星歴2012年12月4日、午前12時。
4.
星歴2012年12月4日、午前12時。
「ああっ!相変わらず、まずいコーヒーだわ・・・」
部屋の壁に作り付けられたスイッチの少ない、良く言えば非常にシンプルな、やたら素っ気ない造りの保温機から取り出したパックのコーヒーを啜りながら、彼女は少し顔をしかめて首を振ると、美しい金髪の後れ毛がさらさらと揺れていた。椅子に座るレンの前にもひとつ、そのまずいコーヒーが置かれているが、まだ口は付けていない。
もっとも、従軍経験があるらしい祖父が言うには、軍のコーヒーが不味いのも、概して軍人が食べ物に関してセンスに欠けているのも、いつの時代も致し方ないことであるらしい。それは確かに、保存性や栄養価が優先の糧食ばかり食べていれば、グルメが育つはずがない。
「ごめんなさいね、あなたのところのコーヒーとは比べ物にならないでしょう?でも長い航海の間、私たち船乗りが飲めるのはこれだけなのよ」
コートのポケットに、人ひとり一撃で昏睡させる無針注射器を隠し持った強引な艦長殿は目を覚ました僕に、同行して貰うのにあんな非常手段を使わなくてはならず、本当に申し訳なかったと詫びてくれた。それも含め先ほどから、彼女は謝ってばかりだった。
僕でも気になるくらい、全然すまなそうではなかったけれども。
「残念なことに、私の部下が表だって軍事行動を取るには、とてもまずい状況なのよ」
人ひとり昏睡させて連れ去ることは、表だった軍事行動とは言わないのだろうか?
それに、そもそも人に何かを依頼するなら、もっとまともなやり方があるのでは?
美人なら何をしても良いという、そういう横暴な考えの持ち主なのだろうか?
まぁ、最後の一つは已む無いかもしれない。
「このコロニーで私たち共和国軍が動くのも問題なのだけど、軍が介入したことがマフィアに知られると、彼らはターゲットを移動させてしまう可能性が高いの。でも、あなたみたいな、お子様が相手なら、マフィアも逃げようとは思わないじゃない?」
何か、あまり褒められている気がしない。
「あなた、半年程前にコロニーの外周外壁に制御不能になった通信衛星が突っ込んだ事故の時、レギオンD4型の装甲歩兵で突っ込んで、暴走し掛けていた衛星の融合炉を緊急停止させた子でしょ?」
こちらがムッと黙りこんでいたせいか、話が飛んだ。
そんなこともあった、確かに。でもあの時のことは、誰にも話したことはないのだが。
衛星がコロニーの外壁を突き破って落下したあたりは、何年か前に港湾区画から改修された農地だった。コロニーの外周部には、そういった地域が無数にある。捕獲した小惑星を砕いた土石が敷かれ何年も地質改良が続いていて、散水用のチューブの下で最近では、場所によっては少しづつ雑草に覆われつつあった。広大な土地は、広大な立ち入り禁止区域だったが、レギオンの走行試験には最適の試験場だったのだ。
地質改良の為、サンサンと降り注ぐ人工の陽光の元、誰に気兼ねすることなく、レギオンを最高速度で疾走させられる。もちろん、監視カメラをコントロールする管理コンピュータはハッキングしてあって、レギオンが走行する辺りから自動的に監視の目を逸らしてくれる。
あの日、3日掛かりでレギオンの腰のスタビライザーを、既存の不安定な水素エンジン加熱型の噴射スラスタから、純機械式の質量移動型に変更して、そのテストの最中だった。
レギオンの走行速度と横方向の揺れの幅はある程度比例するのだが、走行速度と水素エンジンが発する発熱は必ずしも正比例している訳ではないことを、レンは何度かのテスト走行を通じて体感的に理解していた。レンの背中に吹き付ける水素エンジンの熱風は、低速時より寧ろ戦闘巡航速度の時の方が温度が大きく下がるのだ。繰り出す歩幅に合わせて、左右の質量移動量をコントロールできれば、レギオンの全力走行時の安定性をより高められるというのが、レンの出した結論だった。
戦後、分散した防衛拠点を巡る為に大量に進水した輸送船の多くが、ユニット構造である点を買われて次々とばらされて、コロニーの居住区の増築に転用された。装甲歩兵も重量級のものの多くが、そうしたコロニーの建築用途に転用されたのだが、軽量級の装甲歩兵は出番がなく、払い下げ先もないままその多くが廃棄されていった。
この装甲歩兵は、主に祖父のガレージの奥で眠っていた、ほとんど無傷だったレギオンD4型2機の稼働部品を組み合わせたもので、駆動系もセンサーも古過ぎる以外何の問題もなく稼働する。特に駆動系の部品は10年以上を経て動かしたことで急激に劣化が進み、何度となく部品を交換することとなったが、今は念入りなチューニングで本来以上になめらかな動きになっているはずだ。
レンは祖父のガレージでレギオンを見つけた時最初は、従軍経験があるとは言っていたが何処で戦っていたのかも聞いたことのない祖父の、自分の知らない一面を見つけた気がして、何となくレギオンに目を留めることさえ躊躇われた。今でも本当のところ、祖父が単なる修理の部品取りの対象としてレギオンをストックしていたのか、それとも祖父自身がレギオンに乗っていたのか、それさえも分からない。それがある時、ドブ板通りのジャンク屋で、無造作に店先の箱に放り込まれていた何本かの丸い筒の様な部品を見かけた。レギオンと同じ灰白色に塗装された、装甲歩兵用の水素タンクだった。
レギオンの水素エンジンを稼働するのは水素燃料で、両肩背側に水素吸着用カーボンナノチューブが詰まった水素タンクを背負っている。徐々に加熱することで必要な水素を取り出して、タンク1本で約4時間程度の戦闘巡航が可能となる。非歩行のアイドリング状態でバッテリ充電と電装機器の稼働を行うだけなら、数倍以上の稼働時間を得られるはずだ。
それまで、ガレージのレギオンには何故か水素タンクが付属しておらず、たとえ起動しようとしても出来なかったはずだが、その時、その欠けていたものが目の前にあった。レギオンはこれまで、動かそうとしても動かせるはずのない単なるガラクタだったのに、今やレンが動かすことを待っている。そう思えた時、触れない様に避けていたはずの動かないレギオンを動かすということが、レンの望みになった。
以来、珈琲店での調理見習の仕事と、たまに頼まれる機械修理以外のほとんど全ての時間を、このレギオンのリストアに費やして来たと言って良かった。
あの日レンは人目に触れぬ様、苦労して祖父の家のガレージから地質改良中の立ち入り禁止区域までレギオンを移動した。3日掛かりの大掛かりな変更で、一度はレギオンの内部骨格以外のほとんどをばらす羽目になった変更の成果を、実地試験という形で試すチャンスだった。
仮にレギオンの走行安定性が高まったからと言って、別に誰に褒められる訳でも自慢する訳でもない。ただ、それは祖父を失ってめっきり人と話す機会さえ減ってしまったレンが、唯一夢中で努力した結果だった。自分でも手段と目的を取り違えている気がしたが、レギオンに手を掛け、レギオンで走り、レギオンで戦うことが、今やレンの唯一の望みだった。
軍の無線を傍受していたのは、万が一にも立ち入り禁止区域への侵入がバレた時に、相手が装甲歩兵ということで軍警察が出てきたら面倒だと思っていたからだった。ところが、轟音を上げて突入してきたのは、軍警察の装甲車ではなかったのだ。
爆音と共に大量の土砂を巻き上げて突入してきた衛星は、湾曲したコロニー外周の内側に作られた農地のひと隅から地表に飛び出して、そのまま、地表に長大な土石を削ったクレータを作り、クレータの端っこで立ち往生していた。衛星の突入角度が外周の接線を僅かにコロニー中心方向に曲げた位だったらしく、窪地の様に湾曲した地面が衛星の運動エネルギーの大半を削り取ったのだろう。コロニー外周の増設地区は、ことのほか外板が薄いことを証明してくれたのだから、いっその事そのままもう一度外周を破って飛び出してくれれば、大した問題にもならなかったのかもしれない。
「たまたま、近くにいただけですよ。幸い自動修復が働いてコロニー外壁のエア・シールドは保たれていて、減圧はほとんどなかったし。緊急無線を聞いていたら、リモートで融合炉の停止が出来ないって騒いでいたから」
今、二人が話す艦長室はコンパクトに纏められていたが、それでも彼女の趣味の良さが伝わってくる様な造りだった。アンティークな感じのソファーが本当に可燃性の木や布で出来ているのかは分からないが、柔らかそうなクッションの上で彼女が足を組み替えた。
思わず目のやり場に困るのが、悲しいサガというものだ。
「でも、普通はスクランブルの掛かった軍の通信は、簡単には傍受できないでしょう?」
うっ、やっぱり、まずったか・・・。
受信機自体はレギオンD4の標準装備だ。しかも、使っている乱数コードは、野戦型ならではの単純な仕様だった。きっと、外宇宙での通信に使われるコードはもっと複雑で体系自体違うのだろうが、要はコロニー内でしか使わない短距離通信前提の簡単なものだったという訳だ。
比較的新しいコード・ユニットをドブ板通りの闇市で手に入れた後、3日間寝ないで解析した結果、最新のコードでも類推出来る様になった。コロニー内の軍警察が用いるコード自体は一週間単位で書き替わるのだが、ガレージの中でやたら場所を埋めている古めかしい超並列コンピュータを何台か繋いで1日掛ければ、新しいコード表を類推出来てしまう。そして一旦コード表を更新すれば、一週間の残りの6日間は問題なく軍警察の通信を傍受できる。
「他にもいくつも武勇伝を聞いたわよ。このコロニーの治安の一部を肩代わりする私たちとしては、あなたをいろいろな罪で引っ張ってあげても良いのだけど。でも何より、融合炉が暴走しそうだという状況を盗み聞いても、ひるまずに駆け付けたあなたのその勇気と、誰に相談した訳でもなく自分だけで的確に、手動で緊急停止装置を起動したその腕を見込んで頼みがあるのよ。もちろん、報酬は約束するわ」
コーヒーのパックを咥えて、彼女はにこやかにほほ笑んだ。少し上目使いにレンを見据える瞳には、今も無邪気な輝きが踊っている。かなり、ずるい。ずる過ぎる。多分、実際のところ、この人には勝てそうにない・・・。
こちらの働いている店も、その店はコーヒーがうまくて、人気のメニューがチキン・サンドだということも、多分、最初から調べてあった訳だ。当然、こちらの生活圏や行動範囲も特定済みなのだろう。
適当に依頼を受けた振りをして、途中で逃げ出そう。彼女は船乗りなんだから、いつまでもコロニーの中で逃げ出したレンを探して時間をつぶすとも思えない。
「わかりました。それで、僕に何をさせたいんですか?」
出来るだけ、にこやかに対応する。たとえ不機嫌を自覚している時でも発動可能な、珈琲店で鍛えた営業用スマイルだった。もっとも、鏡でもなければ自分で自分の顔は見られる訳もないのだが、多少は口元がひきつっているかもしれない。この人と話していると、こちらの考えを見透かされていそうなのが怖い。
「あら、やけに素直なのね?」
彼女は潰れたコーヒーのパックを机に置くと、空いた右手で頬杖をついて少し目を細めて、微笑を浮かべた。机の上にさらさらと金髪が散った。
コートのポケットに、人ひとり一撃で昏睡させる無針注射器を隠し持った強引な艦長殿の依頼事項は、コロニー外周の拡張区に作られた農場に囚われているという、お姫様の救出だった。
十年前に終わった、100年戦争。
当初は、バーナード星系とプロクシマ星系を中心とする銀河帝国、シリウス星系とプロキオン星系を中心とする星間共和国という2大陣営の対立だった。どちらの陣営に与するかで、他の周辺各国の世論は割れ、遠く離れたくじら座タウ星系に於いても駆け引きの天秤は何度も揺れ動いていた。
そんな中、銀河帝国や星間共和国に比較すると、星系内に複数の太陽系地球での国家の枠組みを色濃く残していたタウ星系に於いては、単に銀河帝国か星間共和国に属するのではなく、銀河帝国の様に覇権を唱えんとする新たな民族主義が台頭して、瞬く間にタウ星系全ての国々へと飛び火した。銀河帝国と星間共和国との争いが政治的な主義主張の対立であったのに対し、結果としてタウ星系のそれは、民族的な血の対立を内包したものとなった。
ついにタウ星系の中央政府は神聖連邦を名乗り、周辺諸国にも隷属を強いて、エリダヌス座イプシロン星系外征を目論んだ。外征こそが自国を豊かにし、自国の団結を強めるという、都合の良い主張がまかり通っていた。実際には、タウ星系諸国は先鋭化した中央に対し従属を強いられつつも、中央政府同様な民族主義を持って反旗を翻しつつあった。タウ星系中央政府は盟主の地位を元々は武力を持って維持してきたのだが、戦力の実態は取り込んだ周辺諸国の兵力に過ぎず、周辺諸国の離反はそのまま中央政府の持つ求心力の急速な低下となって表れたのだった。
100年戦争とは、銀河帝国、星間共和国、その他の国々が相互に争う長期に亘る戦乱の時代だった訳だが、まさしくその最初の秩序の崩壊を招いたのが、神聖連邦だった。後に100年戦争と呼ばれる戦乱を目前に、神聖連邦は今や自らが伝播した民族主義によって急速に滅亡へと転がり始めていった。
国家存亡の危機に立たされていると自覚していた彼らは、残された国力を上げて2つの研究に取り組んだと、そう、伝えられている。
ひとつは、神聖連邦中央政府を形作る純粋な自国民と、中央政府直属の兵士を増やす為のクローン技術。
彼らの研究は功を奏し、やがて大量のクローン兵が戦場に送られた。ところが、これに脅威を感じた周辺諸国はついに中央政府への離反を決定的なものとし、連合を組んでかつての盟主を叩き潰すに至った。結果的には、彼ら神聖連邦の政策は自国を滅亡に導いた訳だった。
そしてもうひとつは、自国民の寿命を延ばすこと。
たとえ人口が少なくとも寿命が延びた結果、国力の根源である生産を担う世代が増えれば、つまり生産人口が増えれば良いし、結果的に人口総数自体も増える。国家が自国の国力を高める為の施策としては、国民の平均寿命を延ばす事は、けして間違ってはいないだろう。問題なのは彼ら自身が、寧ろ支配者層が増えすぎるより、少数の優れたる支配者が、その他の多くの国々を治める方が望ましいと考えたことだったのかもしれない。
ついに攻め込んだ連合軍がまず最初に探したのが、まさしくこの研究の成果だったのだが、いくつかの断片的な資料を残して、全ては遺棄された後だったと言われている。連合軍が得た僅かな資料の断片から推測された彼らの研究とは、仮定と推論を元に膨大なシュミレーションと、多くの人体実験を含む実証試験に基づくものだったらしい。
遠く、地球圏に於ける旧約聖書の時代。
不思議な事に、現在よりはるかに粗食で、且つ未だ重力の頚木に囚われた人類の寿命は今より数倍、長かったと言われている。
だが、時代を下るにつれ、僅かなうちに人類の寿命は急速に短くなっていく。
我々の遺伝子を含むこの体は自己組織化の結果として、現在の形が作られたと言われているのだが、実験を始めるにあたって彼らはいくつかの仮説を立てた。
旧約聖書の時代、人類の一部には長命種が存在した。
否、寧ろ長命種こそが、人類の祖とも言える。
長命種は現在の人類と姿形は同じでも、その体を形造るいわば『材料』が異なっていた。
人類に比べ、細胞レベルでの劣化が著しく少なく、結果老いることがない。
それなのに、普通の人類との交配が進み、やがて種として絶滅してしまった。
その長命種こそは現在の人類の持ちえない、そんな遺伝子を持っていた。
人類のDNAは、僅か4種類の塩基によって表される。その塩基が3つ連なって一つのコードを作り出す。この3連コードによって、人類の身体を構成する全てのアミノ酸が生成されていく。だが、実際には、異なる組み合わせのコードであっても、同一のアミノ酸を表す場合が多々ある。現在の人類の体組成は僅か20種類のアミノ酸しか、必要としていないからだった。人類のアミノ酸の種類、その数より多い情報は、いわば無用の長物だ。結果、アデニン3つからなるAAAであっても、グアニンが1つ混じったAAGであっても、同じアミノ酸、リシンを表している。・・・現在に於いては。
十進数で表す情報を、二進数で表すにはデータの桁数を増やす必要がある。逆に、いわば4進数で表現されるDNAに於いて桁数を3桁に固定するならば、3桁で表すコードが一対一に異なるアミノ酸に紐づくことが、最も効率的に情報量を増やすこととなるだろう。
そもそも、複数の近似した組み合わせが一つのアミノ酸を表すことで、種として如何なるメリットがあるのか? それはまさしく、遺伝子の劣化が生じても、その変異が細胞レベルでの変異に結びつき難くなること、と言える。万が一コピーの際にAAAがAAGに入れ替わってしまっても、生成されるアミノ酸が同じリシンである限りは、まったく変異は生じないからだ。逆にデメリットは、3桁という固定されたデータ量に対する情報量の低下であると考えられる。
オリジナルの遺伝子体系に比較して、ある程度の入れ替わり、つまり遺伝子の世代的なコピーの繰り返しによる劣化を予め想定した、壮大な世代交代の連鎖を想定した現在の人類。情報の質よりも、時間という無慈悲なプレッシャーに耐えうることを求めた種。
オリジナル、あるいはオリジナルにごく近しい遺伝子体系を持つ長命種と、アミノ酸の数を減らし、世代交代への耐性を獲得した現在の人類。異なる遺伝子体系の二種類の人類が交配した際、交配が進むにつれて、人類の遺伝子の持つ情報の総量は急速に減っていった。情報量は、少ない方に切り揃えられていった。複数の機能的に近似したアミノ酸は一つに置き換えられ、人類が扱うアミノ酸は急速にその種類を減らしていった。個としての遺伝子の多様性は失われ、機能性と遺伝子コピーの際の劣化抑止を優先させた結果、世代を超えて種として人類は数を増し、代わりに個体としての寿命を削っていった。それは、遺伝子という情報伝達手段を持って地球上の生命を創造した、神の意図であったことなのかもしれない。質を量で補って、『生めよ殖えよ地に満てよ』但し、個々が長く生きる必要はない。
遺伝子学上は単なる変形コード、複数の塩基配列が1種類のアミノ酸を表すとも、その逆に1種類の塩基配列が複数のアミノ酸を表すことがない秩序性さえあれば問題ないとされてきた事実。20種類という数が4進数を前提とするならば、2桁では表しきれず3桁が最小桁数となる。故に3桁が必要十分であり、アミノ酸の数がコードの桁数を規定したと結論つけてきた事実。
だが、彼ら神聖連邦の中央政府の意向を担う生命科学者たちは、同一のアミノ酸を表す異なる組み合わせのコードの存在こそ、失われた遺伝子の痕跡であると結論つけた。現在も残る、異なる組み合わせのコードこそが、人類が持たない機能的には近似した、しかしながら微妙に異なるアミノ酸に対応つけられていたはずだと。彼らは、現在人類が持つ20種類のアミノ酸を超え、塩基3対によって表現可能な、4の3乗で表される最大の数こそが、本来の遺伝子設計図の意図だとした。作り出されたタンパク質が崩壊プロセスを起こさず、あるいは、パターンの母数が大きい故に加齢による遺伝子の変異割合を相対的に低く抑えることが出来る特性を持つ。現在の人類の3倍に及ぶ多様なアミノ酸によって形造られる、本来あるべき姿の人類。設計図は、あるのだ、今でも人類の中に。後は対応する未知のアミノ酸を特定するだけ。
そして、その失われた遺伝子も、所詮は進化と言われる長きに亘る自己組織化の結果でしかないはず。
民族的な血の濃さを求めた彼ら神聖連邦中央政府にとって、自分たちのルーツ、あるいは始祖の神に至る道を遡るという壮大な妄想は、余りに魅力的過ぎた。アダムとイブに遡る様な行為は、もはや一民族のみの始祖を探す行為とは言えないはずだったのだが。自国民の優位性を求める探究心は、時代の外圧によって明確な形で発現していった。国家のインフラ、国民の生活を支えるべき多くの超並列コンピュータが、その本来の役目から切り離されて新たに研究の為の独立した国家規模の大規模ネットワークが構成された。僅かな痕跡を残し現在の人類の中に溶けて消えてしまった長命種の、失われたアミノ酸を特定すべく進化と絶滅を巻き戻す膨大なシュミレーションを繰り返して、ついに、仮定される長命種では現在では欠落した現人類に倍するアミノ酸と、人類とは異なったタンパク質合成を組み込んだ複数の個体を創り出したらしい。
デスクの上で、白熱灯が瞬いて消えた。
「それが、その、お姫様だと?」
最近巷では、原料のレアメタルの輸入が滞って発光パネルの生産量が著しく落ち込んだせいで、コロニー近隣の小惑星帯で豊富に得られる資源とコロニー内の比較的簡単な生産設備で大量生産が可能だが、やたらエネルギーの変換効率が低く寿命も短い白熱灯の再生産が始まっている。はたして軍属の船が、そんな割れやすいガラス電球を使っていても良いのか、それが疑問だったが。
「一度は失われた禁断の技術を、今も求める者がいるということね。何処かで、100年も前に遺棄された人工冬眠カプセルが見つかって、でも人間の身体を長期保存するにしては、その保存温度はそれ程低くはなかった。恒星間航行での長期保存が前提であれば、現在の最新の技術でも4℃以下での身体保存は必須だわ。でも、見つかった少女の体温は発見時で20℃を上回っていて心拍数も長期保存時に一般的な、通常時の数十分の1回に対して、せいぜい数分の1回程度。そこから推測される身体のエネルギー消費や老化速度は通常生活時の数分の1なのに、100年の時を経て少女にはまったく老化が見られなかった、という話なの。まして、そのカプセルの出所が神聖連邦何ていう、どうやら曰く付きだったものだから、権力者たちの不老不死の願望に結びついて、見つかったカプセルの争奪戦が始まったってわけよ」
彼女は僅かに口元に自嘲の笑みを浮かべると、頬杖をついたまま残った左手を伸ばして、まだ熱を持ったままの白熱灯のバルブを、熱さを気にもせずに外しだした。
「もちろん、たとえどんなに長くとも、寿命はあるはずよ。有機生命体であることには変わりないのですもの。・・・そのお姫様は、『亜麻色の髪の乙女』と呼ばれているわ」
彼女は外したバルブを自分の耳元でカラカラと振って机の隅に置き、頬杖を止めてデスクの椅子に深く座り直すと、レンからは、すっかり彼女の表情は見えなくなってしまった。