星歴2012年12月5日、午前7時。
11.
星歴2012年12月5日、午前7時。
コロニーの外殻から中心軸方向に、商業地区のリングにまで至ったメンテナンスシャフトは、そのままドブ板通りの鉄板の下のメンテナンススペースと直交している。接続部分には二重の気密ゲートがあるのだが、これまでもレギオンを移動させる為に何度かハッキングして突破したことがあった。
レンはレギオンの左腕から彩夏を降ろすと、メンテナンススペースの中に造られた巨大な回線中継器の隙間にレギオンを押し込めて、カモフラージュ用に耐熱コーティングされた補修用シートを掛けた。この手のシートで応急処置された焦げ付いた機器は、実はメンテナンススペースの中ではさほど珍しくなかった。あくまで本来は応急処置用のカバーだが、中さえ直してあれば良いじゃないかという、ドブ板通りでは比較的ポピュラーな考え方で普及している。いつか、大事故が起こるに違いない気もする。
レンが手を差し出すと、彩夏はちょっと、恥ずかしそうにその手をとった。本当は、ドブ板の上を歩きたい。可愛い彩夏を連れて歩いたら、街の連中はさぞかし羨ましがるだろう。ついでにマフィアたちも寄ってくるに違いないのだが。
レンと彩夏は、所々にうっすらと非常灯の灯るなか道端の用途不明の機器のランプが瞬き、頭上の鉄板を道行く人たちの靴底が忙しなく叩いて、壁や床の機器の奏でるハム音と溶け合う中を歩いていった。
「先に上るから、後からついて来てね」
レンは何の変哲もない側溝に付けられた扉の前まで来ると、扉の横の作り付けのキーボードを叩いた。操作用のテンキーだけでディスプレイもない扉だったが、最後のエンターキーでロックが外れる音がして、レンが取手を引くと人ひとりが通れる程の横道が現れた。
メンテナンススペースからドブ板通りの最下層1階の各商店にだけは、直接出入り可能な管理坑が作られている。コロニーの居住者に対する管理規約では緊急時の避難用に居住者が整備、管理する必要が謳われているのだが、店によっては倉庫として便利に使われているか、必要もないので全く何も使っていないか、どちらかだろう。2層目から上の階にはこんなものはないので、これらの存在を知るのは1階の住人たちだけだった。1階の住人たち曰く、他層の若造共に何でわざわざ教えてやらにゃいかん、ということらしかったが、珈琲店のマスターは他の組合の爺さん連中よりは多少若くて頭も柔らかいらしく、厨房の床に奇妙な落とし扉を見つけたレンに「いつか、使うかもしれないから」と暗証番号と一緒に教えてくれた。もっとも、「誰にでも、聞かれたら教えるけれど、誰にも聞かれたことがない」だけらしい。
横穴の行き止まりに造られた、作り付けの金属製の梯子を上がる。もう一度暗証番号を叩いて天井についた扉を跳ね上げると、艦長に誘拐されてからほぼ一日振りに、しかも妙なところからレンが帰ってきてもマスターはさして気にした風でもなく、一言ぼそりと「お帰り」と言っただけだった。いつも通り厨房に置かれた丸椅子に掛けて、一人で新聞を読んでいたらしい。もう少し、気にしてくれても良い気がしないでもない。
「ただいま、マスター。悪いんだけど、チキン・サンドをひとつ、作ってくれないかな?実は下に友達を一人、待たせているんだ」
レンが自分の出て来た開きっぱなしの落とし扉を指さすと、扉の縁から彩夏が亜麻色の頭の上半分と目のところまで覗いて、マスターにコクンとお辞儀した。
相変わらず無愛想なマスターは、暇つぶしに読んでいたらしい紙の新聞の上から藪にらみの目で彩夏をじろりと見下ろすと、今度は新聞を畳んで厨房のカウンター越しに客の誰もいない店内を指し示した。どうやら、ご案内しろ、とのことらしい。
おっかなびっくりといった風で梯子を上ってきた彩夏に手を貸して、厨房の床の上に引き上げる。引っ張り上げた時に、彩夏の亜麻色の髪がふわりと広がった。
「おじゃまします・・・。あ、あの、済みません、変なところからおじゃましてしまって・・・」
すっかり恐縮している彩夏にも、マスターは一言、「いらっしゃい」と言っただけだった。
「レン? あの、やっぱり、お店の店長さん、怒ってる?」
窓際の席に彩夏を座らせると、横に案内したレンの袖を摘まんで、ひそひそと彩夏が聞いてきた。耳に掛かる息がくすぐったい。
「いや、あれが普通」
心配性の彩夏にレンは思わず微笑みながら、向かいの席に座って答える。
レンからすると、マスターより気になるのは艦長に如何やって連絡を取るかだった。電話番号ぐらい聞いておけば良かったかもしれない。問題は、マフィアと艦長、どちらが先にやってくるか?
「そ、そうなの?」
まぁ、確かに普通は気になるとは思うけど。
一見さんが訪れる様な店ではない気もする。だから儲からないんだな、きっと。でもマスターもあまり儲けるつもりはないのかもしれない。店の常連さんたちは街の年配のお客さんが多い。実はドブ板通りの周辺は、住民の年齢層が高めだった。ゆったりのんびり世間話に講ずるお客の為に、マスターはこんな朝早くから店を開けているのだと思うが、流石に開店したてはまだ誰も来ていない。
「そう」
珈琲店の中は、カウンター席の後ろに置かれた古い電気ストーブから柔らかな熱気が周囲を満たし、朝の冷気からお客を守ってくれている。レンたちの他にお客はいないので、寧ろ自分たちだけというのが、ちょっと気が引けるけれども。
「でも、普通、あんなところからお店に入ってきたら、怒らない?」
この窓際の席のあたりでは、ほのかな温かさという程度だったが、十分に心地よいものだった。まだ、気にしているらしい彩夏が聞いたが、それは確かにお客さんは普通はドアから入ってくる。レンガを模した店の外観に、古びた木の看板が掛かっている。そして、ドブ板通りの喧騒から取り残された様な古風な店内。
「大丈夫みたいだよ?」
レンのいい加減な答えに彩夏はひとつ肩をすくめると、今度はそわそわと店内を見渡している。揺れる髪が優しげだった。冷えた屋外からこの店内に入って来て、頬を僅かに上気させている。炭酸硝子越しの柔らかな光は、彩夏の白い肌を淡く縁どって、亜麻色の髪を優しく照らしてくれていた。
「そうなんだ・・・」
それに、今はレンのお古の厚みのあるオイルセーターに身を包んでいるが、セーターと昨日から着た切り雀のツナギの下は、神がかった造形美というか、儚い妖精の様な白く滑らかな肢体が隠されている・・・。思い出すのは彼女に悪い気がして、レンは未だ目に焼き付いている光景を如何にか頭から追い払った。
「それより、彩夏にチキン・サンドを頼んでおいたよ。約束だからね」
チキン・サンドを待つ間も、何より彩夏と一緒に居られるのがうれしかった。でも、一緒に外を歩けたら、どんなに楽しいだろう。彼女はこうして見ていると普通の女の子で、でも普通よりはかなり目立つというかとても可愛くて、ドブ板通りを行きかう男共が皆振り返ることだろう。
「あ、ありがとう」
オリーブオイルでニンニクを炒める香りが、狭い店内から暫しコーヒーの香りを追い出すと、続いて、鶏もも肉を炒めるちょっと油っこい香りに取って替わる。最後に再び、芳醇なコーヒーの芳香が店内を満たし始めた。次々と変わる香りの彩に、二人はわくわくを抑えられない。取り留めもなく、昨日の缶詰のスープや、彩夏の作るポトフの話をしながら、レンは実のところ彩夏の楽しそうなところを見られれば、それで十分に満足だった。
やがて、マスターは自ら大きなお盆の上に、カップになみなみと注いだコーヒーと、チキン・サンドを二組載せて持って来てくれた。
「ありがとうマスター、僕の分まで作って貰っちゃって」
マスターは流れる様な手つきで給仕してくれる。
「今日は、お客だからな」
瞬く間に、窓際のテーブルがコーヒーやミルク、チキン・サンドやくるくると巻かれた白いナフキンが並べられた。それらが、マスターのその道数十年のキャリアを物語っている。
「わぁ、おいしそう。いただきます」
期待で満面の笑みを浮かべた彩夏がそういうと、マスターは相変わらず無愛想に頷いて帰っていった。
「おいしい・・・」
彩夏は両手で掴んだチキン・サンドに、一口分だけかぶりついて、飲み下すと同時に呟いた。スライスしたパンは、昔からの馴染みの通りのパン屋で朝一で焼かれたものだ。小麦はコロニーで自給自足が成り立つ数少ない穀物の一つで、そのパン屋もこの珈琲店と同じくらい古い店だった。パンにはたっぷりとバターが塗られ、レタスと香ばしいチキンが挟まれている。
「コーヒーも飲んでみて」
レンは自分も一口、口に含むと、芳醇な味わいが広がった。
悔しいことに、マスターの手つきをまねて、同じ豆同じ器具で入れても同じ味にならない。まだまだ、修行が足りないということなのだろうか。
レンも、久しぶりにというか、一日振りくらいでマスターのコーヒーを口にした。丸一日、いろいろなことがあったのに、この味は何も変わっていない。
世の中が移り変わり、否、変わらなければやっていけないだろうに、この味だけはこれからも変わらないでいてほしい、そんな気がした。
カラン、とマホガニーのドアに掛けられたベルが鳴った。
バイトの癖で、自然にそちらに目を遣ると、入って来たのは金髪の艦長だった。倒れたレンの救急車に付き添ったことになっているので、そのお礼を言いに出て来たマスターに、しれっと「当然のことですわ」とか言いながらマンデリンブレンドを注文している。レンが内心呆れつつも艦長とマスターの遣り取りを観察していると、シェトランドもレンたちを目敏く見つけて、にこやかに歩み寄って来た。
「久しぶりね、レン。ここ、良いかしら?」
艦長はレンと彩夏二人が向かい合って座る、窓際の4人掛けのテーブルの横まで来ると、彩夏の横の椅子を指して聞いた。何となく既に、レンの正面に座る彩夏から不満そうな波動が感じられるのは、気のせいだろうか。
「ごめんなさいね、お邪魔しちゃって。わたしはシェトランド・ベオグラード。あなたを連れて来てくれる様、レンに頼んだクライアント。初めまして、彩夏・レインさん。」
艦長は相変わらず美人で、しかもそつない。今日もさっとコート脱ぐと、自分の膝に載せて、彩夏の隣に腰を下ろした。思わず、彩夏を連れて行くのに今日は気絶させたりしないよな、と気になる。
「・・・初めまして、ベオグラードさん」
彩夏の方は、艦長の出現に不機嫌そうな感じがありありと出ていて、ちょっと背筋が寒くなる。丁度、マスターがシェトランドにコーヒーを入れて持って来てくれたので、少し場が和んだので助かった。シェトランドがコーヒーを飲みながら続けた。
「本当は私もチキン・サンドを頂きたいところだけど、今日はコーヒーが精いっぱい。表のマフィアたちも、店内にいきなりあなたたちが現れたから、大慌てなのよ。見張っていた下っ端は、通報を発する前に、気絶させて縛ってきたけど」
さり気無く、危ないことを言ってくれる。
「ここから、星船までは、大丈夫ですか?」
押し黙った彩夏が隣の艦長を無視して、目の前のチキン・サンドの残りを平らげているのを、ちらと見ながら聞く。
ちょっと怒った感じの顔も可愛らしい、とは思うがどちらかと言うと目の前の二人の間の緊迫感というか、一方的に彩夏から発せられている不機嫌さで、レンとしては気が気ではない。
「部下たちがガードする予定、だったのだけど。・・・やっぱり、あなたたちだけで、コロネルまで来て頂戴ね。ほら、お客様が来たみたい」
シェトランドは何の通信も受けていた様子はなかったが、彼女が指さす先には、確かに、表通りを歩んでくる大型の装甲歩兵の姿が、お店の炭酸硝子越しに歪んで見えた。どうやら、マフィアより先に艦長に会えれば助かると考えていたのは、ちょっと甘かったらしい。
「あなたたちは、来たところから出てね。あんなデカブツ使ってこのお店を壊されちゃたまらないから、私は表からでるわ。あ、マスターごちそう様でした。コーヒー、おいしかったわ。お代は此処に置くわね」
シェトランドが取り出した紙幣を1枚、コーヒーカップの下に挟み、立ち上がって軍用のコートを羽織ると、包んでいたコートから出てきたのは小型のミサイルランチャだった。反対側の手でコートのポケットからも大型の軍用拳銃を取り出すと、レンたちを振り返った。
「出来るだけ早く、コロネルまで来て頂戴ね。じゃ、また後でね」
あのコートのポケットには、やっぱり、物騒な物しか入っていないらしい。
「・・・すごかった、ね」
金髪の後れ毛が店のドアの向こうに消えると、驚きで不機嫌さを忘れてしまったらしい彩夏が目をぱちくりしながら言った。
そういえば、昔、爺さんが言っていた。女ってのはな、怖いんだぞ、と。ちょっと違うかもしれないが、ここ一日程の経験で、何となく解った気がした。
「そうだね。うん、でも、僕らも退散しよう」
レンはマスターにお礼を言うと、先に彩夏を厨房の管理抗に降ろした。相変わらず、迫りくる外の装甲歩兵にも再び妙なところから逃亡を図るレンたちにも、マスターがまったく気にする風のない辺りが、レンとしては何とも気になって仕方がない。
「そ、そうだ、チキン・サンドのお金、今度、払いますから」
管理坑の扉から、マスターを見上げて言った。
「気にするな。お前のバイト代から天引きにしておく」
厨房の奥の丸椅子の上の定位置から、そんな返事が返ってきた。
追ってきたのは、乾燥重量にしてレギオンD4の倍はあろうかという、強襲型の装甲歩兵だった。レギオンD4と同等に年期が入った中古品らしいが、全身をくまなく分厚い鋳造の曲面装甲で覆い、更に正面には爆発反応装甲を追加した巨体だ。マフィアとしては、装甲歩兵に対抗するには同じ装甲歩兵、それも戦力として勝る重量級ということで、この追っ手を差し向けたのだろう。
なのだが、どちらにせよ、あの図体ではドブ板の下には入ってこられない。
レンたちが何処から珈琲店に入って来たのかは、マフィアたちの方は把握出来ていないらしかった。
マフィアの増援部隊と、シェトランドの部下たちの斉射する銃撃音が交差して、レンたちの頭上でドブ板通りは騒然となった。大型の両手斧を装備した重装装甲歩兵が、マフィアたちを掻きわける様に進み出てくる。マフィアたちは、装甲歩兵を押し立てて珈琲店に突入する気らしかった。装甲歩兵が斧を両手で垂直に振りかざしながら片足を踏み出した瞬間、街角でミサイルが炸裂する爆発音が響いて装甲歩兵の巨体が不意に力を失って後方によろめく。装甲歩兵が片足を完全に吹き飛ばされて、斧を仲間のマフィアの頭上に放り出しながらドウッと倒れた。
商業区画のリング全体を揺さぶる様な振動で、ドブ板の下を駆け抜けるレンたちの頭の上にも、ボロボロと埃やら何やら、割れた照明器具やらが降ってきた。レンは手を引く彩夏を抱き寄せて彩夏の頭を庇いながら、もうもうと立ち込めた埃の中を、レギオンの元へと走った。




