこれもとても小さなコンロひとつしかないキッチン、その反対側にユニットバスがある。収納スペースはドアの横の扉のない洋服掛けと(コンロに近いので、匂いが付きそうな時は、数少ない服をベッドの上に避難させる必要がある)、僅かに窓際の机の袖の引出、それと窓の上方にはわたしの背丈では上の棚までは届かなくて不便な開き扉のついた棚があったが、あまり奥行もなく畳んだ着替えだけでいっぱいになってしまう大きさしかなかった。
そんな部屋でも、今のわたしにとっては学校を除けばほとんど生活の全てと言っても良い。一日の終業を告げる学校のチャイムが鳴った頃にはだいたい、もう眠気を我慢するのが辛くなっていて、今日もこうしてアパートまで急ぎ足で戻り制服をハンガーに掛けると、降ろしっぱなしのベッドに倒れ込んだ。
穏やかなアラームの音色は嫌いではないけれど、アラームに起こされるのが真夜中というのは、たとえそれがほぼ毎日であっても慣れないものだ。妙に、本当に自分は今、起きなければならないの? という疑問が浮かんでくる。この目覚めが本当に現実なのか、とも。きっと、窓のカーテンの向こうに広がるのが清々しい朝日ではなく、夜の暗闇だからなのかもしれない。ちっとも外の物音を遮断してくれない厚みのない窓ガラスも、日差しから部屋を閉ざしてはくれない薄いカーテンも、ベッドに文字通り突っ伏すときは、まったく気にならないのだが。
寝たままで伸びをすると、両手が机に仕舞われたイスの背にぶつかるので、無理やり上半身だけ起こして伸びをする。部屋の入口まで戻って、明かりをつける。狭いので、ベッドから降ろした足を、2、3歩進めるだけでスイッチに手が届いてしまう。便利といえば、便利だった。
真夜中ともなると、部屋の中は寒々とした感じだ。寝汗で湿った下着を脱ぎ棄てて、冷えた体に熱いシャワーを浴びる。キッチンの小さな冷蔵庫には昨日作ったポトフの残りがあったはずだ。別に、このアパートでの生活に現実感がないとは思っていない。素肌を伝うシャワーの熱い雫、足の下の床の冷たい感触。そして、アパートと学校の往復だけの生活。何の高揚も感慨もなくとも、別にそれで構わなかった。ただ、ここではない何処かに、自分には他に行かなければいけない場所がある、それだけのことだった。
肩まで伸びた一応は艶やかな黒髪と濡れて火照った体をタオルで拭いて、今はイス代わりでもあるベッドに座り込む。コンロの上の冷蔵庫から取り出したポトフが温まるまで、暫し時間がある。わたしの嫌いな時間だ。ただ、そんなことを気にしてぼおっとしていると、暖房器具のないこの部屋では、鍋とユニットバスの湯気が唯一の温かみのあるもので、体が冷えたらさっさと服を着ないと風邪を引く。
こうして、自分はあと何回、この部屋で一人の夕食を食べるだろう?
今は何も辛くはないけれど、何れ、耐えられなくなるのだろうか?
その頃には、自分はもう学校を卒業して、何処かに就職しているのだろうか?
現実のもたらす焦燥感か、それともこれから向かう世界への高揚感か。
今の自分を規定しているものが何かは、分からないのだけれど。
次に目覚めた時には、本当のわたしの部屋より、数倍広くて豪華な部屋。
そこにいるのは、本当の自分より、数段美人のわたし。
すらりと伸びた肢体、亜麻色の長い髪、大人の体・・・。
目を覚ますと、部屋には開け放たれた背の高い窓から静かに陽光が射しこんでいる。白いレースのカーテンを揺らして僅かに室内に吹き込む風は、何処か若草の匂いがする。現実の季節や時間よりこの世界の1日は短く設定されていて、現実世界で毎日同じ時間に入り込むと、結果としてこちらではまちまちの時間に目覚めることになる。ただ、彼女が使っている部屋自体はいつも一緒で、まるで高原に建てられたホテルの豪華なスイートルームの様で、それが彼女は密かに気に入ってもいた。
身にまとった、なめらかな肌触りのスリップ姿でベッドから床に足を降ろすと、素足がカーペットの長い毛足に静かに沈みこんだ。立ち上がると、先ほどまでの視点と高さが違うのだが、部屋も大きくなったせいか余り違和感を感じない。ふわりと亜麻色の髪が肩から腰に広がった。
別にここでの行動を制限されている訳ではないのだが、部屋にいてさえ感じることが出来る解放感と、この部屋が気に入っていることもあって、実は彼女はこの部屋の外には一歩も出たことがなかった。それにこの部屋が、彼女の仕事部屋だったから。
部屋の中央に置かれた緞子張りのソファーセットを避けてアンティークな木の机の前まで歩いていくと、厚みのある広いマホガニーの机の真ん中には、金属製の小鳥の形をしたペーパーウエイトの下にメモが一枚残されていた。
「連絡を乞う。アンソニー」
口に出して読み上げると、自分でもか細く思う、でも艶やかな声。
彼女宛てのメッセージは滑らかな万年筆の筆跡で、続いて10桁以上の数字とアルファベットの文字列。
偽りの自分の、仮初の思い人のアドレス。
この人が、今日のわたしの恋人。
わたしが好きになる男たちは皆、生き急いでいる、死に急いでいる・・・。
わたしの腕の中では泣きじゃくるくせに、二度と帰ってきやしない・・・。
彼女はしなやかな人差し指と親指でメモを挟んだまま、中指と薬指で耳に掛かった亜麻色の髪を掻き上げた。
もう一度、手に取ったメモに向かって問いかける。
「男って、みんな身勝手よね。あなたも、そうなのでしょう・・・?」
如何やら、夢を見ていたらしい。
ただ、目を覚ますと、そこはいつものホテルの一室でも、ましてや自分の小さなアパートの部屋でもなかった。これまで、屋外で目を覚ましたことはなかったはずだ。そして、自分を見つめる少年が見えた。破れたTシャツ、どうやら怪我をしているらしい。
この人は誰だろう? でも、怪我をした少年ならば、きっと前線から戻ってきた少年兵なのだろう。新兵の少ない給料では、わたしを買うのは、ちょっとばかり大変かもしれない。
この人が、わたしの今日の恋人なのかしら?
覗き込む少年の、傷だらけの頬に手を伸ばす。
「大丈夫?」
びっくりとした少年が目を見張った。
「ああ、僕は大丈夫だよ。それより、きみは、大丈夫なの? 体は、何ともない?」
負傷した少年に心配されてしまった。確かに、いつものホテルの一室より、だいぶ肌寒い。
「ねぇ、ここは寒いわ」
そのまま少年の首に両手を回す。起こした体からこぼれ落ちる亜麻色の髪はちょっと湿っているみたいだった。
「何処か、温かいところに連れて行ってほしいのだけど。それとも、あなたが温めてくれても良いのだけれど・・・」
そういう、ワイルドな設定が好みなのかしら?
でも、そうではなかったらしく少年は慌てて飛び下がると、走って逃げてしまった。
如何も、頭がぼうっとして、何が何やら分からない。余りに眠くて、学校の授業中に寝てしまったのだろうか?
これは学校の机に突っ伏して見る、夢の中なのかしら?
「これ、ちょっと汚いけど、ツナギと毛布」
また戻ってきてくれた少年がちょっと恥ずかしそうに、薄汚れた布で出来た上下と、軽く薄いけれど暖かな毛布を渡してくれた。毛布は、わたしの部屋にあった毛布と似た様な焦げ茶に染めたものだった。
お礼を言って服を着る間、彼は背中を向けて待っていてくれた。
着替えながら盗み見ると、彼は背中にも怪我をしているらしい。
短いくすんだ黒髪は乾いた血糊と砂埃で張り付き、痛々しい。
多分、本当のわたしの歳と、あまり変わらないぐらいなのだろう。その歳の男の子の平均からするとちょっと小柄な方かもしれない。それはそうか、自分の身長が伸びているから・・・?
そこまで考えて、小石の散らばる足元を見下ろした。いや、わたしも十分に小柄だ。
普通に、胸も小さいし。
・・・って、これは、本当のわたしっ!?
「キャー、キャー、キャー!?」
少女の悲鳴が、コロニーの荒れた大地に響きわたった。