星歴2012年12月5日、午前9時。
12.
星歴2012年12月5日、午前9時。
レギオンの左手は、すっかり彩夏の定位置だった。盾の内側でレギオンの左手に腰掛け、両手をレギオンの胸に当てる様にしてしがみついてくれている。レギオン頭部から、足元を見下ろす下方視界用カメラは絶えず彩夏の頭の上から見下ろす姿を映していて、レンが下を向くと自動的にレギオンの正面方向から視界を切り替えることが出来る。視界の中で彩夏は、顎を肩に付ける様に首を巡らせ、レギオンにしがみ付きながらも必死に前方を見ようとしている様だった。気になるのは彩夏のおしりの下のクッションで、「縫いぐるみみたい」と撫ぜていた割には何の抵抗もなくおしりの下に引いている。本当にそれで良いのかと気にならないでもないが、まぁ、クッション本来の役目なのでそのままにさせている。
今朝、レンたちが出発したコロニーの外周区画と、ほぼ対角線上にコロネルの係留されている港湾ブロックがある。通常、輸送船の接舷は積み荷の移動が楽な中央シャフトの無重力エリアで行われるが、貨客船や客船は遠心力により居住区同等の擬似重力がある外周区画に造られた港湾ブロックから出航する。もっとも、ここ何年か恒星船の寄港頻度は激減し、多くの港湾ブロックが閉鎖され、そのうちのいくつかの区画が居住区同等の擬似重力を活用して、居住区や農地や転用されていた。
彩夏の拉致されていた新設の農業区画と、これから向かうコロネルの停泊する、現存する港湾ブロックがコロニーの中央シャフトを挟んで反対側にある以上、このドブ板通りの地下のメンテナンススペースを半周するのが最短距離と言える。レギオンを来た方向とは反対側のメンテナンスシャフトへと進めていく。ドブ板通りの一周は約3km、約0.7Gの擬似重力の中で、ほぼ人間の歩行速度程度の速度で進むレギオンは、15分程度で目的方向とは直交する方向のメンテナンスシャフトのゲートを通過し、次の15分で目的のシャフトの直下へと近づいてきた。今のところ、彩夏はクッションの使用と引き換えに、お尻が痛いとか言い出さないでくれている。ついでに、このまま何も起こらず、コロネルまで行き着けると良いのだが・・・。
ヘッドセットが映し出す前方視界の中で、前方に積み上がったジャンクの山がやけに不自然に感じられた。廃棄された機械やケーブルが小山を作り、この地下のメンテナンススペースをより混沌としたものにしてしまっていること自体は、良くあることなのだが。この古びた坑道の中で、機器の発する僅かなランプの明かりを受けて鈍く輝く目の前のガラクタの山は、周囲のくすんだ色合いに溶け切れていない何かがある。レギオンの歩みを止めて前方を凝視すると、レンの意識に連動して、視野の中央の小山がクローズアップする。
「アクティブ走査」
レンがレギオンにコマンドを囁くと、右肩のスコープの下にマウントされた赤外線投光器が一瞬だけフラッシュして、瞬時の赤外線域の走査が視界の中から周囲の電子機器とは異質な反射領域を分離する。レギオンの火器管制システムの判定では、特定したのは鏡面仕上げの対レーザ装甲の一部だ。
「どうしたの?レン?」
不安そうな彩夏を一旦地面に降ろして、後ろの機器の隙間に隠れさせる。たとえ赤外線の投射が相手に検知されていなくとも、こちらが敵に気が付いたことは、彩夏を下がらせたことで丸分かりだろう。そう、思った瞬間、敵の横のケーブルの山から、ゆらりと敵が現れた。
「ブレンダに気が付くなんて、随分と感が良いみたいだね?気付かずに近づいたら、その装甲歩兵の首にかぶり付く予定だったのだけど」
現れたのは、濃紺のドレスを纏った女だった。否、提灯袖のメイド服なのかもしれない。上着の下に白いフリルの付いたシャツを着て、襟元にはやはり濃紺の細いリボンをしている。
「それでは、『亜麻色の髪の乙女』を渡して貰おうかしら」
女は何処からかタバコを取り出すと、ライターで火をつけながら言った。僅かな炎に照らされて、肩まで掛かる黒髪に白いカチューシャが映える。もしメイドなのだとしたら、随分と無作法なメイドらしい。分かり切ってはいるが、今一つ分からない・・・。
「マフィアの追っ手か?」
メイドに首にかぶり付かれる状況が分からないが、敵には違いないのだろう。古風な身なりは、ひょっとして吸血鬼とかかもしれない。取り留めもなく考えながらも、取りあえず、問うてみる。
「まぁ、そんなところね」
白い縁にレースをかがられた手袋をはめた手を伸ばすと、女の腰ぐらいまで積まれた何か金属の塊を撫ぜた。何か、対レーザ装甲を持つ兵器。AI思考の独立砲塔の類だろうか?
「嫌だと言ったら?」
歳の頃は、シェトランド艦長と同年代くらいだろうか?年上の女性には怖い人が多いのかもしれない。爺さんは、「年上のカミさんは金の草鞋を履いてでも探せ」と言っていたはずなのだが。
「その時は、ブレンダがあなたの装甲歩兵を切り裂くわ」
レンは無言でレギオンの背中のジョイントから、漆黒のセラミックブレードを引き抜いた。正眼に構えたブレードは、真っ直ぐに前方のガラクタの山に向けられている。
「あら、ナイト気取りは早死にするわよ、坊や?」
ガラクタの山がうねる様に蠢いて、一頭の四足の動物に変わった。単純な兵器などではない。しなやかな銀色の金属の体、僅かに開かれた顎から、やはり銀色に輝く2本の犬歯が突き出している様は、太古のサーベルタイガーの様だ。ガチリ、ガチリと左右の銀色の爪を備えた前足を踏み出す毎に、ゆっくりと後方で銀の尻尾が揺れている。
「この子は機械猫のブレンダ。私の可愛いペット。装甲歩兵を狩るのが得意なの」
レギオン唯一の武器であるセラミックブレードで、機械猫の対レーザ装甲を打ち破れるだろうか?いくつものプレートに分かれ重なるあの輝く装甲は、ブレードの直撃をしなやかに受け流せるのではないだろうか?
考えても仕方ないことだ。
出来るだけ、機械猫の装甲に対し垂直にレギオンのセラミックブレードを叩きつけること。
出来れば、出来るだけ彩夏の隠れる背後から、遠い位置で戦うこと。
考えることは二つだけ。
それ以外は如何でも良い!
レギオンの搭載する2基の水素エンジンは、質量あたりのエネルギー密度が高い純水素を燃料とする、ターボプロップエンジンだ。
腰の脇に張り出した左右のエア・インテイクから取り入れた空気を、前段の遠心圧縮式コンプレッサータービンで圧縮し燃料の水素と混ぜて燃焼、発生した高温高圧のガスが膨張するエネルギーを、多段の排気タービンにより回転エネルギーとして取り出す。更に排気タービン後段は軸出力を得る駆動系とは独立していて、ターボチャージャーとして吸気側コンプレッサーの回転数を上げる。
排気タービンに与えられた高速回転運動は、可変減速機でもある遊星歯車機構を介して往復運動に変換され、左右の脚部各間接の複数の油圧シリンダーを駆動する。
脚部各間接は主に初動時にトルクを稼ぐ為の電動機と油圧のハイブリッドで駆動し、巡航走行時にはほぼ100%油圧駆動となるが、ターボチャージャーのスロットル操作に対するターボラグから、初動時は特に電動機によるアシスト比率が高く設定されていた。
レギオンは振りかざした漆黒のセラミックブレードを頭上に構え、機械の猫へと突進する。ヘッドセットに覆われた視界の中で、まるで機械の猫だけが浮かび上がるかの様に、周りのメンテナンススペースの壁も、猫の飼い主のメイド服の女も、もはや意識から消え去った。加速を開始した猫が、一瞬撓んだかの様に上半身を地面すれすれに屈め、跳ね上がる。レギオンも電動機のアシストが利いているが、それでもレギオンの加速も機動も、しなやかな動きを見せる機械の猫に比べればけして十分ではない。
スピードが、、、足りない!
そんな思いを跳ね除けるかの様に、正面から駆け上がる猫の跳躍の軌道の先に、レンとレギオンは袈裟切りにセラミックブレードを叩きつける!
だが、機械の猫は跳ね上がる為に伸びきった体を空中で更に撓ませ、まるでセラミックブレードの風圧で軋むかの様に、ブレードの剣先を掻い潜ってみせた。
空振りしたセラミックブレードが空しく空を切り、床に激突して盛大な火花を散らした。
空中で体を捻った猫は、レギオンの左前方にストンと着地する。そのまま再び跳ね上がり、今度はレギオンの死角である背後に。また跳ねあがって、右前に。
狭いメンテナンススペースの床と壁を蹴って、匠に跳ね回る。
右、左、後ろ。
右、左、後ろ。
右、左、後ろ。
猫の動きを追って、慌ててレンはレギオンの持つセラミックブレードの剣先を振り回すが、剣を振るうことの出来ない後方に届かず、無様にふら付くだけだった。
寧ろ動きの中心にいるはずのレギオンが、剣先を壁にぶつけかねない。
徐々に、銀色の機械猫がスピードを上げる。
右、左、後ろ。
右、左、後ろ。
右、左、後ろ。
レンは不意に背中がぞくり、と感じたその瞬間、左前方から跳ね上がった機械の猫の大きく開かれた咢が、回避する間もなくレギオンの頭部を深々と挟み込んだ。
「待て!」
メンテナンススペースに、紺色のメイドの命令を告げる声が響き渡った。残響が消えた後も、機械の猫はレギオンの頭部に僅かに牙を食い込ませたまま、レギオンの頭部を咥え込み、両の前爪をレギオンの肩に食い込ませたまま、凍りついた様に停止していた。
レンは動けない、声も出せない。
レギオンもその機械の足からまるで根が張ってしまったかの様に、一ミリたりとも動くことが出来なかった。
「・・・動くな。さあ、亜麻色の髪のお嬢ちゃんは、こちらに来て貰おうか」
壁から離れてメンテナンススペースの中央まで歩み出ると、メイドは煙草を燻らせながら言った。
レギオンの光学センサーは機械猫の咢の内側で、唯一足元を映す下方カメラのみが視界を確保出来る様だった。そして、レギオンの足元から、見上げる彩夏の姿を捉えていた。
「ごめんなさい、レン・・・。わたしみたいな売女じゃなくて、本当の恋を見つけてね・・・」
レギオンの横を通り過ぎる時、彩夏の声が聞こえた様な気がした。
レンは動くことも、彩夏に声を掛けることも出来なかった。
レンが全てを託したレギオンが破れ、機械猫の咢の内に間近に迫った死を垣間見た今、体が硬直して身動き一つ出来なかった。
レギオンが機械猫の咢から解放された時、彩夏もメイドもその姿はなくなっていた。機械猫が前方の闇に走り去って後、糸が切れた様にレギオンは膝をついた。
このコロニーには、数万の人が暮らしている。
多くの人は、戦乱を逃れてこのコロニーに流れ込んで来た人々だった。
自分はその中の一人にしか過ぎない。
たまたま、祖父のガレージで見つけたこのレギオンがあったから、だから、自分は美人の艦長の無茶な依頼にも、臆することもなく答えることが出来た。
レギオンがなかったら、きっと真面目に珈琲店で働いて、マフィア相手に彩夏を救い出そうなんて思いもしなかったろう。
レギオンがなかったら。
でも、レギオンはまだあるけれど、・・・勝てなかった。
だから、自分には、もう、何も出来ない。
たとえ、彩夏を連れ去られても、何も出来ない。
彩夏・・・。
瞼に思い浮かんだ彼女の微笑みが、刹那、レンの中で消えかけた闘志を再び燃え上がらせた。あの時、彩夏は何と言った?
「レンの意気地なし」
あの時は可愛い顔で睨まれて、とっさに意味も良く分からなかった。
なぜ、何も出来ない?
怖いからだ。
レギオンを失うことが。
自分が死ぬことが。
自分が死んで、彩夏が連れ去られてしまうことが。
彩夏を失うことが!
「う、おおおっ!」
レンは自らを鼓舞する様に吠えた。
レギオンを再起動すると、セラミックブレードを仕舞って無数に壁を這うケーブルの束に駆け寄った。ケーブルを足場にレギオンを上方に引き上げて、天井の鉄板を押し上げる。通りの中央で不意に捲れ上がった鉄板に、通りを行きかう人々が逃げ惑う。上方の鉄板の周辺にもはや誰もいないことを確認すると、レンは一気にレギオンでドブ板通りへと踊り出た。
レギオンのアクティブ・レーダーは、瞬く間に前方の彩夏のスニーカーに仕込んだ反射板の反応を捉えた。
今度は、こちらが追う立場だ。
レギオンは長距離射撃用の機体、どんなに目標が離れていようと逃がしはしない。
水素エンジンが高鳴り、たちまち戦闘巡航速度に達する。そして、レギオンの出現に慌てて道を開ける通行人たちの先に、彩夏の亜麻色の髪を見つけた。
「何で戻ってきたのよ!」
まぁ、追いかけて来たのであって、戻ってきた訳じゃないけど・・・。
彩夏は泣いている。
泣いて怒っている。
亜麻色の髪を振り乱し、クッションをきつく抱きしめている。
だけど、泣いてったって、許してやらない。
「こいっ!彩夏!」
泣きながら駆け寄る彩夏を、今一度、道端の自動販売機の陰に隠す。
多分、全ては一瞬で決まる。
「もう一度、勝負しろ!僕が勝ったら、彩夏は返してもらう」
濃紺のメイド服の女がゆっくりと振り向く。
咥え煙草で遠目に目を細める。
手にした煙草を足元に落として、爪先の丸まったエナメルの靴で踏み消した。
「いいだろう。でも、私のブレンダが勝ったら、今度は、ブレンダは坊やを殺さずにはいられないよ?」
前回、レギオンが振り下ろしたセラミックブレードの一撃を、あの機械猫は難なく掻い潜ってみせた。あの時、ヘッドセットの視界の先に、開かれた咢の奥の暗闇に鈍く輝く金属の牙がはっきりと見えた。
「望むところだ」
無意識に下がりそうになるのを必死に踏みとどまって、如何にか腹に力を込める。
声が震えている。情けないほど、自分でもはっきりと分かる。
押し寄せる闘気は、メイドか猫か?
彩夏を、彩夏だけは、守らなくてはならない。
「良い返事だ。・・・今度は手加減はなしだよ」
メイドの右手が、足元の機械猫の額を撫でた。
レギオンの主な多軸関節を動かす作動油圧は、ステンレス外装を持つ油圧ホースで供給されている。長さは機体の関節の位置に応じてまちまちだが、外直径30mmのホースが片足分だけでも10本以上、各関節から腰にあるそれぞれ独立したシリンダー部へと繋がれている。各シリンダーのホース毎に異なる油圧を調整する油圧管理システムと、油圧出力と電動機出力とのバランスをコントロールする統合駆動管理システムが、レンの手足の動きを忠実にレギオンの巨体で再現してくれる。
だが機動性に於いては、電動機だけで動く軽量な電気猫の跳躍スピードには勝てなかった。水素エンジン出力の僅かなタイムラグは、どうしても各関節の電動機アシストだけでは賄いきれない。静止状態にあるレギオンの瞬発力では、獲物を狙う電気猫の俊敏な動きについていくことは不可能だった。
たとえここで自分の命が尽きようと、それは構わない。
でも、自分が死んでも、彩夏は取り返せない。
だから、何としても勝たなくてはならない・・・。
レンは水素エンジンの出力は下げずに、一時的にシリンダー圧力を絞り込む。
高圧高温に耐えきれず、油圧レギュレータが悲鳴を上げ始める。
力を溜め込んだまま、末端の関節部で油圧が下がったレギオンの両脚が、たわんで沈む。
再び引き抜いたセラミックブレードを前傾したレギオンのバランスを取る様に、両手首を返して柄を突き出す様に剣先だけを引き戻す。
そして、銀の猫が、ゆらりと立ち上がる。
猫は、全高が下がって前屈みに構えるレギオンの首を刈る為に、飛び掛かり易いレギオンの左右正面方向からの跳躍か、それとも背面側からレギオンの頭上を高く跳ぶか。今やレギオンは破裂寸前のシリンダーに闘志を漲らせて、一度は敗れた宿敵を誘っているかの様だった。
猫が近づいてくる。
どんなに図体が大きくとも、今は毛皮の代わりに対レーザコーティングに覆われた金属の猛獣となっていようと、野生の本能を宿した猫ならば、前回よりもはるかに瞬発力を溜め込んだレギオンに気が付いているはずだ。
前回と同じく、猫がレギオンから数メートルの距離へと近づく。
先ほど、レギオンが初撃を躱された距離を過ぎる。
肉食の野獣のごとき機械の猫が放つ殺戮への衝動と、レギオンの放つ破裂寸前の爆弾の様な狂気。
銀色の機械猫の、跳躍が始まる。反時計回りに最初はゆっくりと、レギオンの右前、左前、背後と跳ねる。周囲に壁はなくとも、レギオンを中心に描く円の半径は変わらない。タイミングは変わらないはずだ。
右、左、後ろ。
右、左、後ろ。
右、左、後ろ。
きっちり120度づつ。着地する前足の踏んだ足跡を、次の瞬間正確に後ろ足がなぞる。想定した次の着地場所にいないとレンが気付いた時には、既にレギオンの首に機械猫の牙が深く食い込んでいるだろう。
徐々に、銀色の機械猫がスピードを上げる。
右、左、後ろ。
右、左、後ろ。
右、左、後ろ。
猫は本能でレギオンのセラミックブレードの反撃を、前回より大きなリスクとして認識しているはずだ。電動機に因らず暴発寸前の油圧シリンダが生み出す瞬発力は、レギオンの瞬発力を今や機械猫と同等以上に引き上げている。
猫は生まれ持った跳躍力を、機械の体で更に強化した地上最強の捕食動物として、二足歩行の霊長類が巨大化したかの様なレギオンの頭部センサを狙ってくる。そして、どんなにレギオンが疾くとも背後から跳躍する敵には、レギオンのセラミックブレードは届かない・・・。猫は、レギオンのセラミックブレードの届かない背後からその咢で噛み砕くべく十分に高く、跳躍出来る力を持っている。機械猫の研ぎ澄まされた咢は、レギオン頭部のセンサを一撃で使用不能に陥れるはずだ。
右、左、後ろ。
右、左、後ろ。
右、左、後ろ。
レンはヘッドセットの中で静かに目を閉じる。
視野から、軽やかに跳ねる機械猫のしなやかな銀色の奔流が消え、高鳴る水素エンジンの咆哮さえも消え失せる。
機械猫が一層、跳躍のスピードを上げる。
右、左、後ろ。
右、左、後ろ。
右、左、後ろ。
レンは背中が不意にぞくり、と感じたその瞬間、引き絞った油圧を解放する。レギオンは両手に握りしめたセラミックブレードで、自らの咽喉を深々と貫いていた。
鋭い衝撃が、レンを揺さぶる。
次の瞬間、目を瞑ったヘッドセットの中でも、瞬時にディスプレイが白濁し、雷撃の様に頭上にスパークが掛け抜けるのを感じる。セラミックブレードは、レギオンの頸部に深々と牙を食い込ませた機械猫の咽喉を、内側から串刺しにしていた。
レギオンの油圧レギュレータの安全弁が開かれ、自らの咽喉を突き刺したまま、黒々と劣化したオイルをまき散らして硬直する。水素エンジンの安全装置がアイドリングに移行して、無数の警告灯が明滅する。
レギオンの刺し抜いた漆黒のブレードの刀身を伝い、オイルではない鮮血がレンの首へと垂れて滴った。
どぅ、と音を立てて、力を失った銀の猫がレギオンの背中側に崩れ落ちた。
「坊や、『亜麻色の髪の乙女』をどこに連れて行く気だい?」
メイドはもはや動きを止めた彼女の猫の傍に膝をつくと、静かにレンに聞いた。
「何処かに、あんたらが生きて行ける所があるとでも?帝国も共和国もその娘を躍起になって探してる。・・・それはね、その娘に生きてて貰ったら都合が悪いからさ。坊やが連れて行こうとしているのは、その娘にとって死地に他ならないのさ。その娘にとって私と行く事だけが、生き残る道だよ?」
レギオンから飛び降りて、泣きじゃくる彩夏を抱きしめるレンには、メイドの言うことが嘘と一蹴するには余りに重く聞こえていた。
あの艦長は悪い人ではないかもしれないが、多分、余りに多くの物事を背負っているに違いない。国の為には彩夏を殺すことを厭わないのかもしれない。だが、マフィアに彩夏を渡しても、彩夏が助かる保障はあるのだろうか?レンには、何も分からなかった。確かなことなど、何もない。
「いいの。わたしはレンと行くって、決めたの」
いつの間にか彩夏はレンの腕の中で、猫の亡骸を撫でる緋色のメイドを見つめていた。
「レンを殺さないでくれて、ありがとう。わたしは、この人といくわ」
クッションを抱きしめ、頬を涙で濡らしているくせに、その言葉には何の迷いもなかった。
「ごめんね、ブレンダ。お前があんなに頑張ってくれたのに、おばあちゃんの遺言、守れなかったわ。・・・ごめんなさい、おばあちゃんの妹、助けらんなかった・・・」
濃紺のメイドは、二人が去った後、ぽつりと呟いた。




