星歴2012年12月4日、午前10時。
プロローグ
地球から見えるエリダヌス座は、星座としては6番目に大きな星座で、南端の一等星アナケナルを始め多くの恒星で形作られている。星座の由来はイタリアを西から東に流れるポー川を象り、そのギリシャ語名がエリダヌスだった。アナケナルというのも、アラビア語で『河の果て』という意味で、オリオン座の西から流れ出したエリダヌス川が、アナケナルで終わる事に依る。
アルプス山脈を源流にアドリア海に注ぐ、長大な川の流れ。もっとも、星座というのは地球から見た視野角で括られているだけで、その星々同士が近くに存在している訳でもない。同じ星座で一つの川を形作ってはいても、地球から遠く百数十光年を超える深淵にあるアナケナルと、全天の恒星の中でも9番目に地球に近いイプシロン星とでは、銀河平面に於けるその実際の位置には大きな隔たりがある。
地球太陽系を旅立った人類は、ほぼ太陽系から近い順にその版図を広げていった。これは、アナケナルなど宇宙の深淵に未だ見る以外には何の術もなく、比較的太陽系に近いプロクシマやバーナード、シリウスやプロキオンに戦禍が巻き起こり、エリダヌス座イプシロン星系が人類の暮らす最外縁であったころ、星歴2000年代初頭の物語・・・。
第一章 「時の娘」
緩やかな衰退の時代。
列強の多くは拡大から縮小均衡へと政策を変え、辺境の多くの宙域で物流が止まり、情報が滞り始めていた。人類の版図のいたるところで、巷でも自然発生的に且つ、まことしやかに、『種の寿命』といった言葉が議論されていた。
一方で、そんな潮流に逆らったり、意図せず取り残されたりする場所もあった。
かつてはポート・ビギニングと呼ばれたスペース・コロニーで、エリダヌス座以遠セクタへの遠距離航路の中継地点として栄えたこの港町も、今では大型船舶用のドックを閉ざし、そのほとんどを臨時の居住地や農地へと転用していた。ここでは長引く動乱で流れ込んだ避難民と、開拓地で根付くことが出来ず、かといって出身惑星まで戻る金もない元移民たちで当初の設計値を超えて大幅に人口が増えており、喧騒と多大なエネルギー消費を続ける周辺唯一のコロニーとなっていた。
1.
ジュッ、という音で、次の数分間の環境の変化を告げるのは、店の定番のチキン・サンドだ。瞬時にコーヒーの香りを駆逐してしまう。
レンは、昼は家の近所の珈琲店で調理師見習いをしている。時折、調理の際の食欲をそそる香りに追いやられるが、店の中はいつも、このコロニーでも老舗の珈琲店だけあって普段はマスターの入れるコーヒーの芳香が満たしている。
マスターの作るチキン・サンドは、ニンニクとオリーブオイルで香り付けされた鶏肉がジューシーで、多分、自分の十数年の人生の中で食べた中では、最高にうまい食べ物だと思う。何故、あんな無愛想な親父があれほどのチキン・サンドを作れるのか、この店で働くレンにはそれが一番の疑問だった。
静かだが鮮やかな香りに彩られた薄暗い店内はとても狭くて、厚みのある炭酸硝子の格子窓から注ぐ太陽灯の日差しは余りに弱くて、多分、ここに来るお客さんは少なくともそれが人工の光であっても、お天道様の下では歩けないか陽気な気分を毛嫌いする、まっとうな感覚の欠如した人たちに違いない、レンは最近そう理解している。
そんなお客の中にもごくたまにだが、マスターの入れるコーヒーでも、それだけで美味なチキン・サンドをあてにしている訳でもない人もいる。もちろん、その客もコーヒーを頼むのでマスターとしても文句はない訳だが、そんな客の目的はレンだった。調理師見習いをしているだけで食って行けなくもないのだが、レンがいるのを知って頼みにくる客の持ち込む機械修理の仕事が、今のレンの副業だった。レンの祖父の家は街の修理屋で、まだ幼い頃、父を亡くしてレンが引きと取られた時には、祖父の家の小さなガレージには既に骨董品と見間違う様な機械の山が堆く積まれていた。初めてガレージに連れていかれた時、奥へと歩いていく祖父の背中を見つめながら漠然と、この山が崩れてきたら間違いなく死ねるなと思ったことを覚えている。2年前、丁度祖父が亡くなる一週間ほど前に、大きな背中を丸めて旧式なラジエターの銅製のパイプを銀蝋付しながら、自分が死んだら、このガレージの中身は全てお前にくれてやるみたいなことを言っていた。体格ばかりでなく風邪もひかないやたら頑丈なじいさんだったから、その時は笑って適当に返事してしまったが、今思えば、何かを察していたのかもしれない。
他に客がこず、修理を急いでいるらしい時は、マスターが気を利かせて早く上がらせてくれることもあった。店が休みの日は街に機械修理の御用聞きに出かけて、帰りにドブ板通りの闇市のジャンク屋の軒先を冷やかすのがレンの日常だったが、たまにレンからマスターに一週間程度の長期休暇を願い出る時もある。それはレンの副業の更に副業みたいなものだったが、一度として店が忙しいからダメと言われたこともなかったのが、レンとしては自分がいてもいなくても良い様な気がして、そんなマスターのそっけない対応が、ちょっと気になってはいる。
星歴2012年12月4日、午前10時。
銀河標準時で設定された日時は、コロニーの気候を晩秋の冷え込みに変えつつある。
「いらっしゃいませ」
カラン、とマホガニーのドアに掛けられたベルを鳴らして入ってきた客は脱いだ軍の支給品のコートを受け取ろうと近づいたレンを片手で制すると、ブーツの踵を音高く鳴らして足早に窓際の4人掛けのテーブルを占領してしまった。まぁ、他に客もいないので、良いといえば良いのだが。
通路側の座席に座り、今は隣の窓側の座席に置かれたカーキ色の丈の長いコートに隠れていたのはこぼれる様なプラチナブロンドで、美貌を冷たい印象で隠したとんでもない美人だった。座席に滑り込む時、長身の腰まである冬空の冷えた空気を纏った様な金髪が、さらさらと音を立てた気がした。
これはどうやら、ある意味まっとうではない、そういう客の部類らしい。
この辺りでは見かけない年上の美女に対する純粋な憧れと、半分は怖いもの見たさで、このまま見とれていたい気もしたが、どんな客かは一切気にしていないマスターが、厨房の奥からさっさと注文を取れと目線で急かせている。マスターは無愛想だがやたら律儀な男で、少しでも手を抜くという考えのない店主だった。ただ、マスターには少しはいろいろと気にして貰いたい気もするが、確かに注文を取るのは自分の仕事ではある。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
外側だけは無駄に厚みのある古びた革張りのメニューから彼女が視線を上げた瞬間に、すかさず注文を取る。声を掛けないと怒るお客もいるが、声を早く掛け過ぎても怒る客はいる。この珈琲店で働く様になって、ここ数か月で学んだことだ。お客の年齢層の比較的高いこの店で、若いお客は一見さんと考えて良い。気難しい常連客が多い中、にこやかな接客で若いお客にももう一度来ても良いと思ってもらうことが、内心ではレンの目標だった。それがたとえ、小柄な自分より長身で、この店には不似合いな程の美人さんであっても、だ。
「チキン・サンドと、コーヒーのセットをお願いするわ」
彼女はちょっとハスキーな、それでいて良く通る声で、注文には全く迷いが感じられない。座席から上目がちに見上げる視線は、店に来た時の怜悧な印象と打って変わって、悪戯っぽく魅力的だった。顔には接客用の笑顔を張り付けつつもかなり気構えていたレンは、思わず口ごもりながら復唱すると、彼女の返してくれたメニューを小脇に抱えた。
窓際の席であっても、窓のガラス越しにテーブルに伸びた格子の影は薄く、ごく僅かだった。元々コロニーの旧市街の辺りは、時間帯に関わらず太陽灯の光は垂直にしか照らしてくれない。店の面した通りのアーケードの上方に固定された反射鏡が、透明なアーケードと店の炭酸硝子のくすんだ薄い水色のガラス越しに、僅かな陽光を投げかけてくれている。厨房の奥では、レンが伝えるまでもなくマスターがチキン・サンドを焼き始める音が聞こえていた。
「チキン・サンドと、コーヒーは、当店の定番メニューなんですよ」
テーブルに並べたセットを前に、レンは少し上気して説明していた。褒めて貰ったチキン・サンドもコーヒーも、自分が作ったものではないけれども。自分の働く店の味を褒められるのは、たとえ見習とはいえうれしいことだった。それに、こんな美人と単に注文以上のおしゃべりが出来るのは、願ってもないことだ。レンは頭の片隅で考える。日頃の、店で無益な時間を楽しむ気難しいおじ様方との接客の成果か、それとも日々の行いを見ていた神様のご褒美か、はたまた単に目の前の美人さんの心が広いだけなのか。
「そうなの。チキン・サンドもコーヒーも、とても、おいしいわ。船にもコーヒーはあるのだけれど、やっぱり本物は違うわね」
彼女は北欧系の鼻筋の通った顔立ちで、長い睫毛に縁どられた切れ長の目は、深い濃緑色の瞳にいつも無邪気な輝きを宿している。時折、テーブルの横で今は銀メッキのお盆を抱えて立つレンを見上げる視線が絡まる。ドクン、と心臓が高鳴る音がする。まるで、緊張と興奮を天秤に掛けている感じ。この店には場違いな美人だっただけに来た時は怖い人かと思ったが、どうやら冷たい印象は単なる軍属という彼女の職業柄だったようだ。
「お客様は船乗りさんなんですね。もし宜しければ、当地にお越しの際はまた、お立ちよりくださいませ」
レンは、我ながら流暢なセリフだと思う。
ふふっと、彼女は少し笑う様な仕草を見せて、残りの少なくなったコーヒーカップを手に取った。海を渡る船も、星の海を往く星船も、ここらでは総じてその乗り手を船乗りと呼んでいた。もちろん、このコロニーに立ち寄るのは後者だけだ。
そして人々はこのコロニーの浮かぶ宇宙を、海と呼ぶ。永延と連なる砂丘、生き物の影ひとつない広大な砂漠を敢えて青々と広がる海原にたとえるのも、あるいは無数の星々に照らされた酷寒の世界、宇宙の深淵を往くロケットを星船と呼び、その乗り組み員を船乗りと呼び習わすのも、その場所を形造る組成や属性が、似ているからだけではない。たぶん、その虚無が、そのただ中に放り出された人々が覚える孤独が、同質だからなのだろう。その隔絶は、何れも人を死に追い遣る。
「ぜひ、そうさせて頂くわ。でも、意外と早く、会えるかもね・・・」
彼女は残った最後のコーヒーを飲み干した後も、名残惜しそうに微笑んで、瞳を閉じたままカップをソーサー戻そうとした。
カチャンと、カップに押されたコーヒー・スプーンが跳ねて、古びた机の端からレンの立つ通路側に落ちた。一期一会とはいうが、ましてや相手は船乗りで、せめてこの店を出る前にもう一度だけ彼女のお礼を言う声を聴きたくて、レンは急いで彼女の足元にひざまずくと、通路に落ちた銀のコーヒー・スプーンに手を伸ばした。
なぜか、背筋がざわめく様な気がした。冬空を渡る風が、締め切った店内の古びた空気を押し退けて吹き込んだ様な。
「大丈夫です、こちらで片づけますので・・・」
ひざまずいて手を伸ばすレンに申し訳ないと言う様に、少し屈んだ彼女の指先がレンの肩に触れ、レンはそのままバランスを失って通路の床に転がった。
抱えていたお盆が床に緩やかな弧を描き、隣のテーブルの脚にぶつかった。
彼女に無様な姿は見せたくない、ふと、そんな事を思った。
遠くで、少しハスキーな彼女の声が聞こえていた。
「大変、心臓発作だわ。今、救急車を呼んだから、大丈夫。ほら、もう来ました。心配なので、私も付き添いますわ。あ、お代は此処に置きますね。本当においしかったわ。ごちそう様でした!」